やらせてあげる・ネアンデルタール人論132

ネアンデルタール人だろうとクロマニヨン人だろうと、氷河期の北ヨーロッパを生きる彼らの生は苛酷だった。彼らは、あえぎあえぎして生きていた。それでも50万年のあいだを生き残ってくることができたのは、その生きられなさを克服する生態=文化を持っていたからであり、生きられなさのためにどんどん人が死んでゆく社会だったが、それ以上に子供を産み続けていった。つまり彼らは、それほどに他愛なく豊かにときめき合いながら男女は毎晩のように抱き合ってセックスしていた、ということだ。その生態によって50万年を生き残ってきた、といってもいい。彼らは生き延びる能力を持っていたのではない。どんどん人が死んでいったのだ。しかし、そのどんどん人が死んでゆく状況こそが、他愛なく豊かにときめき合う関係をもたらしていた。人のセックスは、たんなる身体的な反射行為というだけではすまない。「ときめく」という心の動きが介在している。それによって一年中発情している猿になっていったわけだが、それは「生きられなさ」が契機になっているのであり、人類はもう、二本の足で立ち上がったときからすでに「生きられなさ」と「ときめき」を生きる歴史を歩みはじめていたのだ。「生きられなさ」の中で、生き延びることを断念し、この生からはぐれながら非日常の世界に超出してゆく。その「ときめき」が原初の人類の二本の足で立ち上がるという体験だったのであり、普遍的な人のセックスの衝動にもなっている。
「ときめき」とは、非日常の世界に超出してゆく心の動きのこと。猿から分かたれた人類は、そういう心の動きを持った。人だろうと他の生きものだろうと、女=メスは、積極的な性衝動を持っているのではなく、「やらせてあげる」という気になれるだけだ。それが、積極的な性衝動を持たない「日常=この生」からの超出になる。生きもののセックスは、オスの「求愛行動」と、根負けした雌の「やらせてあげる」という気分の上に成り立っている。人の女は、積極的な性衝動を持たないからこそ、そして「日常=この生」から超出してゆこうとする衝動が豊かだからこそ、ほかの生きもの以上に他愛なく「やらせてあげる」気になれる。
男はこの生のいたたまれなさから超出してゆこうとしてやりたくてたまらなくなってゆき、女は「する気にもなれない」くらいそのいたたまれなさにうんざりしているからこそ、そこからの超出として「やらせてあげる」という気になってゆく。男はこの生から追い立てられており、女はこの生に幻滅している。この生のいたたまれなさから追い立てられるようにしてペニスが勃起し、女は、この生を処罰するようにしてそのペニスを自分の中に引き入れる。


この生のいたたまれなさが人のセックスを成り立たせている。いたたまれなさからの超出として人はセックスをする。だから、「貧乏人の子だくさん」ということが起きる。極寒の環境にほんろうされて生きていたネアンデルタール人がフリーセックスの社会をつくりながらたくさんの子を産んでいったことだって同様で、セックスは非日常の世界に超出してゆく「お祭り」なのだ。
平和で豊かな社会に置かれて恵まれた暮らしをしている現代人のように日常生活に耽溺していると、セックスのポテンシャルはどんどん衰弱してゆく。
人だろうと他の生きものだろうと、生き延びるためにセックスするのではない。「もう死んでもいい」という勢いで非日常の世界に超出してゆく「お祭り」としてセックスをしている。
クジャクのオスは、メスとセックスするためになぜあんなにも派手なデモンストレーションをするのか。そんなことをしたらかんたんに天敵に見つかってしまうのに、「もう死んでもいい」という勢いでその豪華絢爛な模様の羽を広げ、声高に鳴き続ける。そうやってメスが根負けして「やらせてあげもいい」という気になるところに追い込んでゆく。それはもう、オスにとってもメスにとっても、「もう死んでもいい」という勢いで非日常の世界に超出してゆくお祭りなのだ。
何が「種族維持」の本能か。何が「優秀な子孫を残そうとする本能」か。メスは、どんなオスが相手でも「やらせてあげる」ことができるのだ。だからこそ、人であれ他の生きものであれ、すべてのオスとすべてのメスの組み合わせが成り立って一夫一婦制の関係の群れがつくられたりする。
女の本質・自然に「やらせてあげる」という気分がはたらいていなければ娼婦という職業は成り立たないし、金があるだけのブサイクな男の女房や愛人になることもできない。
女は、「やりたい」という肉欲ではなく、「やらせてあげる」という気持ちでセックスしている。「献身」の衝動、と言い換えてもよい。女の性衝動とはそのようなものではないだろうか。
男の「やりたくてたまらない」という衝動に答えてあげられるのは、女の「やらせてあげる」という気持ちであり、それがなければ男のその衝動は行き場を失ってしまう。
たとえば、「触って気持ちいい」という行為は、「触られて気持ちいい」という感覚に受け止められて、はじめて成り立つ。どちらが男でどちらが女かということではない。ときと場合でおたがいどちらの立場にもなるわけだが、ともあれそういう「非対称」の関係性の上に人のセックスという行為が成り立っている。そうしてそれは、人間的な「連携」の本質でもある。助けるとか助けられるというのは、非対称の関係性であり、人はそういうことをする。
「話す」行為は、「聞く」行為との関係性の上に成り立っている。キャッチボールは、ボールを投げる人と受ける人がいて成り立つ。セックスだけでなく、人と人の関係の自然・本質そのものが、そうした「非対称性」の上に成り立っている。


「私」とはこの世界からはぐれている存在であり、そのとき「他者」は「世界の輝き」として私の前に立ちあらわれている。他者の存在の確かさと私の存在のあいまいさ、人と人は同質で一体化しているのではない。非対称で超えがたい隔たりを挟みながら、たがいに「遠い憧れ」を向け合っている。その「非対称性」がまあ、セックスや会話、すなわち人と人の「関係性」の根源のかたちなのだ。
誰もが赤ん坊の可愛さに対しては、「もう二度とそのときには戻れない」という「かなしみ」とともに「遠い憧れ」を抱いて眺めている。赤ん坊だって、みずからの存在の無力とむなしさを「かなしみ」ながら、自分の外にいる人間たちやこの世界の存在の確かさに対する「遠い憧れ」とともにときめいている。人と人の関係は、そういう「非対称性」によってより深く豊かになってゆく。それはもう男と女のセックスだって同じで、根源的には「やりたくてたまらない」ものと「やらせてあげる」ものとの「非対称性」の関係であり、「やりたくてたまらない」ものどうしが一体化してゆくことではない。一体化してみずからの存在を確かめてゆくのではなく、たがいに相手の存在の確かさに驚きときめきながらみずからの存在が消えてゆく心地になっているのであり、そうやってこの生のいたたまれなさ(=けがれ)が浄化されるカタルシス(=みそぎ)が汲み上げられている。
そしてこれは、生きものとしての根源の問題でもあるのかもしれない。
原初の生きものは、個体どうしが「非対称性」の関係を持ったことによって雌雄が生まれたのかもしれない。
無数の単体生殖の個体の中から偶然「非対称性」の関係を持った二つの個体が生まれ、そこからその二つの個体が偶然出会った。それはもう、奇跡的な偶然だったのかもしれない。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことだって、あの時代のあの瞬間を逃せば、猿がそういう生態になるチャンスは二度となかった。この地球の歴史は「奇跡的な偶然」の積み重ねの上に成り立っている。そんな歴史のさなかで「私」と「あなた」が出会ったことだって、まさに「奇跡的な偶然」なのだ。


とにかく人類は、「やりたい男」と「やらせてあげる女」という関係性を育てながら一年中セックスしている生きものになっていった。女も一緒になってやりたがったのではない。女もやりたがっていたら、男のやりたいという衝動は盛り上がらない。女にはそんな衝動がないからこそ男の衝動が盛り上がるのだ。
人間的な「連携」は、関係の「非対称性」の上に成り立っている。関係の「非対称性」こそが、人と人の関係に深みと豊かさをもたらしている。
関係の「非対称性」の上に成り立っているから、「助ける」とか「献身」という人間的な行為が生まれてくる。
人と人は「同じ」なのではない。自分という存在はあいまいで、自分以外はみんな確かな存在として自分の前に立ちあらわれている。みんな自分より偉いのだ。「自分」なんか、この世の最低の存在なのだ。
しかし、自分の存在があいまいだから生きるのに不都合かというとそうでもなく、身体が「非存在の空間の輪郭」として扱われているときにこそ、もっとも命のはたらきが活性化している。そうやって人の体は動いているのであり、健康とは身体の「物性=¬存在」を忘れていられる状態のことで、病気や怪我をしているときに強く意識する。
自分の存在をあいまいに感じることこそ、人の心の自然であり健康なのだ。われわれは、身体が「非存在の空間の輪郭」である状態を生きているのであり、そうやってすでに「非日常」の世界に超出してしまっている。
「自分」があいまいな存在であると感じてしまうことは避けがたいことであり、それに対して他者の存在のなんと確かなことか。人と人は、その絶望的な「非対称性」の中で、たがいに「遠い憧れ」を向け合いときめき合っている。その「非対称性」がなければ、ときめくことはできない。その「非対称性」を共有しなければときめき合うことはできない。
「自分」とは、この世でもっとも存在感の希薄な最低の人間であり、たしかな存在感を持ったこの世界からはぐれてしまっている存在なのだ。なのに平和で豊かな社会の現代人は、みずからの存在をこの世界の一部として、この世界との一体感を生きている。そうやって心がこの生や自分に執着しているのだが、そこに自分の存在の根拠を置いてしまうと、死ぬことができなくなり、「天国」や「極楽浄土」や「生まれ変わり」といった「死後の世界」を信じないではいられなくなる。
幼児体験として親との一体感を持ってしまうと、いつまでたってもそこから逃れられないし、親との関係の外でも、他者を縛って他者との「一体感=対称性」を生きようとするようになってゆく。しかしそれは人の自然ではないのだから、けっきょく親しくなればなるほど相手の心は離れてゆく。そうやって友達や恋人や夫(妻)や子供から逃げられてしまうケースは少なくない。
人としての自然においては、「一体感=対称性」の関係の息苦しさには耐えられない。消えてしまうことができない。消えてしまうことのカタルシス(浄化作用)を持つことができない。「一体感=対称性」の関係は、ひとつの「けがれ」なのだ。
人としての自然においては、「自分」という存在はこの世界からはぐれてしまっているし、すべての他者はこの世界の一部としての確かな存在感を持って立ちあらわれている。その「非対称性」を共有しながら人と人はときめき合ってゆく。その、確かな存在感を持つことのできない「かなしみ」を共有しながらときめき合ってゆく。
確かな存在感というか、存在の正当性としての正義は、自分のもとにはない。すべての正義は他者のもとにある。自分なんか、この世の最低の人間なのだ。人は、避けがたくそういう存在の仕方をしている。
しかし、この世の最低の人間になれば、この世で出会うすべての人間にときめいてゆくことができる。ひざまずいてゆくことができる。少なくともネアンデルタール人はそういう心模様を持っていたから、フリーセックスの社会をつくることができたのだ。あんなひどい環境で生きていれば、誰しも最低の存在になってしまう。あなたは、そういう心模様になることができるか。それが人間性の自然であり、誰の心の底にもそういう通奏低音が響いている。しかし現代人は、それを観念で押し殺して自分の存在に執着しながらときめきを失ってゆく。そうやって今どきの大人たちはインポテンツになってゆく。この生や日常生活に耽溺してしまったら、そうなってゆくしかない。ペニスが勃起することは、「もう死んでもいい」という勢いで非日常の世界に超出してゆく「お祭り」なのだ。


ネアンデルタール人は、「もう死んでもいい」という勢いで他者に「献身」してゆくことができた。彼らは、耽溺するべきこの生や日常を持っていなかった。誰もがこの生や日常からはぐれて「非日常」の世界に超出していった。そこに立って他者との関係の「非対称性」を生き、その「遠い憧れ」とともに他愛なくときめき合う「お祭り」を生きていた。
「献身」とは、その本質においては自分の死と引き換えに他者を生かすという「非対称性」の行為であり、たとえばネアンデルタール人の男たちは「もう死んでもいい」という勢いで大型草食獣との肉弾戦の狩りをしていたわけで、であれば、その狩りの獲物の肉も、自分よりも子供や女から先に食わせるということをあたりまえのようにしていたはずだ。おそらくそれが、現在のヨーロッパの「レディファースト」の伝統になっている。それは、「自分なんかこの世の最低の人間だ」という自覚で生きる態度にほかならない。そこにおいてこそ、関係の「非対称性」がもっとも深く豊かに実感されている。
人と人は「同じ」ではない。同じではないことすなわち「非対称性」を共有しながら関係を結んでいる。性格が違うとか、男と女の違いとか、そんなことよりもっと根源的に、存在の仕方そのものにおいて「非対称」なのだ。人と人のあいだには、「存在」に対する「非存在」という「非対称性」が横たわっている。
文明人の自意識が「自分なんかこの世の最低の存在だ」という自覚で生きる態度を持つのはとても難しいことだが、それでも人と人のときめき合う関係にはそういう自覚が無意識というか深層意識のところではたらいている。そこまでしぐれてゆくということ、この生に深く幻滅すること、その「かなしみ」にこそ人間性の自然がある。人はそこに立って世界の輝きにときめいている。そこから「献身」という態度が生まれてくる。
人と人が親密になると、支配し合ったり献身し合ったり、いろいろややこしい。しかし、人間的な「連携=関係」の本質・自然は、「もう死んでもいい」という勢いで「献身」し合うことにある。
女は、この生に深く幻滅している。その「やらせてあげる」という自己処罰のような性衝動だってひとつの「献身」であり、女は女であることの自然において、そこまでしぐれてゆくことができる。
まあ、この世に生まれて出てきたことの「過失=理不尽」は、「やらせてあげる」という気分にならないと和解できないし、じつは誰だってその気分で生きている。その「過失=理不尽」は本当にいたたまれないことであるのだが、今さらだれを恨んでもしょうがない。恨んだからといって取り返しがつくというものでもない。「もう、どうにでもしてくれ」という気分。そうやって「かなしみ」に沈んでゆく。しぐれてゆく。心はそこから華やぎときめいてゆく。「かなしみ」とは、他愛なく無防備なことでもある。
女の「やらせてあげる」という気分こそ人間性の基礎であるのかもしれない。