都市の起源(その二十七)・ネアンデルタール人論178

その二十七・人間的な連携

知性とは「わかる」ことではない。「なんだろう?」と問うことだ。そうやって生まれたばかりの子供のようにこの世界の「不思議」に驚きときめいてゆくことだ。そういう「問い=ときめき」を生きているなら、無知な庶民だって「知性的」な人だといえる。
何もかもわかっているかのような物言いをしたがる大人なんか、たとえインテリであっても、知性の衰弱・退廃でしかない。知性とは「考える」ことであって「わかる」ことではない。まず問題を立てて、そこから四苦八苦しながら何かに気づいてゆく。知性とは、問題を立てる能力のこと、「問題」すなわち「この世界の不思議」と出会って驚きときめく心のこと。
他者はこの世界の不思議として「私」の前に立ちあらわれているのであって、わかることなんかできない。「人を見る目がある」といっても、わかった気になって勝手に決めつけているだけの場合は多い。
人と「関係を結ぶ」ことは、「問う」ことであって、「わかる」ことではない。そこから人間的な「連携」が生まれてくる。
人と人は、一緒に生きようとしているのではない。人は、避けがたく生きられなくなることをしてしまう生きものなのだ。「わかる」ことの向こうにある「わからない」ことに引き寄せられてしまう。そうやって「なんだろう?」と問うわけだし、そうやって地球の隅々まで拡散していった。そうやってより住みにくい土地住みにくい土地へと拡散していった。つまりそのとき原始人は、「生きられる故郷」を捨てて「生きられない新しい土地」に移住していったのだ。そうやって誰もが「生きられない弱いもの」になり、誰もが生きられない弱いものを生きさせようとする存在になっていった。
誰もが生きられない弱いものになり、誰もが生きられない弱いものを生きさせようとするところにこそ、人間的な連携の基礎がある。
強いものが弱いものを助ける、というのではない。そんなのは「連携」とはいわない。弱いものどうしがたがいに自分を捨て相手を生きさせようとしてゆくところでこそ、より人間的でダイナミックな「連携」が生まれてくる。
なんのかのといっても人類史における弱いものたちは、弱いものどうしが連携し助け合いながら生き残ってきたのであって、強いものに助けてもらったのではない。ことに文明発祥以降の歴史においては、強いものに支配され搾取されながら、それでも生き残ってきたのだ。
弱いものを生きさせるのは弱いものであって、強いものではない。
人間的な連携は、弱いものどうしにおいて、もっともダイナミックになる。原初の人類は、二本の足で立ち上がって弱いものどうしになることによって、人間的な「連携」を発見した、それは、誰もが他者が生きるための「生贄」になってゆくことだった。「強いものが弱いものを助けてやる」という、愛だかなんだか知らないが、そんな偽善のような関係を発見したのではない。そんな関係に人間性の自然があるのではない。


オーケストラやコーラスのアンサンブルというかハーモニーは、それぞれが違う音(声)を奏でながら、しかもそれぞれが他者の音(声)が生きるための「生贄」になっている。どの音(声)も、みずからを主張していないし、できない。そうやって「生きられなさ」に身を浸している。
誰もが「ひとりでは生きられない弱いもの」になることによって、人間的な「連携」が生まれてくる。
そしてそれは、一方通行の関係なのだ。「他者を生きさせている」という意識なんかない。みずからの「生きられなさ」が心地よいのだ。それぞれのみずからの「生きられなさ」に身を浸してゆこうとする衝動の上に「連携」が成り立っている。根源的には、「他者に生かされている」という意識も「他者を生きさせている」という意識もはたらいていない。生きることなんか無意味でいたたまれないだけのことだもの、そんな意識など持ちようがない。「生きられなさ」に身を浸すことの「恍惚=快楽」がはたらいているだけなのだ。あくまで「結果」として「他者に生かされている=他者を生きさている」だけのこと。そのとき、ただもう一方的にときめいているだけのこと。
「他者に生かされている」だなんて「生きられなさ」に身を浸す「恍惚=快楽」を知らないからで、そういう言い方をすれば生きることが大事の現代社会では説得力を持つのだろうが、そんなことを人間性の自然として心の底から実感している人間なんかひとりもいない。そして「他者を生かしている」と思うことは根源的には不可能であり、後ろめたいことなのだ。
人は他者を生かそうとする生態を持っているが、根源的にはそんな衝動がはたらいているのではない。生きることなんか愚劣でいたたまれないことであり、「生きられなさ」に身を浸したいだけなのだ。その「結果」としてそういう関係になってゆくだけのことで、人は、他者との関係の中で「生きられなさ」に身を浸そうとする衝動を紡いでゆく。根源的には他者を生かそうとしているのではない。あくまで一方的に、そういう行為をしてしまうだけなのだ。いやこれは、人間だけのことにはかぎらない。生きものが子を産み育てることは、べつに育てようとする衝動がはたらいているのではなく、この生のエネルギーを消費すること自体がそういう「結果」をもたらす仕組みになっているからだろう。この生のエネルギーを消費することは「死んでゆく」ことであり、「生きられなさ」に身を浸そうとする衝動がはたらいていなければ「消費する」ことはできない。つまり、「生きられなさ」に身を浸してゆくことによって命のはたらきが活性化する、ということ。
人は人に「献身」する。しかしそれはあくまで一方通行の関係であり、根源的には他者を生かそうとする衝動がはたらいているのではなく、ひたすらときめきながら「生きられなさ」に身を浸そうとしているだけなのだ。
人と人の関係は一方通行であり、そこでこそゆたかな「連携」が生まれてくる。まただからこそ「別れ」が起きてくるし、それに耐えることができる。別れに耐えることが、何か高級な人格や思考であるかのようにいう人も多いが、ネアンデルタール人は、われわれよりももっと豊かにときめき合い、もっと自然にそれに耐えることができていた。ひたすらかなしみつつ、その関係と和解していった。そうやって死者との別れを、「埋葬」というかたちで表現していった。
人と人の関係はあくまで一方通行であり、しかしだからこそそこで豊かな「連携」が生まれる。人に干渉してそれが愛だとかなんとか、やめてくれよと思う。人間的な「連携」は、「説得」とか「教育」とか、そんな関係の不可能性の上に成り立っている。