彼らは、あえぎあえぎして生きていた・ネアンデルタール人論131

集団的置換説の代表的な論者であるC・ストリンガーの『ネアンデルタール人とは誰か(朝日選書)』という本では、「ネアンデルタール人は知力よりも体力や体質でその寒冷気候に適応していた」と繰り返し語っているのだが、人の体力や体質だけで氷河期の北ヨーロッパという苛酷な環境を生きられはずもないのであり、それなりに工夫された生態、すなわちそれなりの知力=文化を持っていたからこそ生き残ってくることができたのだ。
彼らが骨太で頑丈な体をしていたといっても、それ自体は寒さに耐えるためのものというより、たとえば肉体労働者の指が太く頑丈な体をしているのと同じで、彼らの生態の問題だろう。寒さに耐えるためのいちばんの方法は皮下脂肪を蓄えることだろうが、肉体労働者やスポーツ選手の皮下脂肪が厚いとはいえないように、ネアンデルタール人が肉体を酷使するような狩りをするなど骨太の頑丈な体になってしまうくらい動き回っていたということはいえても、皮下脂肪が厚かったことの証明にはならない。そこは、じっとしていたら凍え死んでしまうような環境だった。ずんぐりした体型だったといっても、べつにオットセイのような皮下脂肪を持っていたわけでもあるまい。その骨太の頑丈な体は、むしろ皮下脂肪を厚くできないまま生きていたということを意味するのかもしれない。
人類は、体型や体質で寒さを克服してきたのではない、生態=文化によって克服してきたのだ。
ネアンデルタール人は、その苛酷な環境をあえぎあえぎして生きていた。だから肌が極端に白くなるとか、早熟な体質になるとか、さまざまに体型や体質が変化していった。その地に移住した当初の50万年前はアフリカ人とそれほど変わりない体型や体質だったことは、遺伝子学的にも考古学的にも証明されている。そのとき彼らは生きられなさを生きていたのであり、生きられなさを生きることこそ人間性の自然というか本能のようなもので、それによって人類の知能=文化が進化発展してきた。
視力とか聴覚とか嗅覚とか、人類の五感は、二本の足で立ち上がって以来どんどん退化してきた。今でも退化し続けている、といわれている。それは、どんどん「生きられない」体になってきている、ということだ。しかしその「生きられない」ということこそが、人間的な知性や感性や命のはたらきが活性化する契機になっている。
人の知性や感性は、「わからない」という「生きられなさ」に身を浸しながら、そこから「問う」という態度になってゆくことによって生まれ育ってくる。知性や感性が豊かのものとは、「生きられなさを生きる」ものたちだ。
したがって、集団的置換説の論者たちが合唱しているような、北ヨーロッパネアンデルタール人が同時代のアフリカ人よりも知性や感性において劣っていたということなど、論理的にありえない。彼らは生きられなさの極限を生きた人々であり、われわれが彼らの知性や感性から学ぶことはけっして少なくないはずだし、われわれ現代人が彼らの子孫であることは最近のゲノム遺伝子の研究データなどでもしだいに明らかになりつつある。
ネアンデルタール人は滅びたのではない。そのまま進化してクロマニヨン人になっただけのこと、そのころヨーロッパにやってきたアフリカ人などひとりもいない。人類は、ネアンデルタール人の血や文化を基礎にしてその後の歴史を歩んできたのだ。今はまだ集団的置換説が優勢であるのかもしれないが、いずれは、彼らがいかに愚劣で倒錯的な思考をしていたかががわかるようになってくるに違いない。