もう一度、セックスと「羞恥心」について考える


動物のオスのペニスが勃起するとき、その根源に「とまどい=羞恥心」がはたらいている。「ときめき」とは「とまどい=羞恥心」の別名であるともいえる。いずれにせよ、意識が「今ここ」の何かに焦点を結んでゆく現象である。
この「焦点を結ぶ」という意識のはたらきは、かんたんなようでじつはかんたんではない。誰もが同じように焦点を結んでいるのではなく、人によってさまざまな差がある。
人間の世界においては、「とまどい=羞恥心」のない男から順番に勃起不全になってゆく。今どきは、30代40代ですでにそのことに悩んでいる男も少なからずいる。そして60歳を過ぎれば半分以上の男が不能になってしまうともいわれたりしている。まあセックスだけが人生ではないのだからそれでもいいのだが、人間ほどセックスが好きな生き物もいないのだとしたら、それは人間性が衰弱している現象だともいえる。
何はともあれ人類は男が一年中発情している集団の歴史を歩んできたのであり、男がかんたんに勃起してしまうのが人類史の伝統であるのだろう。だから、勃起できなくなると悩む。できなくてもいいのだけれど、そういう年中発情してきた人類史の無意識が悩ませる。
いいかえれば、現代人は、そうした人類史の伝統の何かを喪失している。かんたんに勃起できないことの不自然、若いころはかんたんに勃起できていたのにだんだんできなくなってゆくことの不自然。大人になれば、心が、社会の制度性という不自然に侵食されてゆく。たぶん、そうやってどんどん観念的な存在になってゆくことが問題なのだ。
勃起することすなわち性衝動の根源には「とまどい=羞恥心」がはたらいている。だがそれは、セックスだけの心の動きではない。人間は、その心の動きを、学問や芸術をはじめとするあらゆる文化的ないとなみに向けている。現代人の男が勃起できなくなっているということは、そういう問題でもある。べつに勃起できなくてもかまわないが、学問や芸術だけでなく人と人の関係に対する思考や感受性の文化までが貧しくなっているのだとしたら問題だろう。
人間社会では、根源的には「とまどい=羞恥心」が人と人の関係を成り立たせている。それを持っているか否かは、人間としての品性やセックスアピールの問題でもある。
まあ、知性とは「とまどい=羞恥心」のことだともいえる。
性衝動は、生き物の根源的な衝動ではない。根源的というなら、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」こそ根源的なのだ。そこから性衝動が生まれてくるにすぎない。
セックスなんかしてもしなくてもいいが、「なんだろう?」と問う「とまどい=羞恥心」を持っていなければ、人間性が豊かだとはいえない。
人間は、猿よりもずっと「とまどい=羞恥心」が強い。それによって人類史における文化や文明が花開いてきた。
人間を、生き物の根源(本能)から逸脱した観念的な存在だと決めつけるべきではない。生き物の根源(本能)に遡行することによって人間は人間になった。それは、この生やこの世界に対して「とまどい=羞恥心」を持つことである。人間的な高度な観念のはたらきだって、この基礎の上に成り立っている。
つまり、「意識が焦点を結ぶ」ということ、これによって性衝動(勃起)が起きるし、高度な思考や感受性が生まれてくる。
しかしその一方で、焦点を結ばないことによって広く知識を記憶してゆくことができるし、あれこれ正しいかどうかと分析し裁いてゆくこともできる。この社会はそういう制度的な思考で動いているわけで、それが「焦点を結ぶ」という生き物としての基本的な心の動きが起きてくることを阻んでもいる。
焦点を結ぶことは「なんだろう?」ととまどい問うてゆくことであって、正しいかどうかと分析し裁いてゆくことではない。この両者の心の動きは逆立しているから、大人になると勃起する力が減衰してゆくということが起きてくる。



現代社会のストレスは、神経を使い過ぎることにあるのではなく、神経の使い方がいびつなことにある。人間であるかぎり、二本の足で立っていることの(嘆き=ストレス)から逃れられるわけではないし、何も感じない考えないで生きてゆけるはずもない。
人間なら誰だってたくさん感じてたくさん考えて生きている。自分だけ脳のはたらきがとくべつだなどと思うべきではない。
感じたり考えたりすることはストレスに決まっているが、そのストレスが人間を生かしている。いや、そのストレスが生き物を生かしている、というべきだろうか。
リラックスしてぼんやりすることもときには大切かもしれないが、対象に焦点を結んで「なんだろう?」ととまどい問うてゆく心の動きがなければ勃起する力は回復しない。
貧乏人の子だくさんではないが、弱い生き物はストレスフルな存在の仕方をしているから性衝動(勃起する契機)が豊かだともいえる。
性衝動は、シマウマが自分に向かってきているライオンに気づくのと同じ「焦点を結ぶ」心の動きが契機になっている。焦点を結ぶ心の動きは「なんだろう?」と問うひとつの「とまどい=羞恥心」であり、ストレスにほかならない。
「不安」は、ひとつのストレスに違いない。しかし「不安な状態になるまいとすること」にもストレスがないわけではないだろう。不安な状態になるまいとしてせっせと働く。そして景気や時代の動きの予測をしたがるし聞きたがる。そういう強迫観念というストレスで現代社会が動いている。
それは、不安というストレスそのものを生きることではない。不安になるまいとするストレスを生きることだ。意識を「今ここ」で焦点を結んでしまいたくない。未来のことまでわかっていたいし、広く世の中を見渡していたい。そうやって意識が時間的にも空間的にも「開放状態」になってしまう。今ここで焦点を結びたくないと同時に、結べなくなってしまっている。それは、焦点を結んでライオンに気づいてゆく能力を失っているからいつもまわりにライオンがいるかどうか見ていないと安心できない、というようなことで、猿よりも弱い猿としての人間性の自然だとはいえない。
焦点を結べないのなら、勃起は起きない。
人間は、猿よりも弱い猿として意識が環境世界に焦点を結んでゆくはたらきが発達したから、一年中発情している生き物になったのだ。


女と抱き合って意識が女の体に焦点を結んでゆくということは、女の体の質感にとまどい羞恥することであって、それを吟味し確かめることではない。
生き物の視覚の直感においては、対象をたんなる「画像」として解釈しているのであって、質感は感じていない。だから、質感と出会って大いにとまどい羞恥する。何度セックスしても、その質感は見ただけではわからない。意識は、質感を反芻することはできない。
人間は、その質感に対してことのほかとまどい羞恥し、しかもその質感を反芻することができないから、いつも発情している存在になっていった。
原初の人類が女の裸を見て欲情していたということは考えられない。原初はいつもみんな裸だったし、それを見ることはとくべつな体験ではなかった。衣装を着る文明社会になってから、裸を見ることも欲情する契機になってきたにすぎない。
しかし、見るだけでは、どうしても質感は確かめられない。それは、触ったり抱き合ったりして、はじめてわかる。
人間は他者の身体の質感をあからさまに感じるような存在の仕方をしていないし、他者の身体の質感と出会えば大いにとまどい羞恥しときめいてゆく存在でもある。
二本の足で立っていることは、不安定な上に身体の急所を外にさらして攻撃されたらひとたまりもない姿勢である。したがって、相手の身体の質感を感じていたら向き合ってはいられないのだが、それでも人間は向き合っている関係をつくっていった。なぜなら二本の足で立つことは、向き合っている関係になることのその心理的な圧迫感(ストレス)によって安定する姿勢だからである。つまり、向き合い見つめ合いつつしかも相手の身体の質感をあからさまには感じないことによって成り立っている関係であった。
見ただけでは量感や質感をうまくとらえられないのが、人間の視覚の自然である。とりあえず「画像」として見つめ合いながら、そこから抱きしめ合ってとまどい羞恥しときめいてゆく。
見ただけでは質感がよくわからないから、質感と出会ってときめく。
人間ほど他者の身体の質感がよくわかっていない生き物も、人間ほど他者の質感にときめく生き物もいないのかもしれない。その振幅の大きさが、一年中発情している存在にした。



性器と性器をつなげることは、勃起したことの結果だろう。勃起してしまえば、なんとかその事態を処理しないといけない。
かんたんに勃起してしまうようになったことが最初に起きたことだろう。性器と性器をつなげようとする欲望が起きたのではない。
人間は二本の足で立ち上がったことによって、女の性器が尻の向こうに隠されてしまった。それは、女の性器を見て発情する体験を失ったということを意味する。しかしそれでも人間の男は、猿の時代よりももっと頻繁に発情し勃起している存在になっていった。
それは、正面から向き合う関係をつくっていったことがはじまりであり、その延長として正面から抱き合う関係が生まれてきた。
勃起したから抱き合っていったのではなく、抱き合ったら勃起するようになっていったのだろう。
なぜ正面から抱き合うようになっていったか、それが問題だ。
四足歩行の動物は、後背位でセックスする。それは、後ろから性器がよく見えるし、匂いもわかりやすいからだろう。
それに対して、女の性器が隠されているのにそれでも人間の男が頻繁に発情するようになっていったのは、二本の足で立ち上がったことによって、みずからの身体に対する疎ましさや他者に対するときめきをより強く感じるようになったからだろう。
女の性器が隠され、男の性器があらわになってしまったことによって、男も女もより強く「とまどい=羞恥心」を覚える存在になっていった。それが、発情(勃起)することの水源なのだ。
人間は、二本の足で立ったことによって、他者の身体と正面から向きうという関係をつくっていった。
他者と向き合っていることは、他者の身体の圧力を心理的に受けていることであり、それによってひとまず二本の足で立つ姿勢が安定するのだが、抱き合ってしまえば、その圧力から解放されることになる。
二本の足で立って向き合っている人間には、つねに抱き合ってゆこうとする衝動が疼いている。
おそらく、正面から抱き合うという生態を持ったことが契機になって、一年中発情している存在になっていったのだろう。それは、それほどに「種族維持の本能」が強くなったのではもちろんない。それほどにみずからの身体に対する疎ましさや他者に対するときめきをより強く感じるようになったからであり、それほどに意識がこの生やこの世界にはっきりと焦点を結んでゆく存在になったからだ。その「とまどい=羞恥心」が性衝動(勃起)になっていった。



おそらく原初の人類は、かなり早い段階から正常位でセックスするようになっていた。原始人はみな後背位でセックスをしていたなどという俗説は嘘だ。正常位でセックスするようになったから、一年中発情するようになっていったのだ。
僕ごときがえらそうなことはいえないのだが、人間のセックスは正常位ではじまり、正常位で極まる。
ともあれ人類の男は、正面から向き合って抱きしめ合うと勃起する存在になっていった。
人間の女の胴体の正面には、ほとんど体毛がない。それは、そこにこの生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」がたまっているからだ。人類の体毛は、そのストレスによって抜け落ちていった。
若いころにセックスをし過ぎると歳をとって早い段階に不能になってしまう、という俗説がある。それは、「とまどい=羞恥心」がないから若いころにやりまくることができるし、「とまどい=羞恥心」がないから早い段階で不能になってしまう、ということだ。
生き物の本能として「性衝動=勃起」があると思うべきではない。それは、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」から起きてくるのであって、本能によるのではない。
鳥や魚にだって、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」はある。彼らがなぜあんなにも熱心に求愛行動を繰り返すのかといえば、それほどにこの生や世界に対する「とまどい=羞恥心」というストレスを深く負っているからだ。
メスよりもオスの方がずっとそのストレスに対する耐久力がない。だから、すぐ勃起するし、けんめいに求愛行動をしてゆく。メスは、オスよりもずっと「とまどい=羞恥心」が強いが、オスよりもずっとそのストレスに耐える能力を持っている。それだけ生き物としてより根源的な存在だということだろうか。
いずれにせよ、性衝動などという本能はない。この生や世界に対する「とまどい=羞恥心」があるだけだ。
人間の大人の勃起不全が失っている生き物としての本能は、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」にある。彼らの多くは、そういう不安=ストレスを感じないというか感じるまいとするような生き方をしている。
ペニスを勃起させるのにもっとも有効な方法は、女の手で触ったりフェラチオをしてもらったりすることにあるのだろうが、それだって誰もがどこかしらに少年のような「とまどい=羞恥心」がはたらいているから勃起してくるのであり、ただ物理的に刺激すれば勃起するというようなものではない。そのとき女にペニスを検閲されているのだし、女だってその気で口にくわえている。男は、女のそういう気配を感じることによって勃起したり、かえってダメになったりしている。なぜダメになるかといえば、そういう「とまどい=羞恥心」を生きるトレーニングをしていないからであり、それを避けて生きているからだ。
フェラチオをさせているという征服欲で勃起するなどといっても、そのよろこびは「とまどい=羞恥心」の裏返しにすぎない。



生き物の命のはたらきの根源に性衝動がはたらいているというのは、たんなる幻想にすぎない。命のはたらきは、この世界に生れてきたことの出たとこ勝負なのだ。出たとこ勝負の現象として性衝動が起きてくる。
性衝動などという源泉はない。性衝動は、この生の出たとこ勝負として生起する。意識そのものが、「生起する」はたらきなのだ。そして「生起する」とは、死んだら消えてなくなる、ということだ。ダイナミックに生起する心(衝動)とともに生きてある人は、死後の意識のはたらきなどイメージできない。
つまり、「心が生起する」という体験が希薄な人が、死後の世界をイメージする。
死後の世界があるかどうかなどわからない。それをイメージするかどうか、そのイメージに執着するかどうかという問題があるだけだ。
死後の世界があろうとなかろうと、豊かに「心が生起する」という体験をしている人は、そんな世界をイメージすることなどできない。先験的な意識(心)=霊魂などイメージできない。意識(心)はこの世界に生れてきたことの出たとこ勝負で「生起する」のであり、自分の中に先験的な意識のはたらきの源泉としての霊魂が宿っていることなどイメージできない。
生き物の性衝動は「生起する」のであって、先験的に存在するのではない。それは、この世界に生れ出てきたことの「とまどい=羞恥心」から生起する。
人間の男は、死ぬまでセックスしたがる。それは、セックスしたがる集団としての歴史を歩んできたことの無意識があって、セックスをしないと人間ではないかのような強迫観念があるのだろうし、この世に生れ出てきたことの「とまどい=羞恥心」は死ぬまで消えないということもある。
人間の年寄りは、セックスができなくなってもまだセックスをしたがる。彼らに生きてあることの「とまどい=羞恥心」は残っていても、世界や他者に対する「とまどい=羞恥心」はすっかりなくしているからやっかいだ。それをなくしたから不能になったのだ。彼らは、この世に生れ出てきた自分に対する関心だけで、世界に対する関心は、すでに死後の世界に向いている。というか、この世界のことを裁くことばかりして、とまどっても羞恥してもいない。
世界や他者に対する羞恥心を持っている年寄りは男でも女で可愛い。いや、年寄りでなくても、その「とまどい=羞恥心」が人間社会のセックスアピールになっている。
なんだか、いろいろややこしい問題がある。
人間の男はむやみにセックスをしたがる。それに対して二本の足で立ち上がって性器を隠している存在になった人間の女は、性衝動を表現するすべを失った(捨てた)。それは、性衝動を持たなくなっていった、ということである。
人間の男のペニスは猿よりも大きく硬くなってきたが、女の性器は、猿のようなあからさまな外見を持たなくなっていった。それは、性衝動が退化していったということだろう。
人間の女は、セックスをしたがるというよりも、「セックスをさせてやる」という心の動きを豊かに持つようになっていった。もともと性衝動などという本能はないのだ。原初の人類社会では、女も一緒になってやりたがったのではない。ただ、その「とまどい=羞恥心」によってやらせてやっただけであり、「したくない」という理由がなかっただけだ。
人間社会は、このような関係でセックスばかりしているという歴史を歩んできた。現代の男女がセックスばかりしたがるとすれば、それは、そのような歴史の無意識によるのだろう。現代人には、セックスをしないと人間ではないかのような強迫観念がある。それによってセックスばかりしたがっているのであって、それはべつに生き物としての本能ではない。
まあ女だって愛撫されたりペニスを挿入されれば気持ちいいのだろうが、それは自分の身体のことを忘れて相手の身体ばかり感じていることが気持ちいいのであって、べつに自分の身体が気持ちいいのではない。自分の身体のことを忘れてしまうのが気持ちいいのだ。
つまり、身体から発する衝動というようなものはない。とすればそれは、本能とはいえない。この世に生まれで出て生きていれば身体を忘れようとする衝動が募ってくる、ということの方が大事で、それが生きるいとなみになってゆく。女は、その衝動が強い。そしてその衝動は、必ずしもセックスだけには向けられるのではない。学問や芸術や子供に向けられることもある。意識がこの世界の何ものかに憑依してあるとき、みずからの身体のことは忘れている。
女は憑依する生き物らしい。霊媒師とか、セックス=女を捨てて神や霊魂に憑依してゆくことも、みずからの身体を忘れてしまう有効な方法である。
性衝動は本能ではない。生き物が生きていればときに性衝動が起きてくるような条件に置かれてしまうというだけのこと。一生セックスしない生き物などいくらでもいるし、それで気が狂うわけでもない。



なんだかとりとめもない話になって、ゴールが見えなくなってしまった。
羞恥心があるからダイナミックに勃起するということもあれば、羞恥心がないからセックスばかりやっているという場合もある。それは、羞恥心が起きてくるところまでセックスがエスカレートしてゆく、ということだろうか。はじめての相手なら、キスするだけでも満足だし、小鳥のようなおとなしいセックスでも充実感が得られる。
おたがいになれなれしくなってくるといつもと違うことがしたくなってくるし、変態行為にのめりこんでゆく人もいて、そういう人はそこまでしないと勃起しなくなっている。
羞恥心というか、とまどいというか、そういう心の状態にならないと性衝動(勃起)は起きてこない。
まあ、本能で勃起できるのなら、猿だって一年中セックスしている。
人間は歴史的な無意識としてすでにセックスをしたがる生き物になってしまっているが、うまく勃起できなくなってもまだセックスをしたがるというやっかいも抱えてしまった。
勃起という現象は、瀕死の病人にも起きるし、90歳で子供をつくった人もいる。単純に体力だけの問題ともいえない。勃起が起きるような心の動きを持っている人は、90歳になってもまだ勃起できる。
それは、「今ここ」の対象に焦点を結んでとまどい羞恥する心の動きだ。ペニスの勃起は、脳のはたらきと連動している。とまどい羞恥するとは、そのつど生まれてはじめてのこととして体験している、ということだ。「今ここ」は、そのつど「はじめて」のこととしてあらわれる。意識が、未来や世間に拡散していったら、勃起は起きない。だからそれは、基本的には秘められた密室の行為になる。
はじめてのとまどいや羞恥にたどり着くまで変態行為がエスカレートする。
羞恥心のないなれなれしい男女は、とまどい羞恥する地平にたりつこうとしてやりまくる。
セックスのバリエーションをたくさん持っていることがセックスの文化といえば、そうともいえない。
そのつどそのつどはじめてのことのようにときめいてセックスしている人もいる。そういう「羞恥心」の上に成り立っているセックスの文化もある。どんな技巧よりも、触り触られること自体にときめいてゆくことができる体験もある。とまどいと羞恥心が豊かにはたらいていれば、そういう体験ができる。
90歳になっても、まだはじめての体験としてセックスができる人もいる。
技巧や方法がエスカレートしてゆく人から順番に不能になってゆく。
あんまりセックスや女のことを知っているといわない方がいい。はじめての体験のようにとまどい羞恥していること以上に豊かにときめき、ダイナミックに勃起しているセックスなどないのだから。
記憶や経験や本能などは勃起の助けにはならない。この世に生まれてきたことの出たとこ勝負で勃起するのだ。はじめての体験のようなとまどいや羞恥にたどり着くためにあれこれ技巧を駆使しているにすぎない。そのとまどいや羞恥とともに、意識(心)は、はじめてこの生やこの世界に焦点を結んでいる。
勃起するとは、意識(心)がこの生やこの世界に焦点を結んでゆく体験である。そしてそれは、何度繰り返しても、そのつど生まれてはじめての体験なのだ。われわれの生きてある「今ここ」は、つねに生まれてはじめて出会う事態なのだ。
人は、意識(心)がこの生やこの世界に焦点を結んでゆく体験としてセックスをしたがっている。
セックスの達人はたぶん、そのつどそのつど「はじめて」のこととしてとまどい羞恥しときめいてセックスしている。
そのつどとまどい羞恥してダイナミックに勃起できるのなら、小鳥のようなセックスでもかまわないのだ。
30分あればセックスのすべては完了する……日本列島の「ちょんの間」というお手軽な売春のシステムは、そういう「文化」として現代のフーゾク産業にも引き継がれている。
セックスなんか30分ですませて、あとはぼんやりととりとめもない話をしながら二人してゆったりと眠りに堕ちてゆく、というのが昔の粋な廓遊びだったらしい。女を安心してぐっすり眠らせてやることができるのが遊び人の甲斐性だったのだとか。ひと晩借り切ったのだからやりまくらないと損だというのは野暮な話で、そんな男がもてるはずがない。娼婦だといっても、さかりのついたメスではないのである。彼女らはセックスのプロだからこそ、その気になれば30分でセックスのすべてを味わいきることができた。
生き物を生かしているのは、「意識(心)がこの生やこの世界に焦点を結んでゆく体験」である。それができるのならセックスでなくともかまわないし、セックスをしなくてもその体験をしていないと人は生きられない。
目の前のコップを見て、コップであると認識し、コップに水が入っていると認識してゆくこと、それが「焦点を結ぶ」ということである。そしてわれわれの意識(心)は、それをつねに「生まれてはじめてのこと」として体験している。「生まれてはじめてのこと」でなければ焦点を結ばないのだ。本能や記憶や知識で焦点を結ぶことなんかできない。
生きてある一瞬一瞬が、生まれてはじめての事態なのだ。
生き物には、セックスをすることがあらかじめ本能として組み込まれてあるのではない。勃起することはつねに生まれてはじめての体験であり、生き物にはすべてのことを「生まれてはじめてのこと」として体験できる本能が組み込まれてあるだけだ。
われわれが、次の瞬間に何を体験するかはあらかじめ決められてあるわけではない。すべての次の瞬間は、生まれてはじめての事態としてわれわれの前に現れる。その「とまどい=羞恥心」とともにペニスの勃起が起きてくる。そしてそれはもう、猿でも犬でも鳥でも魚でもカブトムシでも同じなのだ。
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