世界は輝いているか・ネアンデルタール人論130

人は、生きられなさを生きようとする本能(のようなもの)を持っている。それによって人類の文化が進化発展してきた。生きられなさの中で生き延びようとするのではない。生きられなさそれ自体に生きてあることのカタルシス(浄化作用)がある。生き延びようとするのではなく、生きてあるというこのいたたまれない事態から超出しようとするのだ。そうやって「もう死んでもいい」という勢いで自分を忘れて何ごとかに熱中してゆく。学問や芸術に熱中することであれ、人が人にときめいてゆくことであれ、ときめきながら献身してゆくことであれ、「もう死んでもいい」という勢いで生きられなさを生きようとしてゆくことの上に成り立っている。人類にとって「生き延びる」ことは「結果」であって「目的」ではない。「もう死んでもいい」という勢いでときめき熱中していった「結果」なのだ。
生きていれば、生きられなくなってしまう事態は、いろんなかたちでやってくる。人はそういう存在の仕方をしているし、「もう生きられない」と思ってしまう心の動きを持っている。
われわれは、その「もう生きられない」という思いを生きることができるか。そこから生き延びようとする欲望を膨らませてゆくのではない。「もう生きられない」という事態に陥っているものが生き延びようとしたら、ますます生きられなくなってしまう。ますます「もう生きられない」という思いが募り、あげくの果てに心を病んでゆく。


われわれは、生まれる前のことも死んだ後のことも、何も知らない。この生に閉じ込められている。その閉塞感から逃れようとして「神」や「仏」や「天国」や「極楽浄土」や「生まれ変わり」などという概念にすがってゆくのだろうか。
文明人の自意識。自意識が強いからむやみに閉塞感が募るし、その自意識を守ろうとしてそれらの概念にすがってゆく。「自分」という意識は無限の過去から無限の未来に向かって続いている、という物語。文明人の自意識は、それを信じようとしてきた。
信じようとしているものばかりの集団の中にいれば、やがて本気で信じてゆくことができる。
自意識をたぎらせて信じてゆく。しかしそれは、ただ信じ込んでいるだけだし、信じ込んでいるものばかりの集団の中にいないと信じ込むことはできないわけで、その概念を共有できない他者との関係はどうしてもぎくしゃくしてしまうし、そういう他者と出会うととても不安になるし、怒りや憎しみがこみ上げてきたりする。そうして、何がなんでもそんな他者を説得・支配しようとしたり、抹殺しにかかったりする。まあそうやって文明発祥後の人類は異民族との戦争をはじめた。宗教者は戦争をしないというのは大嘘で、宗教者の戦争ほど恐ろしく残酷なものもないという歴史の事実もあり、彼らは怒りや憎しみをたぎらせてしまう傾向を避けがたく持たされてしまっている。何がなんでも「天国」や「極楽浄土」まで生き延びたいなんて、ひとつの狂気であり、それを否定されることの不安や怒りや憎しみも、とても根深いのだろう。宗教は、そういう自意識によって確立されていった。
その概念は科学的な真実として証明できるはずもなく、ひたすら思い込みを強くしてゆくという、集団内の合意の上に成り立っている。
文明社会は、生き延びようとする自意識を守り安定させようとして、そうした概念というか宗教を生み出した。
しかしこれは、宗教集団だけの問題ではない。
自分の正当性を守りつつ何がなんでも生き延びようとする自意識、宗教とは無縁の現代人においても、それによって社会的に成功する人もいれば、人と人の関係に失敗して心を病んでゆく人もいる。人と人の関係が安定しているかぎり自意識の充足は約束されるが、その自意識に人間性の自然があるとはいえない。充足が崩れれば、たちまち狂気に変わる。充足しつつすでに病んでいる、ともいえる。
まあ、くだけていえば、自意識過剰の人間はあんまり魅力的じゃないし、それによって人に嫌われることも多い。


生きていれば「もう生きられない」と思うほかない事態はいくらでもやってくるし、生きられなさを生きようとするのが人間性の自然なのに、社会的にネガティブな立場に置かれたものがそれでも生き延びることができる充足を追い求めてゆけば、心は、人や社会に対する怒りや憎しみをたぎらせたまま、どんどん袋小路に迷い込んでしまう。
自我=自意識の充足を守ろうとすればするほど、すなわち生き延びようとすればするほどしんどくなってゆく。
そうなればもう、「もう生きられない」と思っている「自分」を忘れてしまうしかない。そうやって自我=自意識を処理しながらしぐれてゆくしかない。生きられなさを生きながら、その「いたたまれなさ」を「かなしみ」にまで昇華してゆくしかない。心は、そこにおいて解き放たれ、華やぎときめいてゆく。
「かなしみ」にまで昇華してゆくことができる知性や感性は、そりゃあ誰にでも持てるというわけにはいかないが、少なくとも原始人やわれわれが赤ん坊だったころは誰でも持っていたのであり、人は、さんざん泣いて「かなしみ」にたどり着く。
「泣く」ことのカタルシス(浄化作用)がある。そこから「かなしみ」が生まれてくる。しかし、泣くことがさらなるいたたまれなさの怒りや憎しみを生み出してしまう場合もある。自意識がしぐれてゆきながら泣いているのか、それとも自意識を増幅させながら泣いているのか、という違いだろうか。前者が日本列島の伝統文化だとすれば、後者は朝鮮半島の「恨(ハン)」の文化だともいえる。生きられなさを生きるのが人の自然なのだから、そうなればもう怒りや憎しみが消えることはない。「恨(ハン)」の文化を生きるのはきっとしんどいことだろうし、この国はもう、永遠に恨まれ続けねばならない。
しかしそれは、よそ事だいってすませることもできない。自意識を処理できないと、怒りや憎しみがどんどんふくらんでくる。それが今どきの迷惑老人の心模様であり、鬱病だって、平和で豊かなこの社会の生き延びることができる幸せに充足していた肥大化した自意識が反転して起きてくるのだろう。
しぐれてゆくことの「かなしみ」こそ「世界の輝き」にときめいてゆくことの契機になるのに、平和で豊かなこの国ではなかなかそうさせてくれないし、しかしそれでも人はどこかで生きられなさを生きながら世界の輝きにときめいている。
自分をプレゼンテーションすることに熱心であればそれが生き延びる能力になるのだろうが、そんな人よりも、ひとまずそのことを捨てて豊かに反応してゆくことができる人の方が魅力的だ。「反応する」とは生きられなさを生きる行為であり、魅力的な人は、自分を捨てた「もう死んでもいい」という勢いで反応してゆくタッチを持っている。まあ、人のセックスアピール(人間的魅力)とはそのようなものに違いない。セックスとは生きられなさを生きる行為であり、そのようにして原初の人類は一年中発情している猿になり、ネアンデルタール人はフリーセックスの社会をつくっていた。彼らはみな、生きられなさを生きていた。そうして他者の輝きに豊かに反応しときめいていた。


現在は生きられなさを生きることが困難な時代ではあるが、人間的な知性や感性も、人間的な魅力のありかも、人としての「解放=救済」も、つまり人としての心や命のはたらきの豊かさはそのタッチを持たないと成り立たない。
今どきは、大人や老人よりも、子供や若者のほうが「かなしみ」をよく知っている。戦後社会の平和と豊かさは、人々から、この生のいたたまれなさを「かなしみ」に昇華してゆく心模様を奪った。そうやって現在は、人と人の関係が不調の世の中になってしまっている。「おたがいさま」で許し合うのではなく、自分の正当性を主張し合っている世の中を生きるのは、ほんとにしんどい。衣食住が満たされても、しんどい。「ここにはいられない」と思ってしまう。
一流企業に入った若者が次々にやめてゆく。それは、自意識過剰な大人たちの正義が若者を追いつめているからだろう。自意識過剰になってみずからの正当性を守ってゆかないと生きていられない世の中であるらしい。
いいかげんには生きられない。いいかげんに生きようとしたら、落ちこぼれてゆくしない。そして、落ちこぼれることを承知でいいかげんに生きようとする若者も少なくない。人は生きられなさを生きようとする存在だから、こんな世知辛い世の中でも、どうしてもそういう若者があらわれてきてしまう。
まあ世の中のエリートであれ名もなく貧しい庶民であれ、いいかげんに生きているもののほうが「反応する」タッチは豊かなのだ。つまり、この世界の輝きにときめく心の動きが豊かだということ。
健康志向であれこれマニュアルをつくって生きていることと、そんなことを忘れてなりゆきまかせのいいかげんな衣食住を生きていることと、どちらの命のはたらきが豊かかということはいえない。
この社会を生きるのがしんどいのは、生き延びようとする欲望の満足が得られないからではなく、「すでに生きてしまっている」こととどう和解してゆくかということがしんどいのだ。どんなに生き延びようとする欲望をたぎらせても、その問題は解決できない。人が生きようとする理由なんか存在しないのだ。自殺しようとしている人に「生きようとしなさい」と説得しようとしてもなかなかうまくいかない。生きようとする、というその未来志向が、死のうとする契機にもなる。
このいたたまれない生のさなかで、生きようとするなんて嫌なこった、明日のことなんかどうでもいい……彼らのその心模様は、人としてけっして不自然ではない。


人は、生きようとしなくても、すでに生きてしまっている。そのこととどう和解してゆくか、それが問題だ。生きることなんか、体が勝手にしてくれていること。心=意識は、生きてあることのあとを追いかけてはたらいている。
生きようとすることなんかできない。いいかげんに生きて、何が悪い?いわれなくても自分がこの社会の最低の人間だということはわかっている。プライドなんか何もない、だから、誰に対しても「ごめんなさい」とひざまずいてゆく……この社会のホームレスがそのように思っているのかどうかは知らないが、人が生きはじめることができる場所は、そのようなところにあるのかもしれない。そうやって神は、乞食姿に身をやつしてやってくる。
生きようとするのではない。人は、世界の輝きにときめいていれば生きてしまう。この社会の一員になんかなれない。この社会からはぐれながら「遠い憧れ」とともにこの社会の人々の輝きにときめいていられたらそれでいい。といってもそれはまあ昔も今もとても難しいことで、その願いとともに「乞食姿の神」が発想されていったのかもしれない。
たとえば宗教者のようにこの生を永遠のものしようとするのではなく、この生から「超出」してゆこうとすることに人間性の自然がある。「ときめき」とは、この生から「超出」してゆく心の動きなのだ。
この生もこの社会の一員であることも、ひとつの「けがれ」なのだ。そこから解き放たれた存在でありたいという願いがなければ、どうして人は「神」を発想するものか。
少なくとも日本列島の「神=かみ」は、そのように発想されていった。
「かみ」とは「気づく」こと。日本列島の神は隠れている。隠れている対象に気づいてゆくことを「かみ」という。食い物を「噛む=かむ=かみ」。噛めば、食い物に隠れている「味」に気づく。まあ、そのようなことだ。神は、この生からもこの社会からもはぐれて隠れている。そうやって「乞食姿の神」が発想されていった。
この生やこの社会からはぐれてゆかないと生きられない。はぐれてゆくことによってはじめて「気づく=ときめく」ことができる、ときめいていれば、生きられる。生きようとしなくても、すでに生きてしまっている。
この生やこの社会からはぐれてゆくことのカタルシス(浄化作用)、その解放感を「みそぎ」という。であれば、この生やこの社会にぴったりとはめ込まれてあることの閉塞感を「けがれ」という。平和で豊かな社会は、人々をそういう「けがれ」に浸してしまう。人々は、その幸せに充足しつつ、心は停滞・閉塞してときめかなくなっている。自分の幸せは見つけても、「世界の輝き」は見失っている。