都市の起源(その二十三)・ネアンデルタール人論174

その二十三・アフリカで生まれたミーイズム

現在の人類集団は、規範によって「秩序」をつくってゆく「制度性」と、なりゆきまかせの「混沌」の中からときめき合い連携してゆく「祝祭性」の、相反する二つのベクトルの関係性の上に成り立っている、といえるのかもしれない。この二つの兼ね合いで、集団が発展したり衰弱していったりしている。それはもう、都市であれ農村であれ、会社や学校であれ、家族であれ、恋人どうしや友達どうしの関係であれ、みんなそうだろう。
おそらくそういう「関係性」の問題は、「都市」や「家族」においてもっともラディカルに起きてくる。
内田樹のように「<共同体>の規範(=制度)こそ現在の社会問題を解決し人類の希望になる」というような怠惰で横着で傲慢で安直なことをいっていてもはじまらないのだ。
この世の中も生きてあることも、ほんとにややこしい。まあだからこそ、現代人は、内田樹のような手っ取り早くて底の浅い論理にしてやられてしまったりする。
そんなことをいったって、誰もがこのややこしさに四苦八苦しながら生きてゆくしかないのだし、そのかなしみの上に、この世界の輝きに「ときめく」という体験も生まれてくるのではないだろうか。それでもこのややこしさは受け入れ無防備になってゆくしかない。受け入れられなくて警戒し緊張してばかりいるから、規範=制度にすがろうとするし、あげくの果てにときめきを失い、心を病んでゆく。
……
原初の人類は、密集しすぎた集団の鬱陶しさにせかされて二本の足で立ち上がり、そんな集団の中でも他愛なくときめき合ってゆくことができる「社会性=集団性」をそなえていった。そしてそれによって地球の隅々まで拡散していったわけだが、アフリカのサバンナにとどまったものたちは、その「社会性=集団性」を解体しながら、そこでのサバイバルの能力を身につけていった。ミーイズムこそ、彼らのサバイバルの能力だった。
そのころ地球気候は寒冷乾燥化が進んでおり、二本の足で立ち上がった人類が暮らすサバンナの中の(あるいはサバンナに隣接する)小さな森はさらに小さくなっていった。サバンナに侵食されて、森がいくつかに分裂していった。そうなれば、その森だけでは一年中の暮らしが成り立たず、小さな森から小さな森へと移動しながら暮らしてゆくしかなかった。森と森のあいだには、サバンナが横たわっている。そこを横切らねばならない。横切るときに肉食獣の襲撃に遭遇するたびに集団が散り散りになってゆき、それぞれ別々の森で暮らす小集団になっていった。まあその契機はいろいろあるのだろうが、おそらくこのことも、人類拡散のはじまりのひとつになっているに違いない。とにかく最初はひとつの森に暮らすひとつの集団だったのであり、それがいくつにも分裂していったのが人類史のというか人類拡散のはじまりだった。
そうしてアフリカに残ったものたちは小集団での暮らしを身につけてゆき、アフリカの外へと拡散していったものたちは、どこからともなく人が集まってきて大きな集団になってゆくという生態を発展させていった。
もともと人類の二本の足で立つ姿勢は、密集した集団で他愛なくときめき合ってゆくという生態をもたらしたのであり、人間性の自然は、密集した集団の中で生きようとすることにある。
そしてアフリカに残って小集団の暮らしを定着させていったものたちもまた、「部族」という幻想の大集団を構想していった。まあ、猿にはできない芸当だろうし、この観念性が人類史に「共同体(国家)」が生まれてくる基礎になった。


地球気候の乾燥寒冷化によってますます小さくなっていったサバンナの中のその森ではもう、小集団の食料すら恒久的にまかなうことはできなかった。だから彼らは、サバンナを横切って森から森へと移動してゆく暮らしになっていった。まあ木の実は、季節が巡ってくればまたあらわれてくるのだから、彼らが一定の地域の外に出てゆくことはなかった。
一定の地域といっても、そう広くはない。せいぜい数キロか十数キロ四方に、いくつもの小さな森が点在していた。女子供を連れているのだから、それほど長い距離の移動はできないし、移動の最中に肉食獣に襲われる危険もある。また、それぞれの森がどの集団のものかという取り決めがあったのかもしれない。それぞれが自分の森に執着して、他の森に無関心になってゆく。これもひとつのミーイズムに違いないし、そうでなければ「部族」というネットワークは成り立たない。
アフリカ中央部において異部族どうしが同じ地域で一緒に暮らすようになったのは、近代以降のつい最近のことにすぎないし、そのために部族が違うという理由だけで簡単に相手を殺してしまったりする事件も頻繁に起きている。それほどにアフリカの部族意識とミーイズムの歴史は根深い。
彼らの「部族」という幻想のネットワークは、拡散しない生態や異部族と混じり合えない自閉的なメンタリティを定着させていった。
なにしろ、700万年前の人類発祥以来ずっとそこに住み着いてきた人々なのだ。彼らの部族意識は、文明社会から取り残される原因である都市的な性格の欠落をもたらしたと同時に、文明社会の発祥をうながす契機にもなった。古代のエジプト・メソポタミア文明は、アフリカの部族意識を取り入れながら都市国家としての規範¬=制度を成熟させていった。


アフリカ中央部ではなぜ集団が縮小していったのか。
サバンナの中のその小さな森では小集団の食料しかまかなえなかったとか、いろいろあるのだろうが、さらには、サバンナを横切ることを繰り返しているうちに肉食獣から襲われて集団が散り散りになっていったということもあるに違いない。
まあ、大きな集団を組んでいれば、移動の速度が鈍るし、肉食獣の目につきやすい。そして、二本の足で立つ姿勢の人間は、複数で固まって逃げていれば将棋倒しになりやすいから、どうしても散り散りになってしまう。草食獣のように集団でいっせいに同じ方向に走るということはできない。
また子供を抱いて逃げていれば、それだけ走るのが遅くなって、けっきょく両方とも餌食になってしまう。アフリカのミーイズムにおいては、子供を見殺しにしても悪ではない。
曽野綾子氏がアフリカの飢餓地帯に視察に出掛けた際、救援隊から差し出された食糧を母親が子供よりも先に食べてしまうということがあって暗澹とした気持ちになったという話があるが、それもまた致し方ないミーイズムの伝統なのだろう。
彼らは祭りのときに鳥の扮装をしてダンスをするとか、鳥の羽の派手な色彩をまねてボディペインティングをしたりする。それは鳥という「風景」に対する関心かといえば、そうともいえない。それは、自分が「鳥になりたい」というあくまで自分に対する関心であり、鳥のように肉食獣の襲撃から自由でありたいという願いも込められているのだろうか。
ともあれそれは、クロマニヨン人の洞窟壁画のように、自分を忘れて動物そのものを表現しようとしているのではない。クロマニヨン人にとってのそれらの草食獣はあくまで狩りの対象だったのであって、自分が草食獣になりたかったのではない。彼らは、寒さに震える自分を忘れたかったのであり、自分に対する関心はなかった。
人は、自分に対する関心から離れて「風景」を発見するのであり、「ときめく」という体験をする。


サバンナの肉食獣から逃げ隠れする歴史を歩んでくれば、どうしてもミーイズム=自閉的になってゆく。どうしても集団は小さくなってゆく。そしてそれぞれの小集団のメンバーが一定しないということも起きてくる。必死に逃げていった結果として、気がついたら別の集団にまぎれ込んでいた……そんな「まぎれ」が起こる範疇で「部族」という単位が生まれてきたのかもしれない。「まぎれ」すなわち「交換」という関係が成り立つ範囲を「部族」といったのかもしれない。
彼らは日常的に「拡散」を体験していたからこそ、それ以上拡散してゆかない装置として「部族」という単位が生まれてきた。また、そんな小さな集団になってしまったら、「交換」という関係を持たないと暮らしが成り立たなかった。
彼らの本能(のようなもの)は、拡散するまいとすることにあった。拡散は、すなわち死だった。そうやって彼らの心は、その小さな森の中に自閉していった。なにはともあれ、森の中に逃げ込めば安全だった。
一般的には「人類はやがてサバンナに進出していった」という言い方がよくなされるが、そうかんたんに肉食獣がうようよいるサバンナで暮らせるはずがないではないか。現在の「ブッシュマン」や「マサイ族」や「ピグミー」等の未開の民族だって、あくまで森の中を住処としているのだ。
彼らは、一定の地域内で日常的に拡散しつつ、もはやその範疇の外には拡散してゆくことをやめた人々だった。それがアフリカ中央部地域の歴史だったわけで、そこから数万年前に突然地球の隅々まで拡散していったということなどあるはずがないのだ。
彼らの森の中に自閉してゆく心(=ミーイズム)は、ついに「都市」をつくることができなかった。現在のアフリカ中央部の都市はすべて、近代になってからヨーロッパ人が主導しながらつくられていったにすぎない。彼らは今でも、できることなら異部族と一緒に暮らすことなんかしたくない、と思っている。そうやって「部族が違う」という理由だけの殺し合いが、日常的にいたるところで起きていている。それは現在のアフリカの悩みのひとつで、それはもう、ただの残酷な衝動殺人なのだから死刑にしてしまえばいい、という近代文明社会の法の論理だけではすまない。

そしてこのことは、現在のこの国における「ひきこもり」や「発達障害」の問題でもあるのではないだろうか。いや、この国全体にそうしたミーイズムが蔓延している、ともいえる。そうやって「都市」が病んでいる。
原始時代のアフリカ中央部ではミーイズムが合意されていたからそれで社会が成り立っていたが、文明社会の「都市」のいとなみがそれだけですむはずがない。
アフリカのミーイズムが人間性の自然であり根本だということはいえない。彼らこそ、人類で最初に人間性の自然から逸脱していった人々なのだ。その「逸脱」を基礎にして文明社会が生まれてきた。「部族」という「規範」、その「規範=制度」が「都市国家」という文明社会を生み出した。そのときから人類の心は、人間性の自然として「祭りの賑わい=混沌」を生きる心と、そこから逸脱した「規範=秩序」に執着・耽溺してゆく心とに引き裂かれていった。
何度もいうが、「神」という概念は都市生活の混乱を収拾するための「規範」として生まれてきたのであり、そんなものを信じる心が人間性の自然だとはいえない。逆に、人間性の自然からの「逸脱」なのだ。べつに、自然の偉大さや不思議さに感動してその「創造主」としてイメージされていったとか、そういうことではない。原始時代においては。太陽は太陽それ自体であって、太陽の「創造主」など誰もイメージしなかった。そういうことを「実感」するのは発達した文明社会の科学者や芸術家においてはじめて可能であり、まあその思い込みが今やわれわれ庶民のあいだにも浸透している。文明社会において、その「規範=制度=戒律」を強化・補強するためのお墨付きとして「創造主」という立場に格上げされていっただけのこと。だからその概念が伝播していった先の未開人は、誰も「創造主」などイメージしなかった。太陽が神だ、と思っただけのこと。メソポタミア文明の影響を真っ先に受けたであろう古代ギリシャだってそうだったではないか。
アフリカ中央部は、「部族」という規範意識というか制度意識を文明社会の基礎としてエジプト・メソポタミアに提供し、そこで生まれた「神という規範」がアフリカ中央部の未開社会に逆輸入されていって、いわゆる世にいう「原始宗教=アニミズム」が生まれてきた。まあそういう図式というか歴史の流れなのだろう、と僕は考えている。