都市の起源(その二十八)・ネアンデルタール人論179

その二十八・聖地巡礼

そろそろ都市の起源論を締めくくりたいのだが、迷走している。
最初に戻ろう。
起源としての都市は、どこからともなく人が集まってくることによって生まれてきたわけで、氷河期明けの1万年前ころ、そのことがもっともダイナミックに起きたのは、ヨーロッパでもアフリカでもなく中近東(とくにメソポタミア文明の地域あたり)だった。
中近東はヨーロッパとアフリカのの混血地域であり、ヨーロッパ的な一か所に人が集まってくる生態と、その集まってきたものたちを結束させるアフリカ的な部族意識の集団性を併せ持っていた。そうやって、集団がどんどん膨らんでいった。言い換えれば、アフリカ的な部族意識を持たなければその「都市」を維持できなかったというところに、中近東における集団性の大げさなダイナミズムと限界というか不自然があった。
ヨーロッパでは人と人の「連携」がおよぶ範囲の規模でしか集団をつくれなかったが、中近東ではもう、そういうことはかまわず、「部族意識」で「結束」しながら無際限に膨らんでいった。つまり中近東で発生した都市は、最初から原始的な「都市集落」の性格から逸脱して、すでに「都市国家」のような「規範=制度性」を持っていた、ということだ。
「連携」と「結束」、この二つの集団性は、矛盾するのであって同じではない。
ネアンデルタール人の集団は「結束」がなく、つねに離合集散を繰り返していた。ひとりひとりは孤立し、しかしだからこそ豊かにときめき合い「連携」していた。ヨーロッパ人の集団性は、そういう伝統を持っている。
それに対して中近東では、今でも、ひたすら集団の論理で「結束」しつつひとりひとりの「連携」はあまりないという集団性の伝統になっている。そうやって「アラブの春」で盛り上がり、われわれにはよくわからないような結束の仕方の「イスラム国」という集団が勢力を拡大してきた。
なんのかのといっても、一部のアラブ人にとっての「イスラム国」はひとつの「聖地」になっていて、世界中からそこを目指す動きがある。
「聖地=約束の地」、すなわち約束の地に約束された人々が集まってくるという思想。まあ人類の「共同体」は普遍的にそういう制度的な観念を共有しながら結束してゆく歴史を持っているわけだが、イスラム教徒のメッカ巡礼が示すように、アラブ人の思考や行動においてことにラディカルにあらわれている。それは、アフリカ的な部族意識とヨーロッパ的な連携意識が融合した結果なのではないだろうか。イスラム教徒のメッカ巡礼だけでなく、ユダヤ人だって2000年以上も「約束の地」に戻ろうとする宿願を手放さなかった。どこからともなく人が集まってくる生態の起源はおそらくネアンデルタール人以来の伝統を持つヨーロッパにあり、その過激な「結束力」の起源はおそらくアフリカの部族意識にある。彼らは、部族意識も連携意識も集団性の基礎として持っていないがゆえに、その表現があきれるくらい大げさというか極端になる。いや、両者の融合したかたちを基礎的・歴史的な集団性として持っている、というべきか。


メソポタミア文明エジプト文明も「王朝」として栄えた。王は、「神」の代弁者として「絶対的な規範」を提示し執行する存在だった。人々の結束には、王という存在が必要だった。王の支配下にあるということは、王を共有しているということでもあり、それは、遠い昔のの英雄(救世主)を先祖として共有しているというアフリカの「部族意識」を発展させた観念のかたちに違いない。
彼らの集団は、ヨーロッパのような「連携」の関係を持たなかった。それでも氷河期明けにおいては、一か所に多くの人が集まって来るということが世界のどこよりもダイナミックに起きていたのであり、それが集団として成り立つためには、どうしてもそうした「規範の共有」による「結束」が必要だった。そしてそれは、アフリカのように「先祖=規範を共有している」という合意を持てる関係ではなく、見知らぬものたちがどこからともなく集まってきただけだから、もっと現実的で説得力を持つ規範が必要だった。そうやってアフリカの「部族意識」における「先祖の英雄」という概念を発展させてというか大げさにして「王」という「支配者=規範の提示者」が生まれ、その規範の絶対性を担保する対象として「神」という概念が生まれてきた。
そうやって彼らは神とその代理人である王のもとに「結束」していった。
そこではヨーロッパのようにどこからともなく人が集まってくる現象が起きていたが、ヨーロッパほど豊かに「連携」してゆくことはできなかった。しかしそのかわり、アフリカの部族意識のようにつよく「結束」してゆき、ヨーロッパよりももっと大きな集団になっていった。そうやってヨーロッパに先んじて文明国家を生み出したが、そこでは人間的な「連携」の関係が希薄であったために、けっきょくはヨーロッパに追い越されることになった。
原始的な「都市集落」は「連携」の上に成り立っており、中近東のエジプト・メソポタミアにおける文明の発祥とともに生まれてきた共同体としての「都市国家」は「結束」の上に成り立っていた。そこに、エジプト・メソポタミアのダイナミズムと不自然(=限界)があった。


ヨーロッパの文化とアラブの文化の異質性は、集団の基本的なコンセプトが「連携」にあるか「結束」にあるかという違いにある。「連携」と「結束」は同じではない。オーケストラのようにそれぞれが別々のことをしながら全体としての統一性をつくってゆくのが「連携」だとしたら、みんなが一緒のことをするのが「結束」の関係であり、似ているようでいて、まったく異質なのだ。だからヨーロッパとアラブは歴史的に仲が悪く、戦争ばかりしてきた。現在のバルカン半島の民族紛争だって、ヨーロッパとアラブの代理戦争のような様相を示している。また、仲が悪いと同時に、アラブ人はヨーロッパ人の「連携=アンサンブル」の能力に憧れてもいる。それを取り入れないことにはヨーロッパに追いつけない(あるいは追い越せない)ことを骨身にしみて知っている。
中世後半から近代にかけて繁栄したオスマン帝国は、人類最初の都市発祥の地であるチグリス・ユーフラテス川上流域であるアナトリア地方(現在のトルコ南東部)から登場してきた。そこから拡大していってギリシャとのの境界のコンスタンティノーブル(現在のイスタンブール)に首都を置き、さらにヨーロッパの一部であるバルカン半島周辺まで領土を広げていった。彼らが生まれ故郷のアナトリアではなくコンスタンティノーブルに首都を置いたことは、ヨーロッパに対する野心と憧れによるのだろう。そこを拠点にしてヨーロッパを侵略し、ヨーロッパ人を取り込みながら国力を強化していった。軍隊はバルカン半島周辺出身のものたちを中心に編成し、王家のハーレムの女はスラブ地方から集めてきて、歴代の王妃はすべてスラブ民族の女だったともいわれている。やることが無原則で大げさで極端なのだ。その国力は大いにヨーロッパを脅かしたが、けっきょくヨーロッパ全域を凌駕することはできなかった。彼らの軍隊の「結束力」は強大だったが、「連携」の能力に限界があった。つまり、「連携」の能力をもとにした近代戦争についてゆけなくなっていった、ということだ。近代に入ってからはヨーロッパの領土をどんどん失ってゆき、最後はドイツと同盟を結んでバルカン半島周辺の失地回復を図って第一次世界大戦に参戦していったが、逆にそれがもとで滅亡してしまった。まあ最後には、その徹底した無原則・唯我独尊ぶりゆえに、ヨーロッパからもアラブ世界からも孤立していったということだ。現在のトルコ人はその地域の先住民で、オスマン帝国をもとのアナトリアに押し返すようにして独立を取り戻していった。


現在のヨーロッパには、たくさんのアラブ世界からの移民がいる。それはアラブ人のヨーロッパに対する憧れによることも大きいのだろうし、ヨーロッパ人は移民を受け入れることができる「連携」のメンタリティを基礎に持っている。しかし、そのメンタリティの「連携性」と「結束性」の違いというのはどうしてもあるわけで、アラブ世界に戻ってゆくものも多い。
イスラエルイスラム国も、部族的な「結束」が集団性の基礎になっている。その拡大してゆこうとする侵略性は、アフリカ的な自閉してゆく「部族意識=ミーイズム」をきわめて大げさに表現してゆくことの上に成り立っている。中国大陸の中華思想朝鮮半島の唯我独尊ぶりも、まあそのような集団として自閉してゆく一種のミーイズムかもしれない。人類拡散の通り道の地域は、「結束」の集団性が強いが、「連携」のメンタリティは希薄な傾向にある。希薄だから、「結束」の集団性を持たなければ集団を成り立たせることができない。そこのところで、拡散の行き止まりの地で「連携」を基礎にして歴史を歩んできたヨーロッパや日本列島とは相容れない関係になってしまう。
日本列島は中国大陸の「漢字」を輸入したが、その意味性も形も解体しデフォルメして「ひらがな」を生み出していったことには、その逆立した関係を超えてゆこうとするきわめてアクロバティックな心の動きがはたらいている。仏教だって、その基本的なコンセプトである「戒律」を、すっかり骨抜きにしてしまったし、戒律のない神道も国の宗教として並立させてきた。それはもう、ヨーロッパがアラブ移民の結束性と相容れなくて階級社会をつくっているのと、けっして別のことではない。
制度的な「都市国家」の基本的なコンセプトは「結束」にあり、原始的な「都市集落」のそれは「連携」にある。もちろんわれわれはもう原始時代に戻ることはできないが、その「連携」のコンセプトの衰弱は、少子化・いじめ・発達障害、引きこもり等々、現在の都市が抱えている深刻な問題でもある。
人間的な「連携」は、ひとりひとりが孤立した水のような淡い関係から生まれてくるのであり、それが都市生活の流儀になっている。こんなにも人が多い都市では「連携」してゆかなければ生活は成り立たないし、「連携」するために水のような淡い関係になってゆく。「連携」することが都市生活の醍醐味であり、人と人は「結束」することによって「連携」の関係を失ってゆく。
オスマン帝国イスラエルイスラム国も、そういう「結束」するための「支配」や「教育」をものすごく過激に熱心に実行してきたことによって、強大になってゆくと同時に世界との「連携」を失っていったのだ。それは、ものすごく過激で過剰な「連携」だともいえるのかもしれないが、彼らは「連携」の基礎を持っていないからこそ、そういう「結束」で集団を成り立たせようとするし、「連携」の基礎を持っているヨーロッパ人にはそれが鬱陶しい。
まあ「支配」とか「教育」ということは「性悪説」の上に成り立っているのかもしれないが、人人がときめき合い「連携」してゆくことはべつに「善」でもなんでもなく、生きものの命の自然なはたらきだろうと思える。「善」なんか知らない。教育なんかしなくても人は勝手に「学ぶ」のだし、人と人の関係は一方通行であり、そうやって水のように淡い関係になりながら人間的な「連携」が生まれてくる。
「連携」こそ都市生活の流儀であり、醍醐味にほかならない。
生きる能力を持った強いものが生きられない弱いものを支配・教育してゆくことによって「結束」が生まれてくるのかもしれないが、「連携」は、誰もが「生きられない弱いもの」になってゆくこと、すなわち支配・教育することの「不可能性」の上に成り立っている。
性善説」ではない。人間性の自然は、「生きられない弱いもの」になってゆくことにある。その「もう死んでもいい」という勢いこそ、直立二足歩行の開始以来の人類の歴史の無意識であり、「生きられなさ」こそ人間的な「連携」の源泉なのだ。
「善」なんか知らない。そんなものは、支配・教育したがるものたちがみずからの正当性を確認するために勝手に捏造しているだけのこと。