都市の起源(その四十四)・ネアンデルタール人論195

その四十四・生き延びるためにがんばることの、なんと野暮ったいことか



生きものは生きようとする衝動を本能として持っている……だなんて、どうしてそんな前提が成り立つのか、よくわからない。
「生きる」という概念を意識しているのは人間だけで、ほかの生きものに「死にたくない」とか「死ぬのが怖い」というような意識があるとは思えない。
人間であれどんな生きものであれ、「すでに生きている」という状態でそれぞれの生をいとなんでいるだけだろう。
「すでに生きている」という状態で「意識」が発生する。「すでに生きている」という状態は、意識が存在することの前提であり、したがってその状態から「生きようとする衝動=本能」が起きてくることは論理的にありえない。
われわれの意識は、みずからの身体や目の前の世界に「反応」しながらいろんな思考や行動をしているが、べつに生きるためではない。そこに身体があり世界があるから、それらに「反応」しているだけのこと。意識のはたらきとは「反応」であり、身体や世界に向かう先験的な意識のはたらきなどというものはない。
まあ人工知能にはそういう先験的な意識のはたらきがあるのかもしれないが、生きものにはない。
身体と世界の関係が意識を発生させているのであって、脳さえあれば意識が発生しはたらく、などということはない。身体と世界の関係がなくなれば、意識も起きてこない。
誰だって気を失ったり前後不覚に眠ってしまったりしているくせに、よくも先験的な意識のはたらきがあるなどといえるものだ。まあ、先験的な意識のはたらきとは「霊魂」のことをイメージしているのかもしれない。
意識は、この世界が存在することを前提にして、この世界に向かってはたらいている……そういうのを意識の「志向性」というらしいのだが、さっぱりわからない。
この世界と身体の関係が、意識を働かせている。意識のはたらきは、この世界と身体の関係のあとから発生する。
「意識」は、世界に向いているのではなく、世界に反応しているだけだ。世界に向いているのは、「観念」のはたらきの問題だろう。そうやって生きようともしている。文明人はそういう制度的な思考を持たされてしまっているが、しかしそれは、この生の基礎的な「意識」のはたらきではない。

生きようとする欲望が強い人もいれば、希薄な人もいるし、死にたいと思っている人もいる。
自分の勝手な生き延びようとする欲望を正当化するために他人の「死にたい」という思いを否定する権利などないだろう。ただ、それでも人は、他者に「生きていてくれ」と願わずにいられない存在に違いなく、他者を生かすことがこの生のいとなみになっている。そしてそれは、自分も生きようとすることではなく、自分の生のことなど忘れて「生きていてくれ」と願うのだ。
根源的には、人は他者を生きさせようとする存在であって、自分が生き延びようとする衝動なんか持っていない。まあ、他者を生きさせようとすることが生きるいとなみになっている。「もう死んでもいい」という勢いで他者を生きさせようとしてゆくのが生きるいとなみになっている。基本的には、人の世はそういう仕組みになっている。
生きることなんかどうでもいいというようなけだるい雰囲気を持っている人は、なんだか官能的でセックスアピールがある。人間なんかみんな弱くて愚かななまけもので、だから、そんな存在を生かす装置としての文化文明が発達した。歩くのがいやだから、飛行機や自動車を生み出した。
文化文明とは、生きられない他者を生きさせる装置なのだ。自分が生き延びるために生み出されたのではない。自分が生き延びるためなら、他者の存在はむしろ邪魔になり、こんなにも大きな集団はつくらない。人がたくさんいる都市は、他者を生かすというか他者を生かし合う場であって、自分が生き延びるのに都合がいい場ではない。生き延びるためなら、食糧生産の場である田舎のほうがずっと都合がいい。しかし人は、生きることに倦んで都市にやってくる。
生き延びようとする本能などない。だからこそ、この生に対しても死に対しても、人それぞれいろんな思い方があることだろう。
原初の人類は、「もう死んでもいい」という勢いで二本の足で立ち上がっていった。それによって猿としての生き延びる能力を失ったが、その代わりにときめく心が豊かになって、一年中発情している猿になっていった。人類は、その圧倒的な繁殖力によって生き残ってきただけであって、人類史の最初の数百万年はほとんど進化もせず、猿よりも弱い猿のままだった。
ときめきや感動は、「もう死んでもいい」という勢いで起きてくる。
人は、生き延びようとする欲望が強いぶんだけ、ときめきや感動も薄い。そうやって生きてきたあげくに、認知症やインポテンツになってゆく。
ちんちんが勃起することは、ドキドキする体験なのだ。そういうドキドキがないから、インポテンツになってしまう。いろんなケースがあるとしても、単純にそれだけのことである場合も少なくない。
病的なくらい自分を守ろうとする衝動が強い人がいる。自分を見せびらかすことばかりして生きている人がいる。そういう男たちから順番にインポテンツになってゆく。
意識が「自分」から離れて女の体に憑依して(ときめいて)ゆくことによって、勃起が起きる。自分を忘れてときめいてゆくタッチを持っていないと、インポテンツになってしまう。
勃起するとは、他者が生きてあることに対する感動なのだ。

生き延びるためというか、自我の安定保持のために支配欲を募らせてゆく。
とすれば、「もう死んでもいい」と思い定めることは、支配欲とは無縁で、むしろ「支配されてしまう無防備な心」の状態だといえる。そしてじつは、そこからこそ心が華やぎ、命のはたらきも活性化してゆく。
生き延びたいという欲望は、人間特有のたんなる「観念」というか「自我意識」のはたらきであって、生きものとしての無意識とか本能というようなレベルの衝動のことではない。人間だって生きものだし、ともあれ原初の人類は「もう死んでもいい」という勢いで二本の足で立ち上がったのだ。
生き延びようとする欲望が強い人もいれば、それほど強くない人もいるし、「死にたい」と思っている人や実際に自殺してしまう人だっている。そしてその思いや行動を世の凡庸な大人たちが否定するのは、みずからの生き延びようとする欲望を正当化したいからだろう。生き延びようとする欲望を募らせながらインポテンツになったりしているくせにさ。
生き延びようとする欲望を募らせるということは、心が「自分」に向いてばかりいて外の世界に対する「反応=ときめき=感動」が希薄になっているということであり、その肥大化した自意識によって現代人は、鬱病になったりインポテンツになったりしている。
人の心は、「もう死んでもいい」というかたちで生き延びようとする欲望から解き放たれているときにこそときめきや感動を体験するわけで、そこにこそ人間性の自然がある。おそらく誰の中にも、そういう「もう死んでもいい」という勢いの無意識が宿っている。
「自分」の外の世界に「反応する」ということなしにこの生が成り立つはずがないではないか。生き延びようとする「自分」に対する執着だけですむものか。
女は、「もう死んでもいい」という無意識の勢いで子を産み育てている。その勢いなしに、子を産もうとする決心なんかつくものか。そしてそれは、べつに「悲壮な決心」でもなんでもない。ごく自然な心模様なのだ。ごく自然に、あたりまえのように、「もう死んでもいい」と決心している。べつに、「自分の命を未来にまでつなげようとしている」というような「個体維持の本能」とか「種族維持の本能」とかという問題ではない。そんな本能など、人間にも他の生きものにもない。
すべての生きものは、「もう死んでもいい」という勢いで生きている。そうやってエネルギーを消費しないことには生きられないのだ、
「清水の舞台から飛び降りるつもりで」などというが、人が「決心する」ことは、つまるところすべて「もう死んでもいいという勢い」によるのであって、生き延びようとしているのではない。
生きものが体を動かすことは、体にためたエネルギーを消費してゆくこと、すなわち失ってゆくことであり、「もう死んでもいい」という勢いなしにできることではないのだ。それは、空間的にも身体的にも、「今ここ」のこの生から離脱してゆく(はぐれてゆく)行為にほかならない。
生き延びたいのなら、何もしないでじっとしているのがいちばんなのだ。金をため込むだけで金を使おうとしない守銭奴のように。
誰もが「もう死んでもいい」という勢いでお金を使ってしまうことによって、世の中のお金の機能が成り立っている。
生き延びるためにがんばる必要なんかない。そうやって自意識の塊になってしまうことが、そんなに素晴らしいことか。。無駄にいいかげんに生きていたって、彼らよりも人間性が貧弱だとか不自然だというわけではない。