コロナウイルスは天使からの贈り物である

歳をとると、「可能性」のことよりも「不可能性」のことを想う。

ここでいう「どこかのだれか」とは、「いつかどこかで会うかもしれない相手」ではなく「永久に出会うことのない相手」のことだ。

どんなに若くて行動範囲や交際範囲が広い人でも、一生でこの地球上で出会える人はほんの一部でしかなく、出会うことのない人の方が圧倒的に多い。その、出会うことのない人に対する出会う人の割合は、だれにおいても限りなくゼロに近い。そういう意味では、すべての出会いが「奇跡」である、ともいえる。また、「どこかのだれか」を想うことは無限の人と出会うことでもある、ともいえる。

人の心は、「不可能性」を想う。そしてそれは、無限の「可能性」を想うことでもある。そうやって人は、「どこかのだれか」のことを想って生きている。

「人類みな兄弟」とか「地球はひとつ」といえば陳腐で臭いセリフだが、たしかに人類は、存在そのものにおいてすでに地球規模のネットワークを持っている。

人と人が出会って言葉を交わしたりセックスをしたりするその関係性は、地球の隅々まで広がってゆく。「あなた」の心は、地球の隅々まで伝播してゆくし、地球の隅々の心は「あなた」のところまで伝播してきている。アマゾンの一羽の蝶の羽ばたきからはじまる無限連鎖の果てに日本列島で大災害が起きた……ということはたしかにありうる。すべての存在は、地球規模、いや宇宙規模の関係性の中に置かれている。

 

たとえば、日本語はどこから伝わってきたかというようなことはなく、地球上のすべての人類が言葉を生み出すような集団性を共有していたのであり、すべての地域で独自に生まれてきたのだ。つまり地球上のすべての地域が関係し合いながら、すべての地域で言葉が生まれてくる集団性になっていったのだ。言葉が生まれてくるような集団性を持っていなければ、言葉を伝えることなんかできない。つまり、すでに言葉を持っている集団だから、言葉を伝えることができる。

言葉が中国から伝わったとか朝鮮から伝わったとかと問う以前に、言葉が生まれてくる関係性を持った集団はどのようにして生まれてくるか、という問題がある。

まあ「言葉の起源」はかんたんに語り切れないややこしい問題であるが、とにかく言葉は、「どこかのだれか」を想うようなメタフィジカルな思考がなければ生まれてこない。

「かなしい」という音声がどうして「かなしい」という感情をあらわしていると認識することができるのか。それは、思考における超越的な「飛躍」であり、音声は、異次元の世界から現れて、異次元の世界に消え去ってゆく。つまり人の心が音声に憑依することは「異次元の世界=どこかのだれか」に憑依することであり、そうやって人類は、地球上のすべての地域が「言葉が生まれてくる関係性=集団性」になっていった。

チンパンジーがいまだに言葉を話さないように、言葉は、言葉が生まれてくる「不可能性=超越性」の上に成り立っている。

 

「どこかのだれか」を想うことは、「不可能性」を想うことだ。そこに、人間性の自然がある。それは、「不可能を可能にする」ということではない。「不可能性を抱きすくめてゆく」ということ。その超越的な思考によってこの生が活性化し、人類の歴史は進化発展を遂げてきた。イノベーションとは、超越的な世界に向かって「飛躍」することだ。

「進化」とは、「可能なことを計画する」ことではない。「不可能性を抱きすくめて身もだえする」ことによって「進化=イノベーション」が生まれてくる。

現在のコロナウイルス肺炎のことが世界的に大騒ぎになっているのは、情報過多や情報隠蔽の疑いによって必要以上に人々の「不安や恐怖」が増幅されてしまっているからだ、といわれたりしているが、それだけの話ではない。もともと人類は、だれもがつねに「どこかのだれか」のことを想いつつ、地球規模で情報を共有してゆく生態を持った存在なのだ。原始時代はそのことに数万年の時間を要したが、現在では一瞬でそれが可能になっている。それだけのことで、本質的には同じなのだ。

人の心はつねに「どこかのだれか」のことを想っている、ということ。たしかに現在は世界中に「不安と恐怖」が広がっているという事実はあるにせよ、世界中の人々が「どこかのだれか」のことを想いつつそうした「人恋しさ」を共有しているという人間性の本質もはたらいているのであり、だれもが「どこかのだれか」に対して「生きていてくれ」と願っているからこそ、世界中で協力してコロナウイルスを封じ込めようとするムーブメントになっている。

こんなにも大げさになっているのは、ただの「不安と恐怖」だけの話ではない。目の前の人間に「不安や恐怖」を刺激されるとしても、「どこかのだれか」はそのような対象ではなく、ひたすら「生きていてくれ」と願うことができる。人と人は、たがいにもっとも遠い存在になることによって、もっとも深く豊かに愛し合うことができる。愛は、愛の不可能性においてもっとも深く豊かになる。そうやって人は、他者の死に深く涙している。

この地球上ではいつもどこかでだれかが死んでいっているが、ふだんはだれもそんなことは意識しない。疫病や災害の情報があったときにはじめて意識し動揺する。とくに疫病は世界中に拡がってゆくから、よけいに不安が募るし、「生きていてくれ」という願いも切実になる。なんのかのといっても今回のコロナウイルス騒ぎによって、世界中がそういう願いを共有している。

 

そういうネットワークの意識を共有していないのはこの国の政府官僚たちばかりで、それが情けない。まあネトウヨたちが急に政府の場当たり的な対応を批判しはじめたことだってこの国が生き延びることだけが眼中にあって、世界のことなど何も心配していない。どっちもどっち、ということだろうか。どっちも自意識過剰で、「どこかのだれか」を想う心が著しく欠落している。

われわれは、自分が生き延びるために国のコロナウイルス対策を要望しているのではない、「どこかのだれか」が死んでいっていることに動揺しているからであり、「どこかのだれか」が生きていてくれることを願っているからだ。ここのところで権力社会とわれわれ民衆社会の意識に大きな乖離がある。この国には、両者のあいだに「契約関係」がないから、権力者は民衆の命や生活を守ろうという意識なんかほとんどない。それはもう、あの悲惨な戦争で思い知らされたはずだが、因果なことに忘れっぽい民族だから、権力社会にやりたい放題やられて、何度でも同じ目にあってしまう。

今回のコロナウイルス騒動は人々の「不安と恐怖」によって引き起こされている、というような上から目線の分析が多くの知識人のあいだで語られているが、それだけでは問題の本質を半分しか語っていない。

何はともあれ人々は「どこかのだれか」が死んでいったことに動揺しているのであり、それは自分が生き延びるための「不安と恐怖」というだけではすまない。

人が人を想うことは、すべからくひとつの「動揺」だともいえる。

他者を想うことは自分に貼りついている意識が引きはがされる体験であり、そのようにして「動揺」する。

「意識が自分に貼りついている」とは、自分の外のもうひとつの自分が自分を見ている状態であり、その「見ている自分」と「見られている自分」は、いったいどちらが「ほんとうの自分」であるのか?これは、大問題だ。しかし意識が自分から引きはがされて他者に憑依しているときにこそ二重に引き裂かれた自分が統一されているわけで、その「憑依している自分」こそ「ほんとうの自分=即自」だともいえる。

意識は、自分の頭の中ではたらいているのではなく、頭の外のどこか「異次元の空間」ではたらいているように感じられる。そのようにして自分は自分の外にあり、そのようにして人は「どこかのだれか」を想っている。

「動揺する心」こそもっとも人間的な心であり、そうやって人は、他者を想ってときめいたりかなしんだりしている。だから今回のコロナウイルス騒動のことを、単純に「不安と恐怖」という言葉だけで片づけてもらいたくない。

 

人が人を想うことは、いろいろとややこしい。近くにいれば鬱陶しくもなるし、近くにいても「どこかのだれか」を想うように「遠いあこがれ」を抱いて向き合っているならときめいていられる。人が人を想うことの根源本質は、「遠いあこがれ」の上に成り立っている。

だれの心=意識も自分の頭の外の「異次元の世界」ではたらいているのであり、そこにおいて心=意識はもっとも活性化するし、人が近くにいれば心=意識が自分に向かって逆流して自分に貼りつき、それで停滞し鬱陶しくなってしまう。

近くにいる他人が鬱陶しいということは、鬱陶しいと思っている自分が気になってしょうがない、ということだ。

心=意識を自分のもとから引きはがし、自分を忘れているときにこそ、心=意識は豊かにときめいたり深くかなしんだりする。

今回のコロナウイルス騒動でその「不安や恐怖」から他人や他民族を差別したり排除しようとしたりするのはひとつの自意識であり、それはきっと近代社会の意識であって、原初以来の普遍的な人間性だとはいえない。その「不安や恐怖による排他性=共同性」の奥に、普遍的な人間性としての「人恋しさ」がはたらいている。

現在のこの世界がコロナウイルス対策にがんばっているのは、ただ単に「自分が生き延びたいから」というだけの理由ではない。人類のだれもが心の奥で「どこかのだれか」に「生きていてくれ」と願っているからだ。

「大変だ」と騒ぐのも「たいしたことはない」と多寡をくくるのも違う。現在の世界で突然生まれたこのネットワークは人間性の自然であり、世界が新しい時代に漕ぎ出す契機になるかもしれない。

まあ今回のことによって、世界的にこれまで以上に極端な右傾化と新しい社会民主主義との両極の動きが加速してきているのかもしれないが、醜悪なヘイト右翼はもうこりごりだし、この国では総理大臣以下のそうした右翼が追い詰められている状況になってきたともいえる。今選挙をすれば、彼らは大負けするかもしれない。しかしとうぶん選挙はしないのだから、このままその醜悪な権力が延命してゆくのだろうか。

みんなで大騒ぎすればいい。これは「不安と恐怖」だけで起きているのではない。ひとつの「祭り賑わい」でもあり、人類滅亡はめでたいことだ。その「混沌」の中から異次元の「新しい時代」が生まれてくる。みんなが「どこかのだれか」のことを想っている「新しい時代」が生まれてくる。

 

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初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

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