都市の起源(その五十一)・ネアンデルタール人論202

その五十一・もう死んでもいい

僕はずっと、人の心が「ときめく」とはどういうことかと考えている。そのことを基本にして、人類の歴史についてあれこれ思いめぐらしている。
他愛ないものだ。こんなことでは、哲学にも思想にもなりはしない。
きちんと資料を調べもしないで、勝手な思考実験ばかり繰り返している。袋小路に迷い込んでもがいているだけのこと。
頼みとする「師」などいない。
ここで語ることが誰かの説と似ているとしても、その「誰か」から借用しているのではない。自分が知っている範囲のあれこれの通説に対して「それは違う」と考えていった結果なのだ。
僕にとって考えることは「それは違う」と異議申し立てをすることであって、誰かの説を借用したりアレンジしたりすることではない。
とはいえ、僕が借用したりアレンジしたりすることをしていないかというと、そういうことではない。じつは「師がいない」とはいえない。ただ、僕にとっての「師」は、先行文献として存在するのではない。どれほど世間的に偉大であろうと、そんなインテリのあとを追いかけている暇などない。
僕にとっての「師」は、無言の「生きられないこの世のもっとも弱いもの」として存在している。そういう存在の声にならない声を問うというか探索し続けているつもりなのだ。
内田樹は、レヴィナス等の先行文献を「師=お手本」としながら、徹底的に「自分」を物差しにして語っている。
僕は、先行文献など当てにしないし、少なくとも人類学や歴史学の分野で僕が出会った先行文献など、「それは違う」といいたいものばかりだ。そして、「自分」を物差しにすることはできないという思いもある。もちろん「自分」を物差しにしてしまうという罠にはまっていることも少なくないわけで、そういう後ろめたさと反省はなくもないが、「自分」という「物語」で「真実」に届くとは思っていない。
この世に「自分」ほどあいまいな存在もない。たしかなことは、「あなた」が存在するというそのことだけだ。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」である「あなた」が、この世のどこかに存在する。
まあ「生きられないこの世のもっとも弱いもの」であることが、人の根源的な存在のかたちなのだ。原初の人類は、二本の足で立ち上がることによってそういう存在になった。
人類は生き延びようとする欲望を募らせながら知能や文化を進化発展させてきたのではない。「もう死んでもいい」という勢いて「世界の輝き」にときめいてゆきながら生き残り、その結果として知能や文化を進化発展させてきたのだ。
僕は、「あなた」について語りたいのだ。

「ときめく」とは「もう死んでもいい」と思うこと。そうやって未来も過去も忘れて「今ここ」に立ちつくすこと。
未来など忘れてときめき、未来などないのだから別れることができる。人は、「今ここ」の「出会いのときめき」を豊かに体験する存在であるがゆえに、未来のことなど勘定に入れずに「別れる」ということができる。「あなた」と一緒にいる未来の幸せに執着していたら、別れることはできない。
今どきは未来に執着した人間ばかりの世の中で、「別れる」ことができなくなっていると同時に、かんたんに人の心が相手から離れていってしまう世の中でもある。自分の未来の幸せ(=自我の安定・充足)ばかりに執着している人間は、セックスアピールがない。
セックスアピールとは、「もう死んでもいい」という勢いのこと。そういう勢いを持っているから「別れ」を受けいることができる。「別れ」とは、ひとつの「死」の体験なのだ。
人は、「あなた」との「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を生きている。女は、そういうことをよく知っている。女はすごいなあ、と思う。僕は、人の心の「ときめき」も「かなしみ」も、女から学んで生きてきた。まあ、母親にはじまって、幼い恋の相手であれ、若気のいたりで同棲した女であれ、女房であれ、浮気の相手であれ、女のほうがずっと確かな人間のかたちをしている、と思わせられた。
女がか弱い存在などとは思わないが、それでも女は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のタッチを持っている。つまり、男よりもずっと、この生からはぐれながら生きている。そして、「もう死んでもいい」という勢いで世界や他者の輝きにときめいてゆく。そういう勢い=タッチを持っているから女は強い、ともいえる。
女は、「生きられなさ」の渦中に飛び込んでゆくことができる。そうやって妊娠・出産という命の危機を受け入れてゆく。そしてはた目には、女がそれをよろこんでしているかのように見える。だから「種族維持の本能」などといわれたりしているのだが、人間以外の生きものがはじめてそのことを体験するにあたって、それが子を産み育てることだと自覚しているはずもない。ただもう、体の変調が起こり、ふだんのようには生きられなくなっていることを自覚しているだけだろう。その普段とは違う生きられなさを、女は「お祭り」として生きることができる。あえぎあえぎしながらオルガスムスに堕ちてゆく女のセックスだって、まあそのような「お祭り」なのだろう。
われわれの生は、「生きられなさ」の中でもっとも活性化する。
男であれ女であれ、「生きられなさ」の中でこそ、世界の輝きに深く豊かにときめいてゆく。心は、「自分=この生」を忘れた「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆく。そこに、人間性の自然がある。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」こそ、もっとも深く豊かにときめいている。
女は、「もう死んでもいい」という勢いでセックスし、子を産み育てる。
命や心のはたらきは、「もう死んでもいい」という勢いで活性化してゆく。だから、女のほうが長生きする。

人は、自分が生き延びるために人を殺すのだろう。「もう死んでもいい」と思い定めたのなら、人を殺す理由は成り立たない。しかし人は、「もう死んでもいい」と思い定めて戦争をするのだから、そのへんのからくりは、なんともややこしい。まあ、家族や恋人や国土や故郷といったようなものに献身する思いで戦地に赴いてゆく。支配者は、人の「もう死んでもいい」という思いに付け込んで戦争を画策してゆく。「神風特攻隊」というアイデアはもう、支配者の本能のようなものであり、戦争をするということの必然的な帰結なのだ。国民を戦争に招集するということ自体が、すでに人の「もう死んでもいい」という思いに付け込んでいる。
人は、人間性の自然として「もう死んでもいい」という思いを持っているから、「避けがたく支配されてしまう無防備な存在」として生きてしまう。そうやって「自分=この生」を忘れて世界の輝きにときめいてゆく。したがって、人と人のときめき合う関係は、たがいに「支配されるもの」になってゆくことにある。どちらも支配していないのに、どちらも支配されている。そして、どちらも「自分=この生」からはぐれてしまっているのだから、そこに「一体感」はない。
「自分=この生」に執着したものどうしの「支配=被支配」の関係において「一体感」が生成している。彼らは支配を欲しがっているし、支配したがっている。その関係は、権力者の世界や軍隊でもっとも濃密に機能しており、戦争の時代においては、その関係が社会全体に蔓延してゆく。誰もが支配したがり、支配されたがっている。そうやって「一体感」を形成してゆく。
そしてその「一体感」は、「敵」という外部世界に対する憎悪と警戒と緊張の上に成り立っている。そうやって国としても個人の心においても自閉し、「自分」に執着している。
人の心は、「ときめき」を失っているぶんだけ「自分=この生」に執着してゆく。「自分=この生」に執着しているぶんだけ「世界の輝き」に対する「ときめき」を失っている。
「ときめき」というのは、原始的な単純で愚かで他愛ない心の動きだ。現代的な「自分=この生」に執着した複雑で賢明な脳のはたらきではない。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」も、もっとも本格的な知性や感性の持ち主も、そういう原始的な「ときめき」を持っている。そして「自分=この生」からはぐれていることの「かなしみ」も知っている。彼らはこの世の孤立した存在であり、まあ誰だって、そういうところから世界や他者の輝きにときめいている。
人間なんかみな「生きられないこの世のもっとも弱いもの」だ。生きる能力としての賢明さや複雑さを自慢してもしょうがない。そういう人間などちっとも魅力的じゃないし、そういう人間の知性や感性などたかが知れている。