人間性の自然に・ネアンデルタール人論17

 ネアンデルタール人について考えるとき、人類拡散はとても大きな問題です。それは原初の人類が二本の足で立ち上がったときからはじまっていた生態であり、彼らは、その700万年の歴史を背負って氷河期の北ヨーロッパに住み着いていた。
 今どきの人類学者は、歴史のイノベーションを解説するときに、すぐ「遺伝子の突然変異が起きたからだ」と言ってくる。直立二足歩行だって、そういう言い方をする専門家がたくさんいて、アマチュアもそれを真似して賢いことを言ったつもりになっている。彼らによれば、平仮名が生まれてきたことだって遺伝子の突然変異の結果なのでしょう。
 彼らは、人類がホモ・サピエンスの遺伝子をもったことは特別な進化発展だったと思っている。べつに「ホモ・サピエンス」という名の遺伝子があるわけじゃないし、ネアンデルタール人だってちょっと風変わりなホモ・サピエンスだっただけなのに、どうしてそんな考え方をしたがるのか。ネアンデルタール人を基準にすれば、拡散の歴史を持たないで700万年前からそこに住み着いていたアフリカのサバンナの民こそちょっと風変わりなホモ・サピエンスだったともいえる。


 サバンナの民は、700万年の歴史とともに、みずからの環境と深く調和していた。
 それに対して拡散していったものたちは、住みにくいところ住みにくいところへと移動していったのであり、人類は拡散すればするほど環境との調和を失っていった。
 環境との調和を失ったところで生きていたのが、拡散していった人類の生態だった。
 環境すなわち世界、人は世界から「許されていない」存在なのです。「許されない」存在として生きて、地球の隅々まで拡散していった。
 だから人間社会には犯罪がある。「ルールは破られるためにある」とはよくいわれることです。つまり原始人は「許されない」存在として生きようとする衝動で、移住していった先が住みにくい土地であることを厭わずに拡散していった。
 赤ん坊が二本の足で立ち上がることだって、子供が何度も転びながら自転車に乗れるようになってゆくことだって、つまり人間にとって技術や知識は失敗したり「わからない」という不安と混乱に身を浸したりしながら習得してゆくのであり、それは「許されない」という状況を生きることにほかならない。人間は猿にはないそういう生態を持っているから、知能というか文化・文明を進化発展させてきた。


 子供が犯罪者になったり精神を病んだりすれば、善意の評論家は、「子供はどこかで悲鳴を上げていたはずだ、<自己防衛>として精神を病んでいったのだ」という理屈を差し出す。しかしそんなことをいったって、「自己防衛」の能力を持つ幸運に恵まれる子供なんてそうたくさんはいない。自己防衛の衝動があるなら病みはしない。自己防衛しなかったから病んでいったのでしょう。自己防衛しないまま気がついたら病んでいた。悲鳴を上げられるような自然を持っていたら病みはしない。
 人間は生きられない状況を受け入れ生きてしまう生態を持っている。それが、人類拡散の伝統です。
 秋葉原事件の加藤君は、親からそうとうひどい虐待的な「しつけ」を施されて育ったらしい。それでも彼はそれを受け入れ、いわば親のコピーになってしまった。そうしてコピーになってしまったことの閉塞感が爆発した。「自己防衛」で心を病むなんて、論理矛盾です。彼はもう、自己防衛できるような自然を失ってしまっていた。このへんの仕組みはややこしい。自己防衛できないくらい自分に執着してしてしまっている。自己防衛とは自分を振り捨てることであって、自分に執着しながら病んでゆくことではない。生物学的にいえば、彼らは親から受け継いだ遺伝子に執着した結果として病んでいったのでしょう。
 そうして秋葉原事件が起き、憑き物が落ちたように冷静になった加藤君は最近、あれこれ犯罪者の心理や環境について語っている。そういうかたちで「突然変異」が起きた。そのとき彼は、それまでの世間並みのというか制度的な「許される存在でありたい」という願いを振り切って、「許されない存在」として生きはじめた。ここんとこは重要だと思います。これが、人類拡散の伝統です。
 世界に「許されている」ことはけっして救いではない。人は、許されている存在であろうとして精神を病む。
加藤君はそのとき「許されない存在」であろうとした。


 ブログを書いていると、「自分は許されているか?」ということがいつも気になります。
 自分はこの世の許されていない存在だと思うとき、この世に対する反応をやめるのがひとつの防衛策になる。
 しかし、「反応をやめる」というのはかんたんなことじゃない。引きこもっていても解決にはならない。引きこもりながら、反応してしまっている。どうしても、どこかで世界や他者にときめいてしまっている。人間なのだから、しょうがない。
 人間は、受動的であるほかない存在の仕方をしている。
 だったらもう、許されていない存在として生きるしかない。
 許された存在になんかなれない。すくなくとも僕には、許してくれる対象(=神?)は見えない。
 許してくれる世界など存在しない。「許されないもの」として生きるしかない。許されていないことを許すしかない。ひざまずいてゆくしかない。
 反応しないで生きてゆくことなんかできない。
 自分を許さない世界にひざまずいてゆくしかない。和解できないというかたちで和解してゆくしかない。
 この世のもっとも弱いものになるしかない。
 誰だって許されたがっているのかもしれない。自分が許される世界(社会)を渇望しているのかもしれない。それでも人は、根源・自然において「許されないもの」として生きようとする衝動を持っている。人間はそういう「不埒な」存在でもある。世界には私を許さない権利と資格がある、それは不当だと訴える権利と資格は私にはない……人の自然はそういう地平に引き寄せられてゆく。そうやって人類拡散が起きてきた。
 二本の足で立ち上がった原初の人類はいったん猿よりももっと弱い存在になり、と同時に猿よりももっと不埒な存在となって拡散していった。
 人間はもう、世界に許されていない存在として生きてしまう。なのに加藤君は、許された存在であろうと願いながら生きてしまった。そこに彼の不幸と不自然があった。度を過ぎた母親の偏執的な「しつけ」は、彼を「許された存在であろうと願う」ところに追いつめてしまった。そしてその願いが反転して爆発した。
 そのとき彼は、「私」を許す世界など永久に存在しない、と思い定めて犯行に踏み切った。


 人は、どんなに世界との調和を失っても、それでも世界にときめいている。ときめいてしまっていることから逃れられない。そうなればもう、この世のもっとも弱い者になることにしか希望はない。
 寝たきりの重度障害者がなぜ発狂しないで生きていられるかといえば、世界にときめいているからでしょう。たぶん、そこにこそ人類の希望がある。
 脳性麻痺で体の動かないただ存在するだけといった感じの重度障害児だって世界にときめいている。この世のもっとも弱いものにこそ存在そのものの尊厳がある……人類はそこに希望を見出して介護をするようになっていった。介護の起源は、ネアンデルタールのところにある。彼らは、誰もがこの世のもっとも弱いものとして生きようとしていた。
 そしてそういう「存在することの尊厳」というようなことは、どんな賢人の知恵よりも、人類が共有している「無意識」のほうがずっと深く知っている。キリストや釈迦の説法よりも、人類の無意識(=人間性の自然)のほうがずっと深く真実に届いている。人類の無意識は、生命の根源を見ている。釈迦やキリストやマルクスヘーゲルよりもずっと深く確かに。
 彼らより、ほんとは誰もが持っている無意識のほうがもっと根源に届いている。彼らは人類の願いの上に立って賢者たり得ているが、人類の無意識は何も願っていない。ただ他愛なくときめいているだけであり、そのこと方がずっと深く真実に届いている。
 原初の人類が二本の足で立ち上がることは避けがたく生命の根源に遡行してゆく体験だったのであり、そのことの上にわれわれの無意識が生成している。
 僕は、人類が共有している無意識を探求したい。人類の願いなんか知ったこっちゃない。
 この生は、「今ここ」の目の前に「あなた」が存在し「世界」が存在するだけであり、われわれの無意識はその一瞬一瞬を生きている。
 いい社会やいい人生やいい人間になることを願うという、そういう未来に向かう観念的な思考に淫してしまうと、人間的な知性や感性が衰弱してゆく。
 われわれに未来なんかない。人類は、生きのびる未来を願うことを「許されていない」存在として歴史を歩んできた。そうやって地球の隅々まで拡散してゆき、その果てにネアンデルタール人が氷河期の北ヨーロッパに住み着いていった。人類の文化・文明はそこから花開いていった。
 人間性の本質・自然とは何かと問うなら、ネアンデルタール人の歴史を抹消することなんかできない。彼らは生きることが許されない環境を生きていた。しかし人の心は、そこから華やぎ、知性や感性が花開いてくる。
 許された存在であろうと願うことによって知性や感性が鈍磨してくる。
 生きられない赤ん坊も老人も障害者も、生きることが許されない存在です。しかしそれでも彼らはこの世界にときめいている。彼らは、自分が生きることを許さないこの世界をそれでも許しながら存在している。
 許されない存在として生きることによって人類の知性や感性が花開いてきた。そこにこそわれわれの希望がある。
 秋葉原事件の加藤君と同様、数十年前に連続射殺事件を起こした永山則夫も、許された存在であろうと願いつつ絶望し、最終的には許されない存在であることに希望を見出し、そこから知性や感性を花開かせていった。
 人間は、とても弱い存在であると同時にとても不埒な存在でもある。人間にとって生きのびることなんかどうでもいい、「もう死んでもいい」と思って生きることができる。誰もが生きてあることが許されていない存在であり、誰もが他者が生きてあることを許している。
 許された存在であろうと願ったらいけない。その願いがわれわれを苦しめる。人類の無意識は、そんな願いなど共有していない。ただもう「今ここ」の目の前に存在する「あなた」や世界にときめいている。
 人類の知性や感性は、許されない存在として生きることによって花開いてきたのであり、その基礎は、氷河期の北ヨーロッパを生きたネアンデルタール人の歴史にある。
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