すべては許されている。ネアンデルタール人論16

 まあ「集団的置換説」なんて、原始時代にジェノサイドがあった、と言っているのと同じようなものですからね。その理屈にどう風穴を明けてゆくかがこのブログの課題です。
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ネアンデルタール人に欲求や理想などというものはなかった。ただ、生きることにせかされて生きていただけです。もともと人はそういう存在であり、だからこそ彼らは、われわれ現代人よりもずっと切実で純粋に生きていた。
 現代人の人間観は「欲求」や「理想」という言葉に重きを置きすぎると思う。
 心(意識)は、われわれの中にあるのではない。それは、この身体の外側であり環境世界の内側でもあるところの異次元の世界ではたらいている。心は「私」ではない、「私」の外側のものであり、「環境世界」の内側のものです。まあそこにわれわれの「身体の輪郭」があり、それはすなわち「環境世界の内側」なのです。
 心は、「私」の「外」にある。
 心は「私」ではない。それは「私の外側」であり「環境の世界の内側」ではたらいている現象です。
 根源において心は「自我=自己(の)意識」ではない。
 心は「自己=私」をせかせる意識です。「自己=私」の環境世界の意識です。
 「自己=私」なんか、ただの「からっぽの空間」です。たぶんそれがこの生の原初的なかたちであり、究極のかたちでもある。
 原始人もほんとに頭のいい人も、つまらない「私」なんか持っていない。彼らは、つまらない「理想」も「欲求」も持っていない。ただもう切実に、この生からせかされている。


 いい世の中をつくるるための考えを披瀝すればみんなから尊敬される。よき人間性をはぐくみよき人生を歩むためにはどうすればいいのかという賢者の提案も、大いにもてはやされる。
 いい世の中にいい人間性にいい人生、現代人はみんなしてそんなものを思い描き欲しがっているのだろうか。
 たとえば原発とか、こんなものはよくない、という。現世利益だけを追い求める世の中の風潮や個人の生き方はよくない、という。いい世の中やいい人間性とかいい人生について語る人は、つねに「こんなものはよくない」ということも語る。
 しかし、いいものとよくないものを選別するといういうことは、じつは「それは何か?」という問いを失っていることだったりする。選別してしまえばもう「何か?」と問う必要がない。というか、「何か?」という問いの答えが「いいか、よくないか」という答えにすり変わっている。そうしてそこで思考停止してしまっている。
 愚劣な世の中だって世の中だし、愚劣な人間だって人間です。愚劣な人生だって人生です。
 われわれは愚劣な世の中にも出会うし、愚劣な人間にも出会うし、愚劣な人生にも出会う。出会って「それは何か?」と問う。
 自分はいい人生を生きているかとか、その人はいい人かと問う。それは、生きてあることそれ自体を、その人が目の前に存在することそれ自体を問うていないことでもある。
 われわれは、生きてあることと出会い、その人が目の前に存在することと出会っている。われわれの無意識は、その出会いの体験そのものを「何か?」と問うてゆくことをしている。
「何か?」と問うことは、「ときめく」ということです。
 われわれの無意識は、出会いにときめいている。この世のすべては許されている。
 だから、愚劣な生き方をしてしまったり、愚劣な人間や愚劣な事柄にときめいてしまったりもする。それはつまり、愚劣かどうかと問うことをしない、ということです。ただもう他愛なくときめいてしまう心を誰もがどこかしらに持っている。
 この世に美しくない風景なんかない。超モダンな都会の風景も、ありきたりの街角も、さびれゆく町や村の風景も、すでに廃墟になってしまった風景も、ぜんぶ美しい。
 そういう風景を前にして人は「何か?」と問うているだけであり「ときめいている」だけあって、「よいか、よくないか?」などと問うていない。
 もっとも原初的な知性や感性、そしてもっとも高度な知性や感性は、「よいか、よくないか?」などと問わない。ひたすら無邪気に「それは何か?」と問い、そしてときめいてゆく。それが原始人であり、一流の研究者や一流の芸術家もまた、そうした無邪気な探究心や描写力を持っている。


 神も、通俗的な人間も「よいか、よくないか」を決定する。人間は神をまねてそういう決定を持とうとするものだ、というのが彼らの主張です。まあ、しらずしらずそのような「神」を背負った思考態度になってしまっている。
 いまどきは、無神論者だって神を背負ってしまっている。
 しかし原始人もほんものの研究者や芸術家も、そのような思考態度から解き放たれている。ひたすら「出会い」にときめいている。
 いやわれわれ凡人だって、じつはそういう無意識を持っている。誰だってじつはそういう他愛なくときめいてゆく無意識を持っている。
 誰だって赤ん坊を前にすれば、無条件に可愛いと思うでしょう。赤ん坊の人格なんか問わないし、赤ん坊に人格なんかない。その人格がない気配を可愛いと思う。われわれにだってそういう原初的なときめきはあるのだが、それなのになぜ一流の研究者や芸術家のような思考力や描写力を持てないかというと、「よいか、よくないか」という通俗的で制度的な思考に冒されてしまっているからでしょう。
 ほんらい人の心は、この生からも時代からも集団からもそして神からもはぐれて漂泊してしまっている。漂泊して、途方に暮れてしまっている。そうやって「何か?」と問うてゆく。それが「ときめく」ということです。
 他愛なくときめくということは、もっとも原始的でもっとも高度な人の心のはたらきです。
 人の心は、生まれたばかりの赤ん坊のような心細さに震えているし、「よいか、よくないか」ということなどどうでもいいと思ってしまうほど不埒で横着でもある。
 この世の中には、そういう「よいか、よくないか」と裁定・選別する能力は平凡でも、本人も無自覚なままとても高度な思考力や描写力を持っている人がいる。
「よいか、よくないか」と裁定・選別する「知能」を自慢してもたかが知れている。
 たぶん、ほんものの知性や感性というのは「自分」を表現する能力のことではない。彼らは世界にせかされて世界を表現しているし、世界が彼らに表現させている。
 「世界とは何か」ということと「理想とは何か」ということとはまた別のことです。理想なんかどうでもいい、しかし人は、避けがたく世界について知らされてしまう。ほんものの知性や感性は世界を描写するが、理想なんか語らない。
 この世にすばらしい世界もすばらしい人間もすばらしい心も存在しない。世界が存在し、人間が存在し、心が存在するだけです。
 彼らは世界を描写し人間を描写し心を描写しているだけで、「自分=私」を表現しているのではない。彼らは「自分=私」のことがよくわからない。彼らの「自分=私」は、他人に見えているだけです。
 そしてそれは彼らだけの問題じゃない。もともと人間は、誰においてもそのように存在している。


 たとえば、人が書く文章や語る言葉は避けがたく自分を表現してしまっているし、それに接するものは、ああこの人はこういう人なのだなあ、という感想を持つ。そしてそれは、自分が思っている自分とは少し違ったりする。
 自分を表現するといっても、それがほんとうの自分かどうかはわからない。ほんとうの自分は、他人が見ている自分だったりすることも多い。
 また、自分が紡いだ言葉によっていくら他人に尊敬されたり愛されたりしても、その、自分が表現している自分は、ただのつくりものの自分だったりする。それは、他者に尊敬されたり愛されたりする自分を捏造して差し出しているだけであり、ほんとうの自分ではない。
「自分を表現する」という態度がもてはやされる世の中であることによって、つくりものの自分を差し出すことばかりするということも起きてくる。
 自分を表現するなんて不可能です。なぜなら「自分」とは自分の外側で生成している「環境世界の内側」であり、環境世界をとらえる装置であるからです。
 自分を表現しようとすると、捏造した自分を差し出すことになってしまう。
 その人の紡ぐ言葉が魅力的であったり深い真実を表現しているとき、その人は自分を表現しようとしていない。自分の外側であると同時に環境世界の内側でもあるところの自分の「輪郭」を表現しようとしているのであって、「自分そのもの」を表現しようとしているのではない。
 人の心は、避けがたく自分からはぐれていってしまう。はぐれていってしまうときに高度で魅力的な表現になる。はぐれながら、人は人にときめき、世界にときめいている。そのとき、よい世界もよい人間も存在しない。世界が存在すること他者が存在することそれ自体に反応しときめいている。
 まあ、よい世界よい人間を表現しようとするのは、愛され尊敬されるよい自分を表現しようとしていることなのでしょう。
 よいものに価値がある。それはまあそうなのでしょう。しかし価値というなら、この世のすべてのものに価値があるともいえる。価値がないものなどない。人の心は、すでに自分からはぐれて世界や他者にときめいてしまっている。そしたらもう、「よい」とか「よくない」という以前に「それは何か?」と問い描写している思考や感性こそもっとも高度で魅力的なのでしょう。そしてそれは、もっとも原初的でもある。
 人がもし美しい存在であるとすれば、人は人であることが美しいのであって、人の美しさのようなものはない。
 すべてのものは許されている。べつに人格者でなくても頭がよくなくてもかまわない。人は、人が人であることそれ自体にときめいている。
 誰もがかけがえのない存在であるとか、そういうことではない。人は、目の前に存在する「あなた」にときめいてゆく存在だということです。心は、「自分」のもとにあるのではない、自分の外側であると同時に環境世界の内側でもある自分の「輪郭」においてはたらいている。
 自分とは、「自分の外側」なのです。そうやって心は、自分からはぐれてしまっている。そこでこそ、魅力的で高度な表現が生まれている。
 まああんまりよいものとか正しいものとか価値あるものとかを語るのは、野暮ったい。
 人の心は、自分からもこの生からもはぐれて漂泊している。何が「よい」とか「よくない」ということは決定できない。漂泊する心は、避けがたくただもう目の前の存在する「あなた」や「この世界」にときめいてゆく。
 たとえば、重度の障害を持って生まれてきた子供はこの世にたくさん存在するが、そんな子供は心が純粋で美しいとか、そんなことではない。そんなふうにいわねばならないのはかなしいことだし、そういわせる社会の制度性の不自然がある。親やまわりの人間にとってはもう、その子が「目の前に」存在することそれ自体が美しいのであり、彼らはそうやって心がハイになりときめき介護をしているだけでしょう。人の心は、「あなた」が目の前に存在することそれ自体にときめいてゆく。
 愚かな人間だってだめな人間だってかまやしないし、世の中に俗っぽい人間や高慢ちきな人間がいるのもしょうがないことだ。この世は人間の総和で動いているのであって、一部の賢者を気取る連中の理想の通りになるはずがない。世の中を自分の理想の通りにしようなんてずいぶんあつかましい話しだし、彼らはそうやって「自分」に執着している分だけ、他人の心模様に対する想像力が欠落している。
 ほんとに、数万年前のアフリカのホモ・サピエンスが世界中を覆っていった結果として現代人が存在するなんて、ジェノサイドの論理だと思う。
 すべてのものは許されている……このページはこれを基本にして「人間とは何か」ということを探求しています。自分は真実を知っているとか、自分の中に真実があるなどとは思っていない。僕は、あなたたちのような立派な人間じゃない。ただもう、真実はこの世のもっとも弱い人間のもとにある、というところで考えているだけです。
 人間社会の理想なんて、僕の知ったこっちゃない。マルクスだろうとヘーゲルだろうと、なんぼのものかと思う。僕が学ぶべきことは、この世のもっとも弱い人間のもとにある。
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