都市の起源(その五十)・ネアンデルタール人論201

その五十・人の心は、この生からはぐれて途方に暮れている

ここで考えているネアンデルタール人の問題とは、つまるところ都市論であるのかもしれない、と思えてきた。
ネアンデルタール人の時代に都市があったはずもないが、彼らはすでに都市的なメンタリティをそなえていた。人類が地球の隅々まで拡散していったことは都市的なメンタリティを濃くしてゆく体験だったのであり、その歴史の果てにネアンデルタール人が氷河期の北ヨーロッパに登場してきた。
都市とは見ず知らずの人々がたくさん集まっている場であり、そういう人たちの「出会い」が無数に起きている場であるということ。そしてそういう場が成り立つということは、その「出会い」のそれぞれに「ときめき」がともなっているということだろう。そこで殺し合いばかりが起きているのなら、みんなそこから逃げ出してしまうし、殺し合うために集まってくるわけでもなかろう。
基本的に都市とは、「出会いのときめき」が生成している場なのだ。どこからともなく人が集まってきて「出会いのときめき」が生まれる、そういう体験の果てしない繰り返しとして、人類は地球の隅々まで拡散していった。
その「出会い」の相手は見ず知らずの人間なのだから、無防備にならなければ「ときめく」ことなんかできない。
見ず知らずの相手でも、見ず知らずの相手だからこそ、ときめき合ってゆくことができる。そういう関係の作法が進化発展しながら、都市が生まれてきた。
一緒に暮らしてくっつき合っていれば、だんだん鬱陶しくなってくる。それが人類拡散の契機だったのであって、凡庸な人類学者たちがよくいう「住みよい土地を求めて」というようなことではない。そういう「未来に対する計画性」が人類史に進化発展をもたらしたんだってさ。冗談じゃない。人類拡散は、より住みにくい土地に住み着いてゆく現象だったのであり、より住みにくくても「出会いのときめき」あれば住み着いてゆくことができたし、その結果として住みにくさに耐えることができる文化が進化発展していったのだ。
氷河期の北ヨーロッパに住み着いていたネアンデルタール人は、その当時の世界中のどこよりも「住みにくさに耐える文化」を持っていたのであり、それはたんなる技術的な問題だけでなく、無防備に他愛なくときめき合ってゆくことができる人と人の関係の文化も豊かに生成していたということを意味する。そこは、たかが原始人のレベルの文化で、ただ技術的な知能が発達していたからというだけで住み着いてゆくことができるような生やさしい環境ではなかったのだ。
彼らは、あえて生きにくさに飛び込んでゆくようにして生きていた。誰もが生きにくい環境にほんろうされながら、「もう死んでもいい」という勢いでときめき合い相手を生かし合っていた。ネアンデルタール人は、人類史上もっとも生きにくさを生きた人々だった。

人は、根源において「生きにくさを生きる」存在なのだ。原初の人類は、そうやって危険で不安定極まる二本の足で立つという姿勢を常態にしていった。
「生きにくさを生きる」ことによって心や命のはたらきが活性化する。
現在のこの国のように、平和で豊かな社会を生きていれば心や命のはたらきが活性化するとはかぎらない。幸せそうに生きている人がたくさんいる世の中だが、かえって現在こそ、心や命のはたらきが停滞・衰弱してきているともいえる。不平不満や不安はいたるところに蔓延し、「今ここ」の世界や他者に対する「反応=ときめき」を失って、「未来」ばかり追いかけている。
なにが「未来に対する計画性」か。この生は「今ここ」がすべてだ。「今ここ」のすべては赦されている。「今ここ」にときめいているなら、未来も過去もどうでもいい。「ときめき」の豊かさのぶんだけどうでもいい。
人類の知性や感性や人間的な魅力としてのセックスアピールは、そうやって「生きにくさを生きる」ところから進化発展してきた。未来も過去もどうでもいいと思い定めて「今ここ」の生きにくさに飛び込んでゆきながら、地球の隅々まで拡散していったのだ。
人に対しても世界に対しても、そういう無防備な「出会いのときめき」を体験してゆくところにこそ人間性の自然がある。
まわりの人や世界を警戒し緊張ばかりしていたら、「出会いのときめき」はなく、ひたすらみずからの心の充足安定という「幸せ」を追求するようになってゆく。まあそういう自意識の肥大化した人間にかぎって、他者に対するなれなれしさを過剰に持っている。自閉的だからこそ、他者との一体感に潜り込もうとする。そうして、第三者を排除してゆく。自分が支配するにせよ支配されるにせよ、一体感を持てない相手は、徹底的に排除してゆく。それは国家が戦争をする理由にもなっているのだが、国家や宗教という共同体は、そういう自閉症的な傾向を培養する場でもあるらしい。
自我=自意識の延命と安定充足を求めるなら、さっさと死んで天国に旅立ってゆくのがいちばんだ。
文明や宗教の発生は、おそらく、文化というか知能が進化発展して万物の霊長の座に立った人類の自意識=自我が肥大化してきたことによるのだろう。
平和で豊かな社会が価値だという現代社会の通念も、ようするに誰もが自意識=自我の充足安定を欲しがっているということの証しである。現代は誰もがそういう制度的な観念を持たされる世の中になっているのだろうが、それでも基礎的な人と人の関係においては、自分も過去も未来も忘れて無防備にときめいてゆくという心の動きが起きている。

人間なら誰の中にも、この生からはぐれて途方に暮れている心が疼いている。文明社会においては、構造的に、自意識=自我に執着しながら人を憎んだり裁いたり支配しようとしたりする心が避けがたく起きてくるような仕組みになっているのだろうが、それでも人と人は無防備に他愛なくときめき合うという体験をしているのであり、まあそういう体験が貧弱なものほど自意識=自我に執着・耽溺するのだ。
そりゃあ文明人なら誰だって自意識=自我は避けがたく抱えてしまっているのだが、誰もがそんな意識に執着・耽溺しているわけではない。自分に執着・耽溺するなんて、鬱陶しいばかりではないか。そういう自意識にけりをつけて解き放たれたいという願いとともに、人は人に他愛なくときめいてゆく。
だからひとは、自意識=自我の充足安定に倦んで、生きにくさを生きようとする。人間性の自然においては、自意識=自我の充足安定など求めてはいない。それは、たんなる退屈であり、精神の停滞・衰弱にすぎない。日本列島では、そういう状態のことを「けがれ」と呼んできた。
人は、自我の充足安定を求めて旅に出るのではない。その停滞からの解放を願って、都市に人が集まってくる。そうやって人類は、地球の隅々まで拡散していった。
人と人は、この生からはぐれて途方に暮れている心でときめき合う。
まあ、思考の論理の展開とか、美しいものに感動するとかということは、この生からはぐれてゆく心の動きというか脳のはたらきなのだ。
「はぐれている」というそのことを生きることができなくなって、充足安定という停滞に潜り込んでゆく。「はぐれているもの」は傷つき疲れているが、ときめく心をまだ失っていない。