都市の起源(その二十)・ネアンデルタール人論171

その二十・この生の愚劣さを受け入れる


原始的な都市集落が都市国家へと変貌してゆく段階で「家族」とか「戦争」というものが生まれてきた……これは何も僕だけの勝手な思い込みではなく、マルクス・エンゲルスをはじめとする多くの先人がいっていることだ。「私有財産の起源」ということだろうか、そういうことが契機になって「家族」や「戦争」が生まれてきた。
それでもこの世の中には、原始時代から戦争があったなどとそれが何か人類の本能であるかのように考えている人が少なからずいて、おそらく彼らは、自分の中の人を憎んだり裁いたりする心を人間性の自然として肯定したいのだろうが、そういう制度的で病的な心の動きは、国家(共同体)の発生とともに肥大化してきたのだ。そりゃあそういう心の動きは現代人の誰もが多かれ少なかれ持っているといえなくもないのかもしれないが、たいていの人は、それを人間性の自然として肯定し正当化しなければならないほど脳にこびりついているわけでもない。
憎しみなんか、いつの間にか忘れてしまったりする。目の前にいなければ、どうでもよくなってしまう。そして裁くことができない心だってわれわれは持っている。相手が正しいか否かとか有能か否かとか美しいか否かとか、そうやって裁いたり吟味したりすることなんか忘れて、相手の存在そのものに他愛なくときめいていったりする。
美人でなくても、心にしみるような笑顔を持っている人はいる。顔のつくりがどうのという以前に、なんか顔つきが下品なんだよ、という人もいる。それは、存在そのものにときめくことができるか、意味や価値の意識で人を吟味し裁いてばかりして生きているかの違いだろう。
障害者の子供を持った親が、子供をいちいち吟味し裁いていたら育てる気になんかなれないだろうし、それでも深く愛おしみながら育てているのは、「生きていてくれるだけでいい」というような存在そのものに対するときめきがあるからだろう。
障害者でなくても、親子の関係なんか、どこかでたがいの存在そのものにときめき合っている。そういう視線を持っているから、子供は、自分が賢くなくても美しくなくても裕福な家の生まれでなくても、とりあえず自分が生きてあるという事実を受け入れ親を恨まなくてもすんでいる。言い換えれば、親を恨むのは、自分を吟味し裁いてくるときだ。そんなことばかりして、子供に殺されてしまった親もいる。
子供がみずからの生きてあることを受け入れてくれるなら、親としてそれ以上望むべきことなんかありはしない。
障害者の子供だって、自分が生きてあることを受け入れている。それは、とても感動的なことではないのか、親は、その感動に震えながらその子供を深く愛おしみつつ育てているのだ。
なぜ受け入れることができるかといえば、自分を忘れて「世界の輝き」にときめいているからであって、「自分」を大切に思っているからでも、生きてあることに執着しているからでもない。
人は「世界の輝き」にときめいていなければ生きられないし、ときめいていなければブサイクな顔つきになってしまう。
人は、愚かだからコンプレックスを持つのではない。愚かでありたくないからだ。愚かであることを受け入れられないからだ。そしてそのコンプレックスの裏返しとして、人をバカにしたり支配したりしながら優越感に浸ろうとする。そうやって「ときめき」を失いながら。顔つきも考えることもどんどん下品になってゆく。
生きてあることなんか、愚劣だ。それでも生きてあるのは、世界や他者が輝いているからだ。生きてあることが素晴らしいからではない。
生きてあることが愚劣でいたたまれないものであるから人は、「ここにはいられない」という思いにせかされながら地球の隅々まで拡散していったのだ。そして拡散すればするほどより住みにくい土地になっていったのだが、住みにくい土地であればあるほど、世界や他者は輝き、より豊かな「ときめき」が汲み上げられていった。。
人類拡散の歴史とともに、人と人が他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」が発展して都市が生まれてきた。
人の心は、「世界の輝き」に引き寄せられてゆく。「世界の輝き」は、人がつくるのでも決定するのでもない。心が「世界の輝き」に「反応」するのだ。そうやって人は「気づく=発見する」という体験をしている。
人の心は、「世界の輝き」に対する「遠い憧れ」を持っている。この生が愚劣でいたたまれないものであるからこそ、そういう心の動きが起きてくるのだ。そうやって原始人は地球の隅々まで拡散していったのだし、その歴史の果てに「都市」が生まれてきた。
人は、そういう「遠い憧れ」とともにある「ときめき」を失って、顔つきがブサイクになってゆく。今どきの大人たちは、というか、まったくいやな世の中ではあるのだが、それでも人は、新しい世界や見知らぬ他者の「出現」に「輝き」を見出して生きている。そうやって「都市」の人ごみの中で生きている。