都市の起源(その二十一)・ネアンデルタール人論172

その二十一・風景の発見

「風景の発見」という言葉というか概念は、柄谷行人の『近代日本文学の起源』からの借用だが、べつにそこで教えられたことを書こうというのではない。それどころではない。ようするにこの人は「<風景の発見>は、近代的自我による<内面の発見>でもある」というようなことをいいたいらしいのだが、僕が考えているところは「人類は二本の足で立ち上がることによって『風景』を発見した」ということだ。
原初の人類は二本の足で立ち上がることによって頭上の「青い空」を発見した……このことはこれまで何度も書いてきたことだが、これこそが人類が最初に体験した「風景の発見」ではないだろうか。つまり、このことによって人類はこの生やこの世界の「外部(これも柄谷氏の概念だが)」としての「非日常の世界」を発見したということ。「内面」なんかどうでもいい。柄谷氏がいうように「内面=近代的自我」が「外部」に対する視線を持ったのではなく、そのとき原初の人類は「内面=近代的自我」すなわち「自分」なんか忘れて「青い空」という「外部」に対する「遠い憧れ」を抱いていったのであり、その心模様の痕跡(エクリチュール)はわれわれ現代人の心の中にも印されている。
この『近代日本文学の起源』という批評文が発表されたのは、「ニューアカデミズム」のブームの70年代後半から80年代はじめのころだが、つまりこのころの都市における読者層はインテリぶった自意識がさかんな傾向になっていた、ということだ。そして柄谷氏は、そういう自意識をリードする代表的なインテリのひとりだったわけで、この批評文もそうした「自意識=内面」を特権化正当化しようとする気取った自意識で書かれている。
とりあえずそこに書かれてあること少し引用しておこう。

吉本隆明が強調しているように、万葉集でさえ漢文学あるいは漢字のもたらした衝撃において成立した。


そりゃあ万葉集という歌集は、大陸から文字が輸入されたことの上に成り立っているわけだが、そこに載せられた歌そのものは「漢文学」も「漢字」も知らない時代から詠み継がれてきたのであり、それによって「歌」を発見したのでも「風景」を発見したのでもない。それによって「歌集」というものを編纂できるという衝撃・発見はあっただろうが、それによって日本人の「内面=エクリチュール」が変わったのではない。柄谷氏がこんな言い方をしたがるのは、インテリが「時代」や人々の「内面」をリードしているというカッコつけた自意識があるからだろう。まあ「ニューアカデミズム」のブームという「時代」はそういうカッコつけた自意識を肥大化させる流れがあったわけで、彼もまた、そういう「時代」に踊らされているひとりだったらしい。

花鳥風月はいうまでもなく、国学者が想定するような純粋土着的なものも、漢文学における『意識』において存在しえたのだ。古代の日本人が『叙景』をはじめたとき、つまり風景をみいだしたとき、すでに漢文学の意識が存在したのである。


なにが「漢文学における『意識』において存在しえた」だ。その思考こそ、カッコつけたインテリの世迷言にすぎない。
「古代の日本人が「叙景」をはじめたとき、つまり風景を見出した」のは、「すでに漢文学の意識が存在した」からではなく、それこそが直立二足歩行の起源以来の人類の伝統だったからであり、本居宣長だって「直立二足歩行の起源」という問題意識はなかったにせよ、ひとまずそういうニュアンスで「それこそが普遍的な人間性の自然だ」といっている。ヨーロッパ人だろうと中国人だろうと、世界中みな「風景の発見」から歴史を歩みはじめたのだ。
花を見て美しいとか愛おしいと思うから「花」という言葉が生まれてきたのだ。そんなことは、世界中みなそうだろう。そういう感動体験がなければ、「花」という言葉が生まれてくる契機はどこにもない。彼らの気取ったインテリ意識、すなわちこの世界の仕組みを知ったかぶりして語ろうとするスケベ根性が「花」という言葉を生み出したのではない。そういう気取ったインテリ意識が旺盛だから、そんな底の浅い愚にもつかないことをいいだすのだ。

文学の源泉に遡行するとき、われわれはそこに文学・文字をみいだすだけである。


そうだろうか。
文字による万葉集という歌集=文学が存在する以前からすでに「風景」を叙述する「歌」という文学はあったのだ。「文学の源泉」と「文字の源泉」は同じではない。文字は、原始的な都市集落が都市国家へと変質・発展してゆく過程で生まれてきた。それは、「風景」ではなく「人間」を語るものであり、すなわち支配の道具として、共同体(国家)が「人間」として生きるための「規範」を語るものとして生まれてきた。
文学の起源は、「人間」の「外部」の「花鳥風月=自然」を語る(詠う)ことにあった。そのとき人類は、感慨の表出である原始的な言葉をもとにして「花鳥風月=自然」のひとつひとつに名前を付けてゆくことを覚えた。たとえば「はな」という言葉はもともと「はかなく愛おしい」というような感慨を表出する音声だったのであり、それをそういう感慨を起こさせる対象としての「花」の名にしていった。で、そうなれば自然の「花」を詠うことは「はかなさ」や「いとおしさ」を表出することにもなるわけで、そうやって花鳥風月を詠む「和歌」という「文学」が生まれて育ってきた。
「文学の源泉」に「文字」などなんの関係もない。「文字」が「文学」を生み出したのではない。柄谷氏の「文学の源泉」に対する思考・探求は、ステレオタイプでまったく底が浅い。彼がこういう発想をするのは、胡散臭いインテリ意識という自意識が旺盛だからだろう。そのころのインテリの風潮そのままに欧米思想を拾い集めてそれを並べ替えたりする小手先のテクニックをもてあそびながら分かったようなことをいっていただけで、ものごとの深みに分け入ってゆくだけの思考力なんか、まるで感じられない。江戸時代の国学者は、柄谷氏ごときになめられるほど安直なことをいっていたのではない。彼なんかよりずっと普遍的なところに分け入ってゆく思考力を持っていた。
「文学の源泉に遡行するとき、われわれはそこに文学・文字を見出すだけである」……こんなカッコつけているだけの軽薄な物言いのどこに「文学の源泉」に遡行する思考の深みがあるというのか。


というわけでここでいいたい「風景の発見」は、「内面=近代的自我」などというややこしい心の動きではなく、自分を忘れた他愛ない「遠い憧れ」によって体験されるということであり、そういう「他愛なさ=愚かさ」こそが人類の文化(知性や感性)の原点であり究極のかたちでもある、ということだ。
画家は、ひとつの風景を切り取り「ああこれは絵になる風景だ」と気づく。感動する、と言い換えてもよい。それは、心がこの生(=日常)の「外部」の「非日常の世界」に超出してゆくというか「はぐれてゆく」体験であり、人は、そういう「はぐれてゆく」心を持っている。それはもう、原初の人類が二本の足で立ち上がったときからそうだったのであり、現在の都市生活者の中心的な心の動きでもある。まあ原始人は、その「はぐれてゆく」心とともに地球の隅々まで拡散していった。
「絵になる風景」に向かって心が「はぐれてゆく=超出してゆく」、それが「風景の発見」だ。
二本の足で立ち上がった原初の人類は、頭上の「青い空」に向かって心がはぐれていった。そしてそれは、森の木々という枠によって切り取られた「絵になる風景」だった。
まわりの景色がぼやけて、その一点の景色に向かって視覚の焦点が結ばれてゆく……それが、人類史における「風景の発見」だった。そうやって心が「はぐれ」ながら地球の隅々まで拡散していったのであり、そうやって「花」という存在にときめきながらそれに名前を付けていったのだ。
つまり、まわりの景色や状況に「無防備」になりながらその一点に視覚や知覚の焦点を結んでゆくという、その「他愛なさ=愚かさ」とともに「風景」が発見されていったのであって、まわりの景色のすべてに警戒し緊張している近代人の「自我意識」によるのではない。その「自我意識」は、むしろ「風景」を見失う。まあ「近代=資本主義」は、そういう肥大化した自我意識によって「風景」を見失ったことによって、文学や絵画による「風景の描写」が珍重されるようになっていった。近代の都市は、その自意識の肥大化という閉塞感とともに「風景」を見失ったことによって、「風景」を再発見していったのだ。


もうひとつだけ『近代日本文学の起源』の中の言葉を引用しておく。

風景は内的人間によってはじめてみいだされる。


つまり、「内的人間」の「内面(=近代的自我)」が「風景」を発見するのだ、という。
そんなことがあるものか。「内面(=近代的自我)」を忘れながら「風景」が見い出されてゆくのだ。
柄谷氏は「国木田独歩の『武蔵野』という風景描写の小説は、江戸時代までの伝統的な日本人の風景観(花鳥風月の意識)に対するひとつの『転倒・逆転』がある」などといい、「それまでの観光名所的な既成の風景からありふれた林の風景に注目していった」というのだが、なんとステレオタイプでこじつけめいた解釈であることか。まあ偏差値の高い「優等生」というのは、そういう思考が上手でそういう思考しかできない人が多い。
じゃあ、芭蕉の句の「古池の蛙」は、名所的な花鳥風月か?

心なき身にもあはれはしられけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮  西行
漁(いさ)り火の昔の光ほの見えて芦屋の里に飛ぶ蛍かな  藤原良経
秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる  藤原敏行
雪降れば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける  紀貫之


こんなさりげない風景描写は、近代人の「内面」からしか生まれてこないのか?
「心なき身」というときの西行は、「内面」など意識していない。「内面」から解き放たれて、はじめて「風景=あはれ」に気づく。
芭蕉だけでなく、ありふれた風景に「あはれ」や「はかなし」を見てゆくのが日本列島の歌=文学の伝統だった。
「春は曙、ようよう白くなりゆく……」という書き出しの『枕草子』と『武蔵野』とのあいだに、いったいどんな「転倒・逆転」があるのだろうか。
まあ近代文学の幕開けは二葉亭四迷の「浮雲」という言文一致体で書かれた小説にある、などといわれているのだが、それはあくまで人間模様を描いたもので、風景が主人公ではない。「内的人間」の近代的自我は、ひたすら人間の「内面」を描こうとする。そうやって田山花袋等の自然主義文学が生まれてきたのだろうし、「浮雲」だって、話が進むにつれてどんどん主人公の独白調になってゆく。
西洋近代の、キリストの弟子やキリスト教の信者たちが議論している群像画など見てみるとよい。そこに描かれている人物の表情には、グロテスクなほどに内面のえげつなさが生々しく表現されていて、日本人がこんな人たちと駆け引きを争うなんてほんとに大変だろうな、と思わせられる。
「内的人間」が見い出すのはあくまで「内面」であって、「風景」ではない。そんなことはあたりまえではないか。


国木田独歩の「武蔵野」はむしろ、近代の鬼っ子のようなスタンスにあるのではないだろうか。
とはいえモネなどの「風景画」を本領とする印象派の絵画も近代の鬼っ子として登場してきたわけで、風景を見失ったから風景が再発見されていったのだ。
印象派の画家たちは、浮世絵の風景画にひどく魅せられていた。それは、遠近法とかボリューム感とかの「内面」による視線から解き放たれていたからであり、「内面」など知ったこっちゃない、というのが印象派の画家たちの流儀だった。近代の制度性としての「内面」の呪縛から解き放たれた原始的な感性の復権、ということだろうか。
風景は、「内面」によって発見される対象ではない。「内面」を捨てて発見してゆくのだ。
印象派の先駆者といわれているコローにしてもフェルメールにしても、ずいぶん自我意識の薄い人だったらしい。コローは自分の絵の模倣でしかないような貧しい画家の絵が売れるようにと平気で自分のサインを書いてやったし、フェルメールは生涯生まれ故郷の町から離れなかった。
人類史の近代は、自我の肥大化を生み出す状況をもたらしたと同時に、そこからの解放が模索されてきた時代でもあった。だから印象派の画家たちは浮世絵に憧れたわけで、自我の薄さはこの国のアドバンテージにもなってきた。そうやって今、マンガやアニメやファッション等の「かわいい」の文化が「ジャパン・クール」として世界中から注目されたりしている。
日本語および日本文化は、つねに原始的な感性を残し洗練させながら歴史を歩んできた。だから、万葉集以来の「風景画」の伝統がある。
熱心なクリスチャンである国木田独歩の「内面」は、独善的で惨憺たるところがあったらしい。だから、そうした「内面の嵐」からのいっときの解放として日本的な伝統にしたがい「武蔵野」を書いたのかもしれないが、本質的にはひたすら「内面」にこだわる自然主義作家だった。
島崎藤村も「千曲川のスケッチ」という風景描写の作品を書いたが、彼もまた「近代的自我」の桎梏に悩んだ作家だった。
僕の知り合いのおそろしく文才のある男も、ひたすら「風景」のスケッチをしながら自意識の安定を得ようとしているのだが、それが自意識(=内面)の安定をもたらすのではなく、自意識(=内面)からの解放にたどり着くのだということが、まだよくわかっていない。国木田独歩だってよくわかっていなかったから、後年は自然主義作家として「内面」ばかり書くようになっていったのだ。
まったく、業の深い人たちだ。自分の中に「神」という絶対的な規範を持ってしまっている。
自我意識の強い作家ほど日本列島の伝統である「風景描写」に帰ろうとする傾向がある、ということはいえても、それはあくまで自我意識(=内面)からの解放であって、自我意識で書いているとはいえない。いっときそこから解放として、おさな子のような他愛なく無防備な心で書いているということを、彼ら自身がわかっていない。
西行の「心なき身」といった言葉の意味は深い。
近代の都市は、人の心を「内面=自分」に向けさせる。その完成された共同体(国家)の制度性に囲い込まれて世界に対する警戒や緊張を募らせる自意識を肥大化させながら、あるものは都市でのサバイバルのテクニックを身につけてゆき、またあるものは心を病んでいったりしている。
世界に対する警戒や緊張から解き放たれて(はぐれて)無防備になってゆけば、心は自然に「世界の輝き」に憑依しときめいてゆく。それが、「風景の発見」の精神だ。
それはべつに近代人の「内面」によってはじめて発見されたのではなく、直立二足歩行の起源以来の人間性の自然なのだ。
人類史における原始的な都市集落は、「祭りの賑わい」という都市の本質が危機に瀕することによって、都市国家へと変質していった。そうして「祭りの賑わい」という「混沌」と、この世界に「秩序」をもたらす「神の規範」を意識した「自我の安定」を両立させながら歴史を歩んでゆくことになった。まあそのせめぎ合いの中から「もう死んでもいい」という勢いで「混沌」の中に身を投げ出してゆく学問や芸術が発達し、世界の「秩序」を構築しながら「生き延びようとする」自意識の欲望を満足させようとする政治や経済や宗教が発達してきた。
おそらく近代の都市もそういう危機的状況に見舞われたのであり、それはそのままこの国の戦後史の状況でもあった。