都市の起源(その二十二)・ネアンデルタール人論173

その二十二・風景画と人物画

西洋の絵画史における「風景画」は、近代の印象派の登場ともに本格化してきた、といわれている。
それまでは、宗教画とか風俗画とか肖像画とか、もっぱら人の姿を描くことが中心で、風景はただの背景にすぎなかった。しかし印象派の画家たちは逆に、風景そのものを主題にして、人物はその中の点景にすぎないような絵を描いた。
まあフランスのコローとかイギリスのターナーなどの印象派以前の風景画の巨匠がいて、彼らは印象派の先駆者だとも評価されているのだが、近代の幕開けであるそのころは、とくにイギリスで風景画がさかんになっていた。だから「近代=産業革命=資本主義」とともに風景画が登場してきた、という図式で語られることが多い。
近代になって人の行動や心模様が大きく変わってきたということはたしかにあるのかもしれない。
ただ、それをもって「風景の発見」といわれると、にわかには信じがたい。
ようするに彼らは、こういいたいのだろう。風景は「近代的自我」によって発見された、と。
しかし東洋では、水墨画山水画)として、それ以前からすでに風景そのものが主題のジャンルがあったし、花鳥画だって、人物画ではもちろんない。
人類史においては、文明の発祥以降どんどん人間中心主義の観念になってゆき、それとともに「人物画」というジャンルが確立されていったのだろう。古代ギリシャはすでに人間中心主義だったし、エジプト・メソポタミアの絵やレリーフもほとんど人物を描いている。
しかし氷河期のネアンデルタールクロマニヨン人の洞窟壁画のモチーフは動物ばかりで、人物は描かれていない。彼らにとって動物は、ひとつの「風景」だったはずだ。
では原始時代に人物画はなかったかといえば、そうでもなく、同じころのアフリカの洞窟壁画はむしろ「人物」を描くことが中心になっている。


アフリカの原始人はなぜ「人物」を描きたがり、ヨーロッパではなぜ人間ではない存在である「動物=風景」を描きたがったのか。
ただし、ここでいう「アフリカ」とはアフリカ中南部のことで、エジプトをはじめとする地中海に面した北部地域は、いちおう中近東の一部として考えている。
アフリカ中央部のサバンナの中の森で生まれた人類は、猿としては比較的大きく密集した集団をつくっていたはずだが、その地域に残ったものたちは集団どんどん小さくしてゆく歴史を歩み、そこから中近東やヨーロッパに拡散していったものたちは逆に集団を大きくしながらやがて「都市」へと発展していった。。
アフリカ中央部には、現在でも家族的小集団で暮らしている未開の民族がいるが、数万年前はみなそのような生態だったのだろうと推測できる。そういうものたちが「人物」の洞窟壁画を描き、集団を大きくしてゆく都市的な生態になっていったネアンデルタールクロマニヨン人の洞窟壁画には動物ばかりが描かれている。
近代における「風景の発見」ということにしても、ようするに「都市」の感性なのだろう。
「都市」とは、人が密集している場所のこと。だったら、原初の人類が二本の足で立ち上がったときに、その集団はすでに「都市」になっていたともいえる。
アフリカではミーイズムが発達して大きな集団を組むことができなかった。彼らは、家族的小集団で移動生活をしていた。しかしそれでは、婚姻のことをはじめとして生きるいとなみが成り立たない。だから「部族」という小集団どうしの幻想のネットワークを形成しながら、それによって女を交換したりしていた。
部族というネットワークは、ひとつの集落として一緒に暮らすのではなく、離れ離れになりながらも「われわれは(たとえば遠い昔の伝説の英雄とかの)子孫である」というような意識の上に成り立っている。まあ古事記の「神武東征」の話だって同じようなもので、世界中の共同体がそういうたぐいの伝承説話を持っている。
ただ、古事記が生まれた奈良盆地では現実に都市集落を形成していたが、「部族」は、あくまで離れ離れに暮らしながらそういう「伝承」を共有しているだけだ。そしてそれが可能だったのは、彼らが一定の地域内で移動生活をしていたからだ。移動の途中でそれぞれ出会いながら、そういう合意を形成していったのだろう。中近東の砂漠の民の「部族」もしかり、彼らはひとつの地域に大きな集落はつくらないが、すでにその部族意識が「共同体(国家)の規範=制度性」のような機能を持っている。
部族意識はおそらくアフリカが発祥の地で、それが中近東にまで伝播し、その「共同性=制度性」を都市集落の暮らしに取り入れながら都市国家へと発展していった。


人類最初の「共同体」は、アフリカでの幻想のネットワークである「部族」として生まれてきた。数万年前のアフリカのホモ・サピエンスは、すでにそういう「部族」を持っていたはずで、その生態とメンタリティが今日に至るまでのアフリカの伝統になっている。彼らこそ人類最初の「共同性=制度性」に目覚めた人々で、それは、うまく集団をつくれない彼らの「ミーイズム」から生まれてきた。「ミーイズム」と共同体の「制度性」はけっして矛盾しない。
共同体の「規範=制度」は、人間性の自然としての「集団性=社会性」の欠損から生まれてきた。つまり、もともと「祭りの賑わい」の上に成り立っているプリミティブ な都市集落がその賑わいを失ってきて、「都市国家」へと変質してきたのだ。
戦後のこの国においても、高度経済成長がはじまったころから地域ごとの盆踊り等の祭りがどんどん衰退してゆくのと軌を一にして役所による制度的な都市整備の動きが活発になり、古い町名などが次々に消えていったし、町内会の家族どうしの付き合いというのもあまりしたがらなくなってきた。そうやって経済成長と引き換えに、家族も人の心もどんどん自閉的になっていった。その「ミーイズム」の蔓延によって、他愛なく人と人がときめき合う「祭りの賑わい」が衰退してゆくとともに、経済が活発になり権力による社会制度が強化されていった。
都市国家は、都市が都市であることの危機において発生してきた。
みんなが我を忘れて他愛なくときめき合っていることができれば「規範=制度」など必要ないが、それぞれに「ミーイズム=自我意識」が肥大化してきてあれこれトラブルを起こすようになれば、それを収拾するための「規範=制度」が必要になってくる。
共同体の「規範=制度」は、生き延びようとする「ミーイズム=自我意識」の上に成り立っている。


ヨーロッパのクロマニヨン人と同時代のアフリカの洞窟壁画は、「人物」が主題になって描かれている。部族が集まったときの祭りの踊りとか、大勢で狩りをしているところとか、まあそのような絵柄だ。家族的小集団で移動生活をしていた原始時代のアフリカ人が大きな集団を組むことはなかったはずだが、その小集団どうしのネットワークである「部族」がときどきひとつのところに集まって祭りをするということはしていたらしい。
そしてそこに描かれている人物の輪郭線はほとんど直線的で、クロマニヨン人による柔らかい曲線の動物画とは対照的だ。
また、エジプトのスフィンクスとかギリシャ神話のケンタウロスのような半人半獣のイメージは原始人も持っていたらしく、クロマニヨン人は、体は人間で頭部だけはシカとかライオンというような絵や彫刻の表現をしていた。
ただ奇妙なことに、スフィンクスケンタウロスは体が動物で頭部は人間なのだから、クロマニヨン人の発想とは逆だということになる。つまりスフィンクスなどの場合は、「頭部=心」は人間で「体=体力」は動物ということだが、クロマニヨン人は、体力は人間のままで動物の心を欲しがった。なんのかのといっても前者は人間中心主義で、後者は人間であることに幻滅していたというか、深く嘆いていた。自分ではどうにもならないくるおしい心やなやましい心を抱えていたし、自分を忘れて他愛なく豊かにときめいてゆく心も持っていた。そういう「自分を忘れる」体験のよりどころとして、頭部が動物の絵や彫刻を表現した。彼らは、人間であることを受け入れつつ、人間であることを忘れたがっていた。人間であることを忘れるためのよりどころとして、洞窟の壁に動物ばかり描いていた。
人間中心主義だから、人物画が主流の世の中になる。古代のエジプトやギリシャも、人物表現がさかんだった。
原始時代のアフリカのホモ・サピエンスの場合は、サバンナの肉食獣や暑い日差しから逃れて森の中に自閉してゆく暮らしをしていたからその外の「風景」というものに興味がなかった。だから人物ばかり描いたし、彼らはもう、外の世界に「拡散」してゆこうとする衝動を本能的に持っていなかった。
何度でもいうが、集団的置換説の学者たちの合唱する「数万年前のアフリカのホモ・サピエンスが地球の隅々まで拡散していった」ということなど起きるはずがないのだ。彼らは、地球上でもっとも拡散したがらない人々だった。彼らは人間であることの枠を守って生きたのであり、拡散していったのは、人間であることを忘れたがっているものたちだった。人類拡散の果てに氷河期のヨーロッパに登場してきたネアンデルタールクロマニヨン人は、そうやって人間ではない存在である動物の絵ばかり描いていた。
また、アフリカの壁画が部族の集まりのモニュメントとして描かれたとしたら、彼らこそ共同体の制度性の基礎をつくったともいえる。ヨーロッパの動物壁画は、逆にもっと個人的で、それぞれがなりゆきまかせに描いていったものにすぎない。つまり、なりゆきまかせでどこからともなく人が集まってくる原始的な都市集落の基礎はヨーロッパのネアンデルタールクロマニヨン人がつくった、ということになる。
拡散しないことが本能のアフリカ中央部のホモ・サピエンスと、拡散の果てに氷河期の北ヨーロッパに登場してきたネアンデルタール人、その違いはたしかにあるわけで、その二つの生態というかメンタリティというか文化が氷河期明けのエジプト・メソポタミアで融合しながら人類最初の文明=都市国家が生まれてきたのだ。