セックスと「羞恥心」


人間は観念でセックスをしている、などとよくいわれる。
そんなことをいっても、セックスは生き物の普遍的ないとなみであり、人間だって生き物の一種だということのあかしだろう。それどころか、ほかの生き物以上にセックスが好きなのだから、ほかの生き物以上に生き物としての本能が強いともいえる。
人間的で観念的なセックス、といわれてもよくわからない。そんなことをいっても、とりあえず勃起することは感覚的な体験だろう。観念で勃起できるのなら、勃起不全なんか起きない。
人間のするセックスだって、生き物としてのいとなみに決まっている。そしてそれは、子孫を残すためとか、そういう問題ではない。セックスをした結果として子孫が残されるのであって、子孫を残すためにセックスをするのではない。
ようするにそれは、たがいの性器をくっつけ合う行為だろう。それ以上でも以下でもない。
生き物はなぜそんなことをしたがるのかということは、「子孫を残すため」とか、そういう問題ではない。単純に性器がむずむずするとか、他者との関係に対する意識とか、身体と世界との関係に対する意識とか、あくまで生き物の「個体」としてのいわば実存意識の問題である。
つまり生き物の個体としての、生きてあることの「とまどい=羞恥心」はどんな生き物にもあるのだ。その「とまどい=羞恥心」にせかされて生き物はセックスしている。
そして人間は、ほかのどんな生き物よりもこの「とまどい=羞恥心」が強い生き物である。
「人間は観念でセックスしている」というが、べつに観念のはたらきが発達した人間はみな淫乱で精力絶倫だというわけでもないだろう。逆に、観念が発達するとインポや不感症になりやすい、という問題があるだけだ。
80年代のニュー・アカデミズムのブームのころ、「人間は本能が壊れた生き物である」とか「人間は観念でセックスしている」などと知識人が合唱している時期があった。彼らはそれでいっぱしの人間通になったつもりだったのだろうが、じつは人間に対する想像力や思考力の貧困をさらしているだけなのだ。たぶん、今でもそんなことをいいたがる知識人はたくさんいるのだろう。
また一部のフェミニストが「クリトリスを刺激するオナニーでオルガスムスを得られるのだから男なんかいらない」などといったりしているらしいが、そんなことをいっても、オルガスムスが得られればそれでいいというわけにもいかないのがセックスだろう。オルガスムスなんかあってもなくてもいい、セックスは男と抱き合ってなんぼだ、と思ったらいけないというわけでも不自然だというわけでもあるまい。
根源的には、人間は、オルガスムスや射精のためにセックスをするのではない。人間ならではの人との関係に対する思いがある。そこに向かって勃起しなければ何もはじまらないし、射精という目的で勃起しているわけでもない。つまり、「種族維持の本能」とやらで勃起できるわけではない、ということだ。それはあくまで「意識が他者に向かって焦点を結ぶ」という体験であり、焦点を結んでとまどい羞恥する心の動き(=脳のはたらき)の問題である。
それは「本能」でもなんでもない。「今ここ」に意識が焦点を結ぶかどうかという問題なのだ。



猿のメスは、性器が赤く充血して腫れてきて発情するらしい。体に異変が起きれば、誰だってとまどい落ち着かなくなってしまう。それを、発情というのだろうか。
身体の変化が起きなければ、セックスをしようという気にはならない。それはつまり、メスには根源的なセックスをしようとする衝動はないということを意味する。身体の変化が、メスにセックスをしようという気にさせる。種族維持の本能が根源にあったら、一年中その気になっていてもおかしくない。その気になって性器が充血してくるわけではない。
オスのペニスは、どうして勃起するのか。メスの変化した性器のさまや匂いを感じて落ち着かなくなってきて勃起するのだろうか。
「発情する」とは、落ち着かなくなってくることだろうか。つまり、世界に反応して「とまどう=羞恥する」ことによって発情する。
生き物には、先験的なセックスの欲望も種族維持の本能もない。ただ、生きてあることの「とまどい」は、どうしても起きてくる。世界に対して焦点を結ぶ心のはたらきがあれば、どうしてもそのような心の動きになる。
この世に生まれてくれば、世界と出会って世界に反応してゆく。それが生き物の生きるいとなみだろう。べつに、先験的な生きようとする欲望があるわけではない。
生命力とは、生きようとする欲望のことではない、世界に反応する感性の豊かさのことだ。
ペニスを勃起させようとする意欲が強ければ勢いよく勃起するというものではない。世界=他者に対する反応として勃起する。
「とまどい=羞恥心」がなければ、生き物の生は成り立たない。
先験的な欲望や本能などというものはない。
われわれは、生きようとする衝動すら持っていない存在なのだ。それでも生きてあれば、どうしても世界に反応してしまうわけで、それが生きるいとなみになっている。
いいかえれば、生き物が生きようとする欲望や本能で生きていると規定するのは、世界に反応して焦点を結んでゆくということが下手になっている現代人のたんなる観念的な思考にすぎない。それだけ命のはたらきが衰弱しているから、そんな先験的な衝動を捏造しないといけなくなる。
そんな欲望よりも、生きてあることに対する「とまどい=羞恥心」の方が、ずっと豊かな命のはたらきなのだ。生き物は、生きてあることにとまどい羞恥しているのであって、生きようとしているのではない。
生き物が、体に入ってきた毒を外に排出するのは、基本的な命のはたらきのひとつだといえるのだろうが、それは、生きようとするからではなく、それに反応してとまどい拒否するからだ。
生き物は、とまどう(羞恥する)という反応を持たなければ生きられない。それは、身体=自分のことを忘れて意識が環境世界に焦点を結んでゆく、ということだ。
身体=自分のことを忘れなければ、環境世界に焦点を結んでゆくことができない。そして、生き物がセックスをするということはこのはたらきの上に成り立っているのであって、生きるためでも子孫を残すためでもない。
意識が環境世界に焦点を結んで「とまどう(羞恥する)」ということ、そういうはたらきを持っているから生き物はセックスをするのであり、人間はそういうはたらきがとくに顕著だから一年中発情しているのだ。べつに、観念をもてあそんでセックスしているのではない。それは、人間においても生き物としての切実ないとなみなのだ。
生き物としてのレベルに遡行できなければ、人間だって勃起しない。
SMなどの変態趣味とか二次元とか同性愛だとかいろいろいわれているが、それらの行為だって、発情(勃起)を妨げている観念を壊して生き物のレベルに遡行するためになされているのであって、観念をもてあそんでいるのではない。
ホモの男は、女に対してとまどいや羞恥がない。とまどいや羞恥がなければ生き物は発情しない。
とまどいは、ときめきであり感動でもある。発情するとはそういう心の動きであって、「種族維持の本能」などいうようなものではない。「種族維持」なんて、ただの概念ではないか。生き物の根源的な衝動でもなんでもない。
種族維持のためにセックスしているなんて、人間くらいのものである。そして人間だって、種族維持の欲望では欲情(勃起)しない。そのときその場の「とまどい=ときめき」が必要である。



鳥でも魚でも、生きてあることの「とまどい」を持っている。
生きることは、新しい未知の事態と出会うことだ。人間のような記憶力のない生き物なら、なおさらである。すべての生き物は、とまどいとともに生きている。とまどうことが生きるいとなみであり生命力である。
同じ女とばかりセックスしていたら、飽きてくる。記憶が蓄積して、はじめてのようなときめきがなくなってくる。いつもはじめてのような気分になるためには、「忘れる」ということをしないといけない。
はじめてのような「とまどい=ときめき」によって勃起する。
欲情というときめきは、新しく生起する心の動きであって、記憶ではない。記憶は、欲情を妨げる。同じ女とセックスしても、そのつど新しく生起する心がある。ペニスは、いつも勃起したままでいるのではない。そのつど勃起する。それは、新しく生起する心による作用だということを意味する。なんのかのといっても、心が新しく生起している。
欲情(勃起)するとは、対象に焦点を結んで心が生起する、という体験である。
もしも生き物の心の底にいつも「種族維持の本能」がはたらいていてそれで勃起するのだとしたら、生き物のペニスはつねに勃起したままであるはずだ。
そのつど勃起するということは、そのつど心が生起するということであり、そういうはじめての体験としての「とまどい=ときめき」が勃起させている。
動物が年に一度か二度の発情期にしか勃起しないということは、はじめての体験としての「とまどい=ときめき」で勃起しているということだ。



生き物は、先験的に性衝動を持っているのではない。したがって現在の若者があまりセックスをしなくなっているというのも、べつに不自然だということでもない。世界や他者に対して焦点を結ぶ意識のはたらきが後退している時代であれば、それはもう当然のことだろう。生き物としての命のはたらきを失ったのではない。先験的な性衝動など持っていないのが生き物であることの与件なのだ。世の中には情報があふれているし、人々は未来のスケジュールを追いかけて暮らしている。つまり、それほどに意識が環境世界に対して「開放状態」になってしまい、「今ここ」に焦点を結んでゆくことが困難になっている時代なのだ。性衝動が生起してこない条件がそろい過ぎている。
性衝動がせき止められているとか抑圧されているというのではない。もともと性衝動というようなものはないのだ。それは、世界や生きてあることに対する「とまどい=羞恥心」から生起してくる。
観念的な操作で勃起することができわけでもない。たとえ人間であろうと、それはあくまで生き物としての自然の上に成り立った現象であり、しかも、もともと生き物の中に存在していない衝動なのだ。
性衝動は、世界に対する反応として生起する心の動きである。
現代社会においては、はじめに自分=心があり、それによって世界や他者を分析・吟味し裁いてゆく。
一方性衝動においては、はじめに世界や他者が存在し、その反応として自分=心が生起する。つまり、生き物はそういう存在の仕方をしているから性衝動が生起する、ということだ。
先験的な「種族維持の本能」とやらで勃起する生き物など存在しない。われわれの命のはたらきに先験的な性衝動が組み込まれているわけではない。この世界に生まれてきたことの「なりゆき」で性衝動が起きるのだ。
性衝動が先験的に組み込まれてあるのなら、すべての生き物は一年中発情している。
したがって、フロイトのように人間の行動や心の動きの基礎を性衝動で規定するのはまちがっている。性衝動は、生起するのだ。
いつもセックスがしたいと思っていても、勃起するのはあくまでそのときの「なりゆき」によって起こることだ。
性衝動が人間の心の動きや行動の基礎になっているのではない。われわれの心は、世界や他者が存在するという前提を持っているのではない。その心が世界や他者と出会ってとまどい羞恥することによって性衝動(勃起)が起きる。
生き物の心が世界や他者が存在するという前提を持っていたら、胎児の時期を通過できるはずがない。
「羞恥心」とは、世界や他者が存在するという前提を持っていない心が世界や他者と出会ったときの「とまどい」である。
先験的な性衝動など持っていないからこそ、性衝動が生起する。



先験的な性衝動など存在しないのだから、現代人の性衝動が希薄になっていても、不自然だとはいえない。不自然なのは、先験的な性衝動が存在すると考えることだ。そうやって先験的な「自分=心」があると考えることだ。
先験的に存在するのは身体だけであり、その身体が世界や他者と出会って心(意識)が生起する。
心が生起するということが起きなければ、性衝動(勃起)も起きない。
性衝動とは、心が生起する体験である。
先験的に存在する心などというものはない。心は、身体と世界との関係として生起する。心は、身体と世界との関係によって決定されている。
性衝動は、先験的に存在するのではなく身体と世界との関係として生起するものだからこそ、自然なのだ。
そして、なぜ性に羞恥心がともなうかといえば、心(意識)とは先験的な身体と世界との関係から遅れてあらわれ出たはたらきだからであり、発生した瞬間にすでに「とまどい=羞恥心」をともなっている。
遅れて発生するはたらきだからこそ、はじめての体験としてとまどいつつときめくのだ。それは、日常の穢れをそそぐ「ハレ」の体験であり、日常の観念を壊す体験である。
人間は、なぜセックスが好きなのか?
年に一度か二度、場合によっては一生に一度のことにすぎないほかの生き物にとっては、それほど大切なことでもないに違いない。一生セックスをしないオスの個体はいくらでもいる。
しかし人間は、セックスをしないではいられない存在の仕方をしている。
もちろん種族維持の本能によるのではない。
おそらく、生きてあることに対する穢れの意識が強いからであり、穢れをそそぐことが生きるいとなみになっているからだろう。
猿にとって、二本の足で立ち上がることは、きわめて不安定で無防備であるところのひとつの穢れである。それは猿よりも弱い猿になって生き延びることができなくなってしまう姿勢なのだ。だから、今のところ人間以外にこの姿勢を常態化しようとする猿はいない。どんな猿でもしようと思えばできるはずなのに。
いいかえれば人間は、この穢れをそそぐ体験をしながら常態化してきた。
二本の足で立っていれば、いやでもその姿勢を取っている身体の鬱陶しさが募る。しかし、そこから歩いてゆけば、身体のことを忘れてしまう。人間にとってそれは、穢れをそそぐ「ハレ」の行為である。おそらくこれが人間であることの基本のかたちであり、その発展形として、セックスや踊りや学問や芸術などの「ハレ」のいとなみに耽溺するようになっていった。中でもセックスは、そのもっともプリミティブで普遍的な行為だといえる。
人間は、生き延びようとするよりも、生きてあることの穢れをそそごうとする。いや、すべての生き物の生きるいとなみが、そのようになっている。心が生起する前に、すでに身体は世界と出会っている。身体と世界が出会った結果として、心が生起する。身体が世界と出会っていることの「とまどい=羞恥」として心(意識)が生起する。
二本の足で立っている人間は、ことのほかその「とまどい=羞恥」が大きい。



生き物は、先験的に性衝動を持っているのではない。たぶん、そんなものが遺伝子の中に組み込まれているのではない。この世に生れ出てくれば、いずれは何らかの「とまどい」が生じてくる。そこから性衝動が生まれてくる。
命のはたらきの根源は「とまどい」を持つことにあるのであって、性衝動にあるのではない。
そして性衝動だって、ひとつの「とまどい=羞恥心」なのだ。現代人は、この「なんだろう?」という「とまどい」を芸術や学問や娯楽などいろんなものに向けることができるが、原初の人類においては、二本の足で立って歩くこととセックスに特化していた。
男が射精することも女が妊娠することも、性行為の「目的」ではなく「結果」にすぎない。それはもう、生き物のレベルにおいてそうなのだ。
せっせと種を増やそうとしている生き物など存在しない。そんな衝動が本能であるのなら、「棲み分け=生物多様性」ということなど起こらない。
弱い生き物の個体数が多くなりがちなのは、べつに「種族維持」の戦略が本能としてはたらいているからではない。弱い生き物はこの生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」が強いからそのぶん性衝動も豊かにはたらいて個体数が増えてゆく、というだけのことだ。そしてそれは、「意識が対象に焦点を結ぶ」という心の動きの問題なのだ。
「とまどい」のぶんだけ、性衝動が起きる。環境世界と深く豊かにかかわってたくさんとまどっている種が、個体数を増やしてゆく。草食動物は世界に焦点を結んでとまどうことが多い生き方をしているから、個体数が増えてゆく。
ライオンやトラは、意識を開放状態にしたままにしておくことが多く、天敵に気づいて(とまどって)逃げるという経験もほとんど皆無だから、この生やこの世界にとまどい羞恥するという性衝動が起きてくる契機も希薄である。べつに個体数が増えないように調節しているわけではない。
「とまどい=羞恥心」すなわち「焦点を結ぶ」という体験が希薄なってくると、性衝動が減衰して種は滅びてゆく。
人間は、「なんだろう?」と「とまどう」ことの多い猿だったから、性衝動が豊かにはたらいて個体数を増やしてきた。
性衝動は、「射精」の衝動ではない、「勃起」の衝動なのだ。それは、「種族維持の本能」ではない。この世に生まれ出てきたことによる「とまどい」の問題なのだ。だからそこから性衝動ではない学問や芸術や娯楽などのほかのことに向かうこともある。
人類はかつて性衝動が豊かな猿だったが、人間であることの自然(本性)はあくまで「なんだろう?」と問う「とまどい」にあり、それはべつに性衝動でなくてもよい。しかしいいかえれば、その「とまどい」がなければ「勃起」も起きてこない。
「とまどい=羞恥心」がなければ性衝動は豊かに起きてこない。そしてそれはそれだけのことではなく、それなしには学問や芸術が花開くことはないし、人間としての品性の問題でもある。
人間のペニスを勃起させる契機を問うことは、人間としての品性を問うことでもある。品性とは、セックスアピールのことでもある。
何か話が堂々めぐりしてしまった。次回、もう一度考え直してみることにする。また堂々めぐりするかもしれないが。
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