人類拡散と進取の気性・ネアンデルタール人論18

 現代人は、生きのびようとする自己意識を基礎にして人間を考える。しかしネアンデルタール人をはじめとする原始人は、死者を思いながらこの生からはぐれてゆき、そこから生きはじめ、心が華やいでいった。そうやって、人と人が他愛なくときめき合ってゆくことを第一義的な生の作法にしていたわけで、生きのびるための経済活動は二の次のことだった。
 生きのびようとする自意識は現代人の観念のはたらきであり、原始人はそんなことにあくせくして歴史を歩んでいたのではない。生きのびるためなら、地球の隅々まで拡散していったりはしない。それはもう、ほとんど自殺行為だった。猿よりももっと弱い猿だったのに、猿にはできない拡散という歴史を実現してしまった。猿よりも弱いくせに、心は猿よりも不埒だった。
 原初の人類は、猿よりも拡散する能力を持っていたのではない。猿よりも心が不埒だったからであり、それは進取の気性と言い換えてもよい。その心模様だけで拡散していった。
 原初の人類のような弱い猿が生きのびることにあくせくしていたら、拡散してゆけるはずがない。
 これは考古学の証拠が示していることだが、アフリカを出て行ったのは、サバンナにおいてもっとも進化していた人種ではなく、もっとも貧弱な形質のものたちだったのです。
 彼らは生きのびるための新天地を求めて旅立っていったのではない。生きのびることなど忘れたお祭り騒ぎを体験しながら拡散していったのです。そういうお祭り騒ぎの「もう死んでもいい」という心地にならなければ、原初の人類のような弱い猿が拡散してゆけるはずがない。
 たとえば、この国の飛鳥時代の遣隋使なんか、生きて日本列島に戻ってこられる保証なんかなかった。誰もが「もう死んでもいい」というお祭り気分で荒海を渡っていったのです。太平洋戦争で南方の戦地に送られた兵士だって同じでしょう。けっきょく生きて戻ってきたのはごく少数だった。
 人類は、「もう死んでもいい」というお祭り気分に浸ってゆくことのできるメンタリティを歴史の無意識として持っている。そこから文化文明が花開いてきたのであって、生きのびようとする「労働」の成果であるのではない。
 労働史観なんて、まったく愚劣だし、歴史の真実から大きく外れている。
 この生の通奏低音として「いつ死んでもいい」という感慨を無意識の中に持っていた原始人にとっての生きることは、お祭りの遊びだった。下部構造決定論や労働史観では原始人の生き方は語れない。人間は二本の足で立ち上がったときから、お祭りの遊びで生きる存在になっていった。
 生きることをお祭りの遊びにしていたから、どんなに住みにくいところにも住み着いて地球の隅々まで拡散していったのです。生きることが生きのびるための労働であるのなら、そんなことはけっして起きていない。


 現代人は、よき社会よき人生よき人間性を語ろうとする。
 自分たちがよき人生を生き、よき人間性を持っているつもりなのだろうか。
 人生にいいも悪いもないではないか。
 人間性の本質・自然にいいもわるいもないではないか。
 表層の感じ方や考え方において人それぞれの違いがあるとしても、誰もがその無意識に人間性の本質・自然を持っている。
 ただしここでいう「無意識」とは、それぞれの体験によって刷り込まれてしまった「トラウマ」とか「深層意識」のようなものではありません。人間としての自然というか本能のようなもののことを考えています。生きてあることの根源のかたち、というのか、どんな賢人であれどんなだめ人間であれ、誰もが等しく持っている「人間性の自然」というものがあるはずです。
 それはきっと、脳の研究や人工知能の開発などの科学の問題でもあるのでしょう。そういうアプローチで「人間性の自然・根源」について考えたいのです。
 こんなことは、幸せでよき人生を生きている人にはどうでもいいことでしょう。
 しかし人はときに、自分がこの世でもっとも不幸な存在とかもっともだめな人間だと思わせられることもある。
 もっとも不幸な存在やだめな人間でも生きていかないといけない。世界や他者にときめいているのなら生きるしかない。幸せになりなさいとか賢く立派になりなさいといわれても、そんな未来のことよりも、とにかく今ここのネガティブな状況をどう生きればいいのか?そちらのほうが大問題です。
 幸せになるとか立派な人間になる未来が約束されているわけではないし、そうなるまで生きてある保証もない。
 人は、さびしいとかつらいとか苦しいとかと感じれば、それが永久に続くように思い込んでしまう。そのとき人の願いは、幸せになるとか立派な人間になること以前に、このさびしさやつらさや苦しさを抱えたままどう生きればいいのかということにある。
 このさびしさやつらさや苦しさを抱えたまま生きるすべはないのか?
 人は、さびしさやつらさや苦しさを生きようとしてしまう存在です。お幸せな人にご立派な教訓を与えられてもそのとおりになんか生きられないし、その教訓が人を苦しめる場合だってある。
 まあ僕なんかただのだめ人間だし、だめ人間として生きることしかようしません。
 だめ人間のくせに、ご立派な教訓に対して、何を程度の低いことをほざいてやがる、と思ってしまう。


 この社会はよき社会であらねばならないのか。
 われわれのこの生は、よき人生よき人間性であらねばならないのか。
 それは、そういう「よき」ということに限定され決定された世界に閉じ込められていることでもある。
 われわれの無意識は、他者の存在そのものにときめき許している。無意識は、よき人生よき人間性とわるいそれとの選別なんかしない。ひとは、ひたすら存在そのものにときめいてゆく心模様を無意識として持っている。だからこそ、われわれだめ人間は立派な人間になることができない。
 よき人間の価値を信奉できる人はよき人間になることができる。
 しかし人は、根源・自然において他者の存在そのものにときめいている。存在そのものにときめいてしまったら、よき人間になんかなれない。よき人間になることを目指すことに邁進できない。
 だめ人間は怠惰で横着です。ただ生きているだけの存在です。しかし因果なことに、ただ生きているだけでときめきがある。
 そして人は、どんな状況も受け入れることができる。
 ただ生きているだけの人間なんか人間じゃないといわれても、ただ生きているだけの人間だって世界にときめいているのであり、世界にときめいていれば死ぬわけにはいかない。
 ときめくことは、自分を忘れてしまうことです。他愛なく自分を忘れてしまうから、立派な人間になることに精進できない。
 このときめきを削り落とせば、立派な人間を目指すこともできるのだろうが、つまらないほんの些細なことにもときめいてしまう。
 いいかえれば、立派な人間は世界に対するときめきが薄いともいえる。
 よき社会よき人生よき人間性の価値を合唱しているなんて、なんかニヒルだなあ、と思わないでもない。そんな世の中の合意に踊らされて生きてきたから鬱病にならないといけない。人間はどんな状況でも受け入れることができる存在なのに、受け入れられなくて鬱病になる。そんな例が現代社会にたくさんある。
 どんな重度の障害者でも世界にときめきながら生きていられれるというのに、人生が思い通りにならないから鬱病になるなんて甘ったれたことをいうんじゃないよ、という話にもなる。
 また、ただのみすぼらしい庶民のくせに、虚勢を張って立派な人間ぶることもないだろう、ともいえる。
 よき社会よき人生よき人間性の価値を合唱している世の中だから、そこから追いつめられて鬱病にもなる。
 現代社会は人間性の自然・根源から外れてしまっていて、われわれはもう綱渡りのような危うい生き方を強いられている。自然・根源のまままに生きることはとてもむずかしい。よき社会よき人生よき人間性の価値を信じ実現することが人間性だといわれても、なんだか考えることが薄っぺらだなあ、と思ってしまうのはたぶん僕だけではないはずです。
 僕にとってはそんな人格者や賢人よりも、ネアンデルタール人やこの世のもっとも弱いものから学ぶことのほうがずっと深く豊かです。
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