都市の起源(その二十六)・ネアンデルタール人論177

その二十六・心の中の神、という制度性



いくら自分の正しさを見せびらかしても、そのぶんだけ人から好きになってもらえるとはかぎらない。
人間なんて人に好かれてなんぼの存在だし、誰だって自分は魅力的な存在たりえているかということが気になっているのだが、その「正しさ」が魅力になると思ってしまっているところにこそ、彼らが魅力的でない原因がある。
彼らは、心の中に「神」を持っている。「神」との関係を生きている。「正しさ」とは「神」の別名なのだ。「俺は無神論者だ」といってもだめで、「正しさ」に執着するそのぶんだけ、あなたの脳髄は「神の規範」に縛られている。現代人の観念というか思考は、誰もが多かれ少なかれ「神という概念」に汚されてしまっている。宗教者であろうとあるまいと、「正しさ」すなわち「自己の存在の正当性」に執着するなら、すでに心の中に「神」を持ってしまっている。
この世に「正しい」ことなど何もないのだ。そのことを思い知れば、そうかんたんに人や世の中は裁けないし、人や世の中のあるべきかたちをいい立てることもできない。
心の中に「神」を持ってしまっているから「正しさ」が信じられる。そしてその「正しさ」で人や世の中を裁いてゆく。あなたがどんなにその裁く能力をうぬぼれても、その「裁く」という態度そのものが鈍感で下品で、そうやって人から嫌われる。
知性とは、「正しさ(正解)」を知っていることではなく、「何だろう?」と問うてゆく態度のことだ。あなたたちは「正しさ(正解)」を知っているぶんだけ、「何だろう?」と問うてゆく知性が欠落している。どんなに偏差値が高くても、けっして知性的だとはいえない。
この世のもっとも本格的な知識人はみな、どんなことにも「何だろう?」と問うてゆく好奇心を持っている。彼らは、この世に「正しい」ことなど何もないということを、身にしみて知っている。
心の中に「神」を持って何もかもわかっているつもりになることを知性というのではない。下層の無知な庶民の中にも、そういう態度で生きている人はいくらでもいる。インテリだろうと無知な庶民だろうと、鈍感な人間はそういうつもりになってゆくのだ。
鈍感な人間どうしのネットワークをつくって、内田樹という、これまた鈍感の極みのような人間を教祖様みたいに持ち上げていやがる。
彼らは、自分が望むほどには人に好かれていないことを、「俺の魅力を人はわかってくれない」という自己正当化の言い訳をしながら生きている。魅力的なら、好かれるさ。魅力がないから好かれないだけのこと。人間なら誰だって他者の「魅力=輝き」にときめいてゆく心を持っているのであり、「魅力をわかってもらえない」などいうことはないのだ。
ほんとに魅力的な人は、必ず好かれる。好かれない魅力的な人など存在しない。まあ、親密な関係になればその人の魅力がよくわかるという場合もあれば、親密な関係になればなるほど相手の心が離れていってしまう場合もある。内田樹なんかは後者のタイプで、ひとまず世渡りの付き合いはひといちばい上手だが、親密な関係になって正体をさらせば、とたんにげんなりされてしまう。
まあ、自分の「正しさ」にしか興味がないんだもの、そんな人間と一緒に暮らせばだんだん気味悪くなってくる。
彼らは、「神」に愛されている人間のつもりでいて、それが自分の魅力だと思っている。「神」とは、この世の正義のこと。無神論者でも、「神」に愛されているつもりの人間はいくらでもいる。
つまり、われわれのこの世界は、すでに「神」という概念が機能してしまっているのだ。
原始的な「都市集落」が、「神の規範」を持った「都市国家」へと変質していったことによって「文明の発祥」が起き、そのときから人類は「神の規範」に縛られて生きる存在になっていった。
とはいえこの国は、海に囲まれた島国だったこともあり、「神の規範」ではなくあくまで「祭りの賑わい」を基本的なコンセプトにした原始的な「都市集落」の文化の痕跡を残しながら歴史を歩んできた。だから宗教なんか「祭りの賑わい」なっていればいいだけのただのファッションで、なんでもけっこう、というような風土がある。それはつまり、「正しい」ことなんか何もない、という「混沌」を生きようとしている態度でもある。この国においてはそういう「混沌」を生きることができる人でないと魅力的ではないし、誰の中にもそういう混沌を生きようとする衝動が疼いている。
まあ「やまとことば」という日本語そのものがそういう「混沌」を生きようとする構造になっているわけだが、このことに深入りすると現在の「都市論」から離れてしまいそうなので、これ以上はいうまい。
気になるのは、近ごろのまさに都市的な風潮であるところの、いじめとかセクハラとかパワハラとかDVとかストーカーとかクレーマーとかネトウヨとかスキャンダル報道で盛り上がるとか、どうしてそうやって人を裁きたがる傾向が強くなってきているのだろうかということだ。彼らは、心の中に「神」を持ってしまっており、神に愛されているつもりでいる。
わけのわからないスピリチュアルの教祖様も次々にあらわれてくるし。
そうしてそんな現在の風潮をあらわすような事件の報道があるたびに訳知り顔の大人が「世の中が狂ってきている」などと嘆いてみせるのだが、その前に「それはいったい何だろう?」と問うほうが先で、そんなにかんたんに裁いてしまうなよ、といいたくなってしまう。裁いてしまうから、そんな事件が起きるのだろうし、彼らには「何だろう?」という問いがない。「何だろう?」と問う「ときめき」がない。神のように何もかもすでにわかっていることにしてしまえば生きやすいのだろうが、「ときめく」とはこの世界が「不思議」として立ちあらわれることに対する「驚き」であり、この世に「正しい」ことなど何もない。われわれはもう、この社会の「愚か」な存在として、驚きうろたえながら生きているしかない。