愛情に関する基礎体力(この稿終わり)


愛されたがっているのは、それほどに不安だということだろうか。
愛されているに決まっていると思えば、そんな心配などする必要がない。
人間なんて、もともと愛し合って存在している生き物だ。いまさらどうして愛されたがるのか。
愛は大切である、とか、そんなことをいって愛を欲しがるということ自体が不自然なのだ。
愛したり愛されたりする体験なんか、泥棒でも人殺しでも持っている。持っているからといってべつに自慢するほどのことでもないし、愛されているからといってありがたがったりよろこんだりするほどのものでもない。
男にとっては、愛がどうのといって泥沼にはまり込む相手よりも、さっぱりとセックスだけやらせてくれる相手の方がありがたいときもある。都合がいい女とか、そういうことではなく、たとえ夫婦や恋人でもそういう泥沼はごめんだという思いは、多くの男が抱いている。
即物的なセックスの方がいい、ということではない。心が通い合う、ということと愛情がどうのということはまた別のことだろう。
日本人ならたいてい、即物的な「性交」よりは心が通い合う「情交」の方がいいと思っている。いや、人間なら、ということだろうか。
人間の男と女がセックスすれば、どこかかしら「情交」の気配がある。身体そのものに、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥」が漂っている。人間の身体は、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥」から体毛が抜け落ちていった。人間の身体の裸には、避けがたくそういう「とまどい=羞恥心」がまとわりついている。相手の心がどのていどそれを感じているかとか、そういうことではない。裸そのものにそういう「情=心」の気配がまとわりついているし、それを見る自分がすでに「とまどい=羞恥心」を抱いている。そのようにして人間の男のペニスは勃起している。
人間は、存在そのものにおいてすでに他者との関係の中に投げ入れられてあるし、その関係にとまどい羞恥している。
愛情というのなら、人間存在のかたちそのものがそのようになっているのではないだろうか。人間は、情のともなわないセックスなんかできない。相手が恋人であろうと夫婦であろうと娼婦であろうと。
人間の身体に体毛がないということは、人間は先験的に愛し合って存在しているということだ。愛は、人間が欲しがっているものではなく、背負っているものなのだ。人間は、そこから生きはじめる。そこは、たどり着くべき地平ではない。
愛を欲しがりありがたがることの不自然というのがある。「愛情に関する基礎体力」がないんだな、と思う。



近ごろでは、老人の「孤独死」ということが、さげすみあわれむニュアンスでよくいわれる。しかしそれがどれほどさびしく悲惨なことかはよくわからない。当人はそれほどさびしがっていなかったかもしれない。また、寝たきりのボケ老人になってまわりに嫌われながら家や施設で介護され続けることが、とにもかくにもひとりアパートで暮らして野垂れ死にしてゆく「孤独死」よりも幸せだといえるだろうか。
孤独死野垂れ死に」は悲惨だというのは、愛情に対する妙な飢餓感を募らせて生きている一般市民の勝手な自己正当化の思いこみかもしれない。
孤独死野垂れ死に」できるくらい自分で自分の人生を全うできるのなら、少なくとも嫌われ者でやっかい者であるだけの寝たきりのボケ老人より不幸だともいえないだろう。
とにもかくにもひとりで狭い安アパートに寝起きしながら時々たずねてくる介護サービスの人間とのわずかな会話を楽しみにしながら死んでゆけるのなら、精神も身体も壊れてしまったモンスターみたいな寝たきりのボケ老人よりはずっとましだろう。ボケてしまった方はそれでいいかもしれないが介護するまわりの者はたまったものじゃない、という例はいくらでもある。
願わくば、介護サービスの人間の心を癒してやれるような存在の老人になりたいものだ。
歳をとって頭が耄碌してきたら、人の言葉で癒されるような能力はもうないのであり、老後の心の始末などということは、自分でなんとかするよりしょうがない。そのときはもう、他人の言葉で癒されるような理解力はすでにない、と覚悟しておくべきだ。そうしてただもう、その無意識的で無邪気な言葉がまわりの人間の苦労を癒してやることができるのなら、これ以上のことはないだろう。
癒される必要があるのは、まともな脳のはたらきを持っている生き残る者たちの方だ。
孤独死」をあわれみさげすむ現代人の、その愛情に対する飢餓感を募らせた強迫観念だって、ひとつの病理だろう。
人間なら誰だって、存在そのものにおいて「すでに愛されている」のだ。
たぶん、「すでに愛されている老人」にならなければ、まわりの人間を癒してやることなどできない。
「すでに愛されている老人」は、他者から何がしてもらいたいかということなど考えない。死ぬまで「他者に何がしてあげられるか?」というテーマとともにある。べつにそういうことを意識できなくても、そういう存在の仕方をしている老人というのはいるものだ。もちろん、ごくまれなことではあるが。
「愛情に関する基礎体力」の問題として、すでに愛されている人間は、愛などというものは欲しがらない。欲しがらないのが人間の自然なのだ。



「羞恥心」というと、よく「人間はどうして裸や性器を見られることに恥ずかしがるのか?」という問題の立て方がされる。それが人間の「羞恥心」における根源の問題だと考えられている。
たしかにまあそうなのだが、「恥ずかしがる」というのは、たんなる表層の心の動きという以上に、「命のはたらき」の問題である。
草や木が生育することだって、現象的には「羞恥心」の問題なのだ。その「羞恥心」によって「生物多様性」が成り立っている。命がはたらくということは、この生やこの世界にとまどい羞恥するということであり、だから生物は、むやみに生息圏や個体数を拡大しようとしない。
したがってここでいう命のはたらきとしての「羞恥心」は、制度的な「恥の意識」とは違う。妙な「恥の意識」が強すぎるから「羞恥心」が欠落している、という場合は多い。
「恥の意識」が強すぎるから人は凶暴になる。自分に恥をかかせた相手が許せなくなり、憎悪が募る。そして国家は、むやみに領土を拡大しようとしたりする。そういう「恥の意識」は、「羞恥心」の欠落である。
「羞恥心」が足りないからペニスの勃起がおぼつかなくなり、変態プレイに走る。彼らは、そこまでやらないと「羞恥心」が起きてこない。社会的な成功者などの「恥の意識=自尊心」が強いものたちほど、SMプレイに走りたがる。「恥の意識=自尊心」が強いと、セックスのプレイだけでなく、いろんな場面でサディスティックになりがちである。
命のはたらきとしての「羞恥心」と制度的な「恥の意識」は違う。一般的には両者を同じもののように語られているが、両者は逆立している正反対の心の動きである。



まあ、性器や裸を見られて恥ずかしがるのは、体毛を失った人間の裸(皮膚)には「羞恥心」という「とまどい=ストレス」がまとわりついている、ということだろう。
世の心理学者や哲学者はみな、これを共同体の制度の問題として分析し説明しているのだが、そういうレベルの問題ではない。人間の「羞恥心」はもっと根源的な心の動きであり、生き物としての命のはたらきの問題なのだ。
人間が最初に体験する「羞恥心」は、性器を見られることではない。
幼児は、一歳を過ぎればもう「羞恥心」を持つようになってくる。もちろん彼らは性器を見られても恥ずかしがらないが、「人に見られている」ということそれ自体に恥ずかしがっている。
「羞恥心」の根源は、「人に見られている」ということにある。
人間の二本の足で立つ姿勢は、他者と向き合い「見られている」と感じることによって安定してゆく。その視線の「圧力」がその不安定で前に倒れやすい姿勢を安定させる。このことは何度も書いてきたからここでは繰り返さないが、とにかく赤ん坊は、二本の足で立って歩きはじめたことによって「羞恥心」を芽生えさせるのだ。それが第一義的な契機であって、お母さんとの関係がどうのというのは二義的な問題である。
人間の二本の足で立つという姿勢そのものに、「見られている」という意識がまとわりついている。その「羞恥心=ストレス」で人類の体毛は抜け落ちていったのだが、現実に見られていなくても、二本の足で立っているというそのことに「見られている」という「羞恥心」がまとわりついているのだ。
「見られている」とは「愛されている」ということだ。そのようにして人間の二本の足で立つ姿勢が成り立っている。
「羞恥心」のことに関していえば、僕は、世界中の心理学者や哲学者の思考はみな薄っぺらだと思う。共同体の制度だけで説明がつく問題ではないのだ。彼らは、制度的な「恥の意識」と根源的な「羞恥心」をいっしょくたに考えている。まあ誰もがいっしょくたに考えてしまっている世の中だが、それではすまないではないか。その程度の思考でわかっているような言い方をされても、僕は納得しない。たとえ過去の天才の意見であれ、その程度の思考の哲学書を引用してわかったようなことをいってもしょうがないだろう。世の中の科学はつねに過去の偉大な発見のその先を探求しているというのに、哲学や心理学の文科系の連中ときたら、過去の天才のいうことを引用しコピペするだけで、すっかり何もかもわかったつもりになっている。
なぜそんなことになるかといえば、おそらく文科系の世界は「神の規範」が機能している世界だからだろう。江原啓之とか伊勢白山道とか、文科系の世界では、いつの時代も「神の規範」を得々と語る人間が「トリックスター」として現れもてはやされる。
デカルトだろうとヘーゲルだろうとマルクスだろうと「神の規範」にはなりえないし、「神の規範」などというものは存在しないのだ。



話が横道にそれてしまった。もとに戻そう。
人間は、存在そのものにおいて「すでに愛されている」のであり、安アパートで独り暮らしをしている老人だって「すでに愛されている」存在なのである。であれば、それをあわれみさげすみながらむやみに愛されたがっている現代人の飢餓感の方がよほど病理的である。
愛されたがるとか、愛されてうれしがるなんて、「羞恥心」がなさすぎるのだ。安アパートで独り暮らしをしている老人の方がずっと「すでに愛されている」ことの「羞恥心」を持っている。
ひとりになると、自分が「すでに愛されている」存在であることがよくわかる。老人のひとり暮らしは、はたで思うほど悲惨ではない。少なくとも、ひとり暮らしができなくて介護施設でボケて寝たきりになっていることほど悲惨ではない。
中世の「隠遁者」が悲惨だともいえないだろう。安アパートで独り暮らしをしていることだって、まあそれと同じではないか。
「愛情に関する基礎体力」、それが問題だ。
「すでに愛されている」存在としてふるまうことのできる「基礎体力」。現代人はそういう基礎体力」が欠落しているから愛情に対する飢餓感を募らせ、「孤独死」をむやみにあわれみさげすんだりする。
人間は、もともとひとり暮らしができるような「愛情に関する基礎体力」を持っている。それは、それは孤独に耐えられるというようなことではなく、そのときこそすでに孤独ではないことに気づくからだ。
人間は、存在そのものにおいて「すでに愛されている」。
この国の現代社会はたくさん人がいて、しかも戦後は階級・階層があいまいになって誰もがサラリーマン化して競争社会になったのだが、そのせいか収入とか社会的地位だけでなく、愛され方の格差が強く意識されるようにもなった。ちやほやされているものはいい気になるし、されていないものはその不足を嘆く。そうやって誰もが人にちやほやされたがっているその「愛情に対する飢餓感」が、「孤独死」をあわれみさげすんでいる。
現代人は、「愛情に関する基礎体力」を失っている。
男の勃起力が減退しているというのも、まあそういうことだろう。
人間のセックスは、どんなかたちであれ、すでに「情交」なのだ。「すでに愛されてある」ことの「とまどい=羞恥心」が男のペニスを勃起させる。
今どきは、女にもてることを自慢したがる男や、女を口説くというか女になれなれしく言い寄ってゆくのが上手な男はいくらでもいる。しかしそういう「羞恥心」の希薄な男の勃起する力がダイナミックかというと、そうともいえない。そういう差は若いうちはわからなくても、50代60代になってくると確実にあらわれてくる。それは「羞恥心=愛情に関する基礎体力」の問題であり、それがなくて「愛情に関する飢餓感」ばかりが強いから自慢したがったりなれなれしく言い寄ってゆくことができるのだろう。
愛情なんか得ても、それで人の心が満足できるのでも癒されるわけでもない。それは、人間が欲しがっているものではなく、すでに背負っているものなのだ。人間はそこから生きはじめるのであって、そこを目指しているのではない。
人間は、存在そのものにおいて、「見られている」ことすなわち愛情に対する「鬱陶しさ」や「とまどい=羞恥心」を持っている。
「すでに愛されている」こと、それが人間存在の根源(自然)のかたちである。「羞恥心」はそこから生まれてくる。裸や性器を見られて恥ずかしがることよりももっと深いところで人間は恥ずかしがっている。裸や性器でなくとも、「見られる」ということ自体に恥ずかしがっているし、自分の方から見るということにもとまどいや羞恥がともなっている。
人間は、というより、生き物の本能そのものが、この生やこの世界にとまどい羞恥している。恥も外聞もなく生き延びようと必死になっている生き物など存在しない。
そしてこれは本能的なことだけの問題ではなく、若者だろうと老人だろうと、すでに愛されている存在としての「羞恥心」持っているかどうかということこそがその人の品性や魅力やセックスアピールになっているのではないだろうか。そういう「愛情に関する基礎体力」を持っているかどうかということ。



人間は、他者の愛情を欲しがったり、他者に何がしてもらえるかというテーマで生きているのではない。
生き物は、赤ん坊を育てようとする。それは、他者に何がしてやれるかというテーマを持っている、ということだろう。生きられない赤ん坊を生きさせることほど生き物を熱中させる行為もない。自分が生きようとすることを忘れて熱中してゆく。
いったいこれは、なんなのだろう。
雛がチュンチュン鳴けば、餌を欲しがっていることがわかる。空腹で苦しみもがいていることがわかる。
本能でわかる、といってしまえばかんたんだが、腹が減れば心も体も苦しみもがくということを自分が生きてきた経験知としても知っているのだろう。なんとなく、その小さな命には餌が必要だということがわかる。
まあ生き物に餌が必要なことくらいは、本能などなくても経験知としてわかる。そしてそれは生き延びるために必要なのではなく、その苦痛から逃れるために必要だということ。苦痛から逃れることは、生き延びることではなく、みずからの身体の存在を忘れることである。すなわち生き物は、みずからの身体の存在を忘れてしまおうとする衝動を持っていないと生きられないということだ。みずからの身体の存在を忘れてしまうことが、命のはたらきである。生き物は、生き延びようとしてみずからの身体に固執するのではなく、身体ごと生きてあることそれ自体を忘れようとしているのだ。そのようにして、みずからの生にとまどい羞恥している。
餌を欲しがっていることがわかってしまったのなら、もう与えるしかない。与えようとするのは、雛を生かそうとするというよりも、雛から、与えずにいられないように誘導というか誘惑されてしまうのだろう。
誰かが「子は親のものではないが、親は子のものである」といっていたが、鳥の雛は、親から給餌行動を引き出す生態を持っている。
親は、なんとなく餌を欲しがっているのがわかってしまう。それは、餌を欲しがっている自分の体のことを忘れてしまう体験である。親にとって、自分の体が餌を欲しがることは、よろこびでも希望でもない。それはあくまで苦痛(鬱陶しさ)である。忘れることが、よろこびであり希望なのだ。雛が餌を欲しがっていることに気づくことは、いわば、失恋のつらさを新しい恋で上書きしながら忘れてしまうのと同じような体験なのだろう。同じことで上書きされるから忘れられる。雛に餌を与えている限り、ふだんよりも空腹の苦痛が軽減されている。ときに忘れてしまうくらい軽減されている。
とにかくそういう関係が生まれるのは、生き物がこの生やこの世界にとまどい羞恥している存在だからだ。そしてこのとき親も雛も、「すでに愛されている」存在としてふるまっている。愛されることなんか欲しがっていない。雛は、愛されているという前提で餌をくれとねだっているし、親もまた、愛されているという前提で餌を与えようとしている。
べつに、餌を与えれば愛してもらえると企んでいるわけではない。生き物の「関係」の基本は、レヴィ=ストロースのいうような「贈与と返礼」の関係にあるのではない。「すでに愛されてある」という前提の上に立った、たがいに一方通行の関係である。
子は、親から一方的に金や餌や介護の手間をむしり取っているだけであり、親のよろこびや希望もまた、一方的に与えることによってみずからの生の苦痛を忘れていることにある。
生き物は、みずからの身体や生を忘れたがっている。だからこそ、他者の存在に意識の焦点が結ばれる。
雛の意識は、親と一体化しているのではない。親の存在を「他者」として焦点が結ばれているからこそ、餌をくれとねだっている。一体化しているのなら、黙ってじっとしていても餌をもらえるつもりになれる。しかし、けんめいに餌をくれとねだるのだ。それはまあ、「ねだる」というよりも空腹に耐えかねてもがいていると言った方が正確かもしれない。目の前に餌を見せられて、いっそう空腹を刺激されてチュンチュン鳴いているのだ。
この世に、親と一体化している赤ん坊などいない。赤ん坊は赤ん坊なりに、一個の孤立した個体として、この生やこの世界にとまどい羞恥している。
現代社会は、にもかかわらずその成長過程においてその「とまどい=羞恥心」を解体して「愛情に対する飢餓感」を植え付けてしまう。
生き物は、「すでに愛されている」という前提を持っている。それは、たがいに、みずからの生にとまどい羞恥しながら意識が世界に焦点を結んでゆくかたちで存在しているからであり、誰もがすでに他者を愛してしまっているし、すでに愛されてしまっているのだ。
鳥の雛は、「すでに愛されている」前提で餌をくれとねだっているだけで、愛してくれと要求しているのではない。



生き物は、「すでに愛されている」という前提を持って存在している。
「すでに愛されている」という前提を持っている者は、「愛してほしい」と願うことはしないし、愛されていることによろこんだりはしない。生き物にとって愛されていることは、よろこびでも希望でもない。それはあくまで、生き物として背負わされた宿命である。すなわち、他者との関係につながれて存在しているということ。
他者との関係はつくるものではなく、処理するものだ。
たとえば、電車の中で「席を譲ってください」とお願いする老人はほとんどいない。その問題のほとんどは、「どうぞ」と誰かが席を立って譲ってやることによって解決される。まあ、お願いしてくる老人がほとんどいないのをいいことに若い世代が平気で優先席に座っている無神経はほんとうに腹立たしいことだが(たぶんケータイいじりをしたいから)、とにかく「席を譲ってください」といって「関係をつくってゆく」ということは人間の自然には組み込まれていないのだ。すでに愛し愛されている関係の中に置かれてある人間は、「どうぞ」と席を立って「関係を処理する」ことが基本的な生態になっている。
ごく自然に恩着せがましくない気配で席を譲ってやれる人は、「愛情に関する基礎体力」を持っている。
「すでに愛されている」という前提を持っていない人間に「席を立て」といっても無理なのだ。そういう前提を持っていないと、自然に立ち上がるということはできない。彼らには、愛されたいという飢餓感をともなった欲望しかない。雛に餌をやる親鳥ていどの「基礎体力」すら失っている。
「すでに愛されている」という前提を持っているならかんたんに「席を譲ってくれ」といえるではないかといっても、そうはいかない。相手にそういう前提を持っているような気配を感じなければ、そうかんたんにはいえない。いやいや譲られて不愉快な思いはしたくない。広い世間の関係は、家族のようなわけにはいかない。
広い世間では、相手に何かをしてくれという要求はできない。「自分が何をしてやれるか」というテーマがあるだけだ。そういうテーマで生きている人が自然に席を立つことができるし、そういうテーマを抱えた存在だから、そうかんたんには「席を譲ってください」とはいえない。
また、そういうテーマを持っていたら、優先席なんかには座らない。
いずれにせよ、「すでに愛されている」という前提を持っている存在は、「自分は他者に何がしてやれるか」というテーマを持っている。それはたぶん、すべての生き物の生きてあるかたちなのだ。そう思わなくても、鳥の親は雛に餌を運んでくる。
花に蜜があることや木の実が食べたら美味いことだって、かたちとしては「「自分は他者に何がしてやれるか」というテーマを持った現象であり、それによって花や木が生き残るとしても、それはたんなる「結果」のことにすぎない。べつに花や木に「生存戦略」などという意識があるわけでもあるまい。生き物の世界はそういうかたちになっている、というだけのこと。
生き物は、「すでに愛されている」という前提と「自分は他者に何がしてやれるか」というテーマを持っている。それはまあ擬人化していえばそうなるというだけで、そういう意識で生きているというのではなく、自然としての「本能」とか「生態」のレベルでそういうかたちになっている。
ともあれ人間だって生き物であるわけで、人と人の関係の基本的なかたちの問題でもある。
なぜ「何がしてやれるか」というテーマを持ってしまうかといえば、生き物の命のはたらきはみずからの生や身体を忘れてゆくことにあり、そうやって他者に意識の焦点を結んでいる限りこの生や身体のことを忘れていられるからだ。親鳥が雛に餌を運ぶのも、雛が餌をねだるのも、この生や身体を忘れたがっている現象である。
介護される老人だって、自分の生や身体のことばかり心配しながら何かをしてもらうことばかり考えていたら生きられない。介護される身だからこそ、自分の生や身体のことを忘れて他者に意識を結んでゆくタッチがなおさら必要になる。べつに「何がしてやれるか」と意識しなくても、その言葉や振る舞いに相手の心を癒すタッチがあれば、自然に自分を忘れて相手に意識を向けていられる。また介護する方だって、癒されてほっとする体験があればこそスムーズに献身してゆける。
多少なりとも介護する者の心を癒してやれるタッチを持っているかどうかということは、おそらく介護される老人の大問題である。けっきょく、介護する者もされる者も、「何がしてやれるか」というテーマで関係を結んでいる。
人間は、「何がしてやれるか」というテーマの上に存在している。
まあ経済の問題として考えれば、「何をしてもらえるか」という発想になるし、愛が得られる身分になりたいとも思うのだろう。
それでも人と人の関係の根源は、「何がしてやれるか」という衝動を向け合うことの上に成り立っている。愛をほしがれば愛が得られるとはかぎらない。すでに愛されている人は、愛されたいとは思わないし、愛されていることによろこんでもいない。愛されていることにとまどい羞恥しながら、そんな自分を忘れて「何がしてやれるか」と発想してゆく。
ともあれこの問題もまた、人間が二本の足で立っていることに回収されてしまう。その不安定で攻撃されたらひとたまりもない危険な姿勢で向き合っている関係をつくるためには、たがいに「何がしてやれるか」という意識を持っていなければ成り立たない。原初の人類は、二本の足で立ち上がったことによって、たがいに「何がしてやれるか」という関心を向け合う存在になっていった。そういう関心を向け合っているから、限度を超えて大きく密集した集団をいとなむことができるようになっていった。



まあ、人間というのは「何がしてやれるか?」と問う存在だったからこそ、そこに付け込んで何もかもわかったように決めつけ「これをしろ」と説得=支配したがる人種が登場してきた。それは共同体(国家)の発生とともに起こってきたことで、そのよりどころとしてこの世のすべてを決定し支配している「神」や「霊魂」という概念がイメージされていった。
他者を説得=支配したがる人間は、そのとき「神の代理人」になっている。現代人は「神の代理人」になろうとする欲望が強い。今どきの多くの親や教師は、子供に対して「神の代理人」であるかのようにふるまっている。彼らは、何かにつけてすでに決定されている「神の裁き」を模倣したがり、「何がしてやれるか」と問うことはしない。そういうこの生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」がない。
人間の本性はあくまでとまどい羞恥しながら「問う」ということにある。
金が天下の経済社会では、どうしても愛に対して飢餓感が募ってゆく構造になってしまうのだろうか。そうして支配と被支配とか共生というようなべたついた関係になってしまう。それは、「何がしてやれるか」という問いを喪失した関係なのだ。
それでも人と人は、根源的には、「何がしてやれるか」という関心で関係を結んでいる。誰もがどこかしらにそういう問いを持っているし、そういう問いを豊かに持っている人ほど魅力的なのは昔も今も変わりはないにちがいない。
近ごろは、企業が求める人材として「コミュニケーションの能力」などといわれたりしているが、それだっておそらく「愛情に関する基礎体力」として「何がしてやれるか」という問いを豊かに持っている人がイメージされているのだろう。ひとりのリーダーの人を支配し説得できる能力によって組織が動いてゆく時代は終わった。それよりも、誰もが「私はあなたに対して何がしてやれるか」と問い合ってゆく連係プレーが必要になってきている。そしてそれは、原初の人類が二本の足で立ち上がったときに獲得した能力でもある。
とにかく、全地球的に人間が増えすぎた時代である。こんな状況で、変に愛情に対する飢餓感を募らせて騒々しく立ち回られてもはた迷惑なだけである。
愛なんかいらない。人は、すでに愛されて存在している。そこから「私はあなたに対して何がしてやれるか?」問うてゆく。
まあ現代社会は、そういう「愛情に関する基礎体力」をそなえた人が少なくなっているのかもしれない。
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