都市の起源(その二十五)・ネアンデルタール人論176

その二十五・都市生活の醍醐味

生き延びようとする欲望が人を生かしているのではない。
人間なんか、生き延びることができなくなるようなことばかりして生きている存在なのだ。
生き延びることができなくなるようなことをするのが人の生きるいとなみだ、と言い換えてもよい。
タバコを吸ったり酒を飲んだりギャンブルをしたりセックスをしたり、よけいなことばかりして生きている。
まあ、住み慣れた故郷を捨てて都会に出てゆくということだって「もう死んでもいい」という無意識の衝動の上に成り立っているわけで、そうやって人類は地球の隅々まで拡散していった。
それでも人は生きている。それは、世界や他者が輝いているからであり、誰の中にも他者を生きさせようとする衝動がはたらいているからだろう。そういう人間社会の「連携」の上にこの生が成り立っている。
「もう死んでもいい」という勢いで他者を生きさせようとしてゆく。今どきは誰もが生き延びようとするあさましい欲望をたぎらせている世の中であるとしても、それでも人は、心の底のどこかしらにそういうこの世の「生贄」になろうとする衝動を疼かせている。
生きることなんかどうしようもなく愚劣でいたたまれないことなのだもの、そうそうむやみに生き延びようとする欲望をたぎらせることはできない。生き延びることができなくなるようなことをしてはじめてこの生の帳尻が合うのだし、じつはそこでこそ心も命のはたらきも活性化する。
「他者に生かされている」などとありがたがる必要もない。ありがたがらねばならないほどの大切な人生でも自分でもない。余計なおせっかいはやめてくれ、そんなことが有難迷惑なときはいくらでもある。
自分が生きてあることの正当性を確認するために余計なおせっかいばかりしている人もいる。そういう支配欲は、ほんとにうっとうしい。そうやって他人を「自分のもの」にしようとするなよ。
人は、他者が輝いているから、他者を生かそうとする。輝いてもいない人と連携することなんかできない。輝いている人は、「もう死んでもいい」という勢いを持っている。人と人の連携はそういう勢いでたがいに相手の「生贄」になろうとすることの上に成り立っているのであって、たがいに支配し合うことではない。
たとえば、オーケストラのメンバーは、誰もが「自分」を捨てながら他者の「生贄」になって音を紡いでゆくことによって絶妙のアンサンブルを生み出している。
「もう死んでもいい」という勢いを持っている人は魅力的だ。そういう勢いを感じなければ、連携なんかできない。そういう勢いをやりとりしながら、人と人の連携が生まれてくる。
世の中には、「もう死んでもいい」という勢いを持っているかのようなポーズを取りたがる人は多い。ポーズだけならいずれ正体を見透かされるわけだが、ともあれ、人の魅力がそういうところにあることを誰もが知っている。それはつまり、その勢いは人間なら誰でも無意識のところに持っているということを意味するのだが、この社会の制度性がその勢いのままには生きられない心(観念)にしてしまう。
時代やこの社会の制度性に踊らされながら、いつの間にか「生き延びる」ことに執着する心模様にさせられてしまう。


死んだあとも観念だけは生き延びるんだってさ。死後の世界があるんだってさ。彼らはそこまでして生き延びたいのであり、「自分」を失いたくないのだ。死んでも「自分」だけは失いたくない。死ぬことよりも「自分」を失うことの方がもっと怖い。死んでも「自分=観念」だけは残る、という確信があるから、死ぬことなんか何も怖くないんだってさ。
まあ、死後の世界があろうとなかろうと、その「<自分>を失いたくない」というミーイズムは気味悪い。死後の世界をどうこういう以前に、「<自分>を失いたくない」という心で生きているというそのことが気味悪いし胡散臭い。それは、誰にもときめいていない、ということだ。「自分」の正当性を保証する存在として激しく他者に執着することがあるとしても、それはときめいているのではない。人は、自分を忘れて(=失って)ときめいてゆくのだ。ときめくことは、ひとつの喪失感でもある。彼らは、喪失感と和解できない。自分が執着した相手と別れることに耐えられない。それはつまり、「<自分>を失いたくない」という心の投影なのだ。
別れることに耐えられないということは、相手を「自分のものだ」と思っていたということだろう。そう思っていただけで、ときめいていたのではない。
「ときめく」ことは、「自分のものだ」と思うことではない。「自分を忘れている」のだから、「自分のものだ」と思いようがない。「自分」を忘れていられることのよりどころとして相手が存在している。「自分」という存在のあいまいさの上に立ってときめいている。そうやって、「相手=他者」の存在の確かさや鮮やかさに驚いている。その絶望的な「落差=隔たり」が「ときめき」を生む。そのとき「相手=他者」は異次元の存在であり、「自分のものにはできない」というそのことが「ときめき」なのだ。
言い換えれば、「自分のもの」になった瞬間に恋が冷める。
べつに恋でなくても、人と人の関係は、「自分のものにはできない」という絶望というか断念とともに深く豊かになってゆく。
彼らは、他者の存在の「異次元性=非日常性」というものを知らない。
おそらく人の心の「ときめき」の起源は、原初の人類が二本の足で立ち上がったときに思わず頭上を仰ぎ、森の木の向こうに見える「青い空」に対して「遠い憧れ」を抱いたことにある。それは「非日常」の世界の発見であり、その異次元性に「遠い憧れ」すなわち「ときめき」を抱いた・
まあ、意識が頭上に向きながら二本の足で立ち上がっていったのだ。頭上に向いてゆかなければ、その姿勢になることは起きない。そしてそこには、「異次元=非日常」の世界である「青い空」があった。
他者という存在の「異次元性=非日常性」に「遠い憧れ」を抱いてゆくところに人と人の関係が成り立っている。
原初の人類は、小さな森の中の密集しすぎた群れの中で、その鬱陶しさから逃れるように意識を頭上に向けながら二本の足で立ち上がっていった。
都市の雑踏の中で、思わず空を仰ぐ。それはもう、原初的な体験なのだ。都市住民は、他者という存在の「異次元性=非日常性」を身にしみて知っている。水のように淡い関係を保つことこそ、都市生活の流儀だ。と同時に現在の都市は、「都市国家」の伝統としての「規範性=制度性」も強く機能しており、「自分のものだ」と思ってしまうミーイズムもいたるところでうごめいている。そうしてブサイクな顔をした大人たちが巷にあふれたり、心を病んだり、むごたらしい事件が起きたりしている。
同じ都市住民なのに、他者の「異次元生=非日常性」を知っている人たちと知らない人たちがいる。それは、原始的な「都市集落」と制度的な「都市国家」の違いでもある。現在の都市は、この二つの顔を持っている。知っている人たちは少数派だが、この人たちのほうが人に好かれる。知らない人たちは、世渡りが上手なわりに、人に嫌われたり、女(男)に逃げられたり子供にそむかれたりすることも多い。
われわれは、都市生活の醍醐味としての心と心が響き合うような「語らい」を体験することができているか?
うわべだけのなれ合いやじゃれ合いはいつでもどこにでもあるが、誰もが「さびしさ」を抱えた都市での暮らしがそれだけですむわけもなかろう。