都市の起源(その四十五)・ネアンデルタール人論196

その四十五・滅びるということ、別れのかなしみ

生きることの意味や価値がどうとかこうとか、多くの大人たちがそんなことを語りたがり、若者たちはそれを探しあぐねて悶々としていたりする。しかしそんなことを問題にすること自体、人は生きようとする衝動=本能など持っていない、ということを意味する。持っていたら、問題になどしない。持っていないから、持ちたがる。それだけのことだろう。
生きることの意味や価値をうなずき合っている社会というのは、そんなにいい社会だろうか。
岸田秀とかいう凡庸な心理学者は「人間は本能が壊れた生きものである」などといいだしてきて、多くのインテリが「その通りだ」とうなずいたりもしている。みなさん、何を寝ぼけたことを合唱しておられるのだろう。生きようとする衝動=本能など持っていないのが、人間だけでなく生きものの本能なのだ。
人間だろうと犬猫だろうと鳥だろうと魚だろうと昆虫だろうと、とりあえず「世界の輝き」に「ときめき」ながら「すでに生きてしまっている」だけのこと。それを、「意識」という。「意識がある」とは、そういうことだ。
「生きることは無意味だ」といっても、その「無意味だ」ということにときめいている。その「無意味だ」ということが「世界の輝き」になっている。「世界の輝き」に対する「ときめき」として「意識」が発生する。「意識がある」ということは、「世界の輝きにときめいている」ということだ。
鬱病の人は、ときめかないことにときめいている。死ぬことにときめいて、「死にたい」と思う。鬱病は、意識がぼんやりしてゆくことではなく、意識は、いわゆる「ネガティブなこと」に目まぐるしく憑依し続けている。
はた迷惑な認知症の老人の「意識」だって、怒ったりわめいたりすることができるくらい活発にはたらいている。つまり、怒ったりわめいたりすることにときめいている。
「憎む」というかたちで「ときめいている=活発にはたらている」意識もある。
もちろん生きものは、脳という意識を発生させる装置を持っている。しかし、脳のまわりに「世界」が存在しなければ意識は発生しない。「世界」が存在するから、「意識」が発生する。「世界」に対する「反応」として意識が発生する。だから意識は、脳の中ではなく、「脳と世界の境界」あたりで生成しているように感じられる。
先験的に脳のはたらき(=意識)があって、「世界」を目指して(=志向して)いる、というのではない。「世界」に「反応」して「脳のはたらき=意識」が発生する。
「世界」に「反応」していない脳は、たとえ壊れていなくても、「意識」を発生させない。もしも「脳のはたらき=意識」が先験的なものなら、「眠る」とか「気を失う」ということは起きない。脳のはたらきが疲れたり、衝撃を受けたりすると、「世界」に対する「反応」がなくなる。そうやって「意識」が消えてゆく。
意識はつねに「世界」というか「何か」を意識している。
意識する前の意識、などというものはない。したがって、「意識の志向性」などというものはない。世界に対する「反応」として意識が発生するのであり、世界が意識を発生させるのであって、意識が世界を「志向」しているから世界に気づくのではない。

根源的には、人は「生きる」ことを目的にして生きているのではない。「すでに生きてしまっている」から生きているだけのこと。生きることに意味や価値などないというか、あるとかないとか、そういう問題そのものが無意味なのだ。意味や価値がなければさっさと死んでしまったほうが得かといえば、そうもいかない。そうやって損か得かという勘定をすること自体がどうかしている。というか、とても不自然だ。
われわれはべつに、損得で生きているのではない。
とりあえず、気がついたら「すでに生きてしまっている」だけのこと。気がついたら「すでに意識が発生してしまっている」し、「すでに世界に反応してしまっている」のだ。損得を勘定する前に「すでに生きてしまっている」のだ。
この「世界」の存在が人を生かしているのであって、先験的な「生きようとする衝動=本能」がはたらいているのではない。つまり、生きものはこの「世界」に「支配されて」生きている、ということだ。
「生かしていただいている」などとおためごかしな言い方をしてもしょうがない。生きてあることなんかありがたいことでもなんでもないが、「気がついたらすでに生きてしまっている」だけのこと。
われわれはこの生を修正することも支配することもできない。つまり、「どう生きればいいか?」という問題など存在しない。そんなふうにこの生を支配することなんかできない。この生は、今さらどうしようもない「取り返しのつかない事態」なのだ。
この生は、この世界に「支配されて」成り立っている。「支配される心」とともに人間的な知性や感性が育ってくるし、「支配される心」を共有しながら人と人は「連携」してゆく。
意識のはたらきは、この生に「支配されている」のであって、この生を「支配している」のではない。
ともあれ、生きものの本能だろうと、人間的な知性や感性の源泉だろうと、「避けがたく支配されてしまう無防備な心」にある。生き延びようとがんばって生き残ってきた生きものなどいない。すべての生きものは、この世界(=自然)の仕組みに淘汰されながら生き残ってきただけなのだ。この地球の歴史においては、無数の生きものが淘汰され滅んでいった。まあわれわれが「死ぬ」ということだって、この世界=自然の仕組みに淘汰され滅んでゆく、という現象にちがいない。

パンダとかシロクマなどの絶滅危惧種を保護しなければならないといっても、われわれひとりひとりだって、もうすぐ死んでゆく絶滅危惧種ではないか。それはもう、しょうがないことだ。絶滅したってかまわないのだ。なぜなら生きものは、生き延びようとして生きているのではなく、「もう死んでもいい」という勢いで生きているだけなのだから。命のはたらきとは、そういうものなのだから。
とはいえ人は、他者に「生きていてくれ」と願わずにいられない存在だから、どうしても絶滅危惧種を生きさせようとせずにいられないのかもしれない。
しかし人は、他の動物以上に「もう死んでもいい」という勢いを豊かにというか自覚的にそなえており、「別れる」ことを「かなしみ」とともに受け入れることができる存在でもある。
太古以来、この地球上で無数の生きものが滅んでいったし、これからもきっとそうだろう。「別れる=滅んでゆく」ことを受け入れられないというのは、とても不自然なことでもある。
目の前にいたはずの相手がいつの間にか消えている……そういう事態と戯れるのが「かくれんぼ」という遊びなのだ。人の世は、「別れ」の体験を調合しながらさまざまなニュアンスを生み出している。人類拡散は、「別れ」の体験の果てしない繰り返しとして起きてきたのであって、ある集団が短い間に遠いところまで移住していったというようなことではない。人類の世界ではつねに集団からはぐれ出ていってしまうものたちがいた、という生態とともに、その生息域が地球の隅々まで広がっていった。
「別れ」と和解してゆくことができるメンタリティは普遍的な人間性の自然であり、それを基礎にして豊かな人と人の関係のあやが生まれてくる。人と人のあいだには、「別れのかなしみ」が伏流水のように流れている。
絶滅危惧種は、絶滅してしまってもかまわない。それを「かなしみ」とともに受け入れてゆくのが人間性の自然なのではないだろうか。そうやって人は、「もう死んでもいい」という勢いで他者に献身(サービス)してゆく。
われわれひとりひとりだって、もうすぐ「絶滅」してゆく。
生きものは、べつに生き延びようとして生きているのではない。「もう死んでもいい」という勢いで命のはたらきが起きているのだ。そして人間以外の他の生きものはそういうことに無意識的だが、人間は「別れのかなしみ」というかたちで滅びることを自覚的に生き、「文化」というものをつくっている。
子供のかくれんぼにだって、人としての「別れのかなしみ」は息づいている。

古代ギリシャの哲学者は「人としての最大の不幸は、生まれてきたことにある」といったが、人がこの世に生まれてきたことは取り返しのつかない過ちであり、人はそのことに対して「別れのかなしみ」とともに和解してゆく。そのことを思えば、滅びてゆくことは、めでたいことでもある。
人は、心の底に「別れのかなしみ」が息づいている存在であるからこそ、自分を忘れて世界の輝きにときめいてゆく。夢中になって学問や芸術やスポーツや恋や友情等々の「遊び=祭り」にのめり込んでゆく。また、自分を捨てて他者に献身(サービス)してゆく。それは、「自分=この生」との「別れ」の体験なのだ。
この生は「取り返しのつかない過ち」だからこそ、この生を忘れて何かに夢中になってゆくという体験が起きてくる。まあ、そうやって人類は地球の隅々まで拡散していったのであり、べつに生き延びるためだったのではない。
生きることの意味や価値や目的を標榜しながら、人の心は停滞・衰弱してゆく。そうやって大人になってゆくのだとしたら、大人になることなんかみすぼらしいことだ。大人ほど、死と和解できない。死と和解できないから、死後の世界がある、などという妄想のヴィジョンを見る。それは、自我に執着し、自我の延命を画策しているだけのこと。そうやって世界の輝きにときめく心が停滞・衰弱してゆく。われを忘れて遊び呆けることができる子供のほうが、ずっと深く豊かに「別れのかなしみ」を知っている。
「別れのかなしみ」とは、自我の消失体験である。
「別れのかなしみ」とともに人は人にときめいてゆく。なのにいまどきは、強迫神経症的に「別れ」に耐えられない人がたくさんいる。そうやって自我に執着しながらストーカーになったりクレーマーになったり、人を監視してつけまわすことばかりしている。その「支配欲」は、いったいなんなのか。「自然を守れ」とか「絶滅危惧種を救え」とかといっても、現代社会における自我に執着した一種の「支配欲」でもある。
自然は、人間の「支配=監視」の対象であるのか?
自我に対する執着の強い人は、徹底的に無視するか徹底的に監視するかのどちらかになりやすい。「別れのかなしみ」を知らない。彼らは、人に執着しても、ときめいてなんかいない。それは、自我の安定や延命に対する執着であって、「ときめき」ではない。
「今ここ」の目の前に「あなた」がいることに対する「ときめき」は、明日もここにるかどうかはわからないという「かなしみ」でもある。その「別れのかなしみ」の深さのぶんだけときめいている。