「かわいい」のファッションと「羞恥心」


この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥」は、心の動きだけの問題ではない。草や木だろうと、生き物の命のはたらきそのものがそのようなかたちになっている。そのようにして「生物多様性」が成り立っている。もしもすべての生き物が「生きようとする本能」とか「種族維持の本能」などというもので生きているのなら、そのような生態系にはならない。
生き物の命のはたらきそのものが、とまどい羞恥している。
セックス・衣装・言葉……これが人間であることのもっとも特徴的な要素だろうか。そしてこれらは、根源的には「生き延びる」ための機能ではなく、生き延びることを忘れて「今ここ」に意識の焦点を合わせてゆく「遊び」の要素の上に成り立っている。
だから「人間は本能が壊れている」などといわれたりもするのだが、べつに生き延びようとするのが生き物の本能であるのではない。生き延びることを忘れて「今ここ」に焦点を合わせてゆくのが生き物の本能なのだ。
生き物の本能に「生き延びようとする衝動=欲望」などというものは組み込まれていない。
人間は、生き延びることなど忘れて「今ここ」に意識の焦点を合わせてゆくという生態を色濃く持っているということにおいて、猿よりももっと本能的な存在なのだ。



衣装は、「生き延びるための道具」として生まれてきたのではない。その道具としての効用は、現代社会においてこそより切実に求められている。たとえば現代人は原始人よりもずっと寒さに弱く、ずっと熱心に衣装における「防寒」の機能を追求している。
とはいえ原始時代であれ現代であれ、人間が衣装をまとうことの根源的な理由は、身体の表面(皮膚)に疼いているこの生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」というストレスをなだめることにある。人間は身体の表面(皮膚)にそういうストレスを抱えている存在だから、人に裸を見られることが恥ずかしいのだ。そしてそういうストレスを上手に処理している衣装を「おしゃれ」という。
衣装は、根源的には「見せる」ためのものではなく、「見られている」という前提に立ってその視線を処理するためのものであり、そういうコンセプトをちゃんと持っているのが「おしゃれ」な着こなしである。そしてそれをひとまず衣装の究極のかたちだとすれば、じつはそれこそが原初の人類社会で衣装が生まれてきたことの契機でもあった。
まあかんたんにいえば、体毛を失って肌が直接環境世界にさらされてしまったことの「とまどい=羞恥心」から衣装が生まれてきたということだ。人類は「見せる」ために衣装を着たのではない。「見られている」ことの「とまどい=羞恥心」とともに衣装の歴史がはじまっている。
そして現代においても、よりおしゃれな人ほど「見られている」ことの「とまどい=羞恥心」を持っている。



衣装は「見せる」ためのものではない。「すでに見られている」ものである。
「すでに見られている」というレベルに達している着こなしを「おしゃれ」という。
見られたくなくても、すでに見られてしまっているのだ。人間は、根源においてそういう存在の仕方をしている。だから、そのストレスで体毛が抜け落ちてしまった。そうしてむき出しなった皮膚ではそのストレスに耐えることができなかったから衣装をまとうようになっていった。
人間の二本の足で立っている姿勢は、本質において「見せる」姿勢ではない。それは、不安定な上に胸・腹・性器等の急所を外にさらして攻撃されたらひとたまりもない姿勢であるのだから、そこから見せようとする衝動が生まれてくるはずがない。しかし同時に、その、前後に倒れてしまいやすい不安定な姿勢は、「見られている」という心理的な「圧力」を受けることによって安定する。
人間は、先験的な「見られている」という意識とともに存在している。二本の足で立っている存在であるかぎり、その意識はもう避けがたく付いてまわっている。「見られている」という意識から人間であることがはじまっている。だから人間は、衣装をまとう。体毛があればそれがクッションになってなんとか耐えられもするが、そのクッションを失えばもう、衣装で代用するしかない。
かつては体毛を持っている猿だったから、衣装をまとうようになった。体毛を持っていたという記憶が衣装をイメージさせた。
これは、言葉の起源の考察においても同じで、一般的には、はじめに頭の中で言葉をイメージしたから言葉が生まれてきた、と考えられているのだが、そういうことではない。思わずさまざまなニュアンスの音声を発してしまう体験が積み重なって、それが言葉として育っていっただけのこと。
同様に、衣装の起源においても、体毛を持っている過去があったからこそ衣装をイメージすることができたのだろう。つまり、体毛を失って、それが皮膚を保護するものであったことに気づいていった。そして皮膚の何を保護していたかというと、寒さとか傷をしやすいというようなことではない。「見られている」という皮膚のストレスだ。「見られている」というストレスで体毛が抜け落ちていったのだから、いちばん意識するのはそのことだろう。
人類の体毛が抜けていったのは、氷河期ではなく温暖期である。そのとき、寒さに耐える程度にはまだ体毛は残っていた。氷河期の激烈な寒さを体毛だけで生き抜いてきたのであれば、温暖期の冬なら体毛が少々後退しても大丈夫だったにちがいない。しかし皮膚にかかるストレスはより大きくなっていることを意識するほかなかった。
寒さに耐えられる範囲で、少しずつ体毛が後退していった。耐えられない個体はさっさと死んでゆくのだから、耐えられる個体ばかりの社会だったはずである。しかし寒さには耐えられても、しだいに大きくなってゆく皮膚の「見られている」というストレスには、どんどん耐えられなくなっていった。
その「見られている」というストレスに耐えられなくなっていったもうひとつのきっかけは、集団が限度を超えて大きく密集していったことにもあるのだが、とにかくその流れは加速するばかりだった。
で、その「見られている」という皮膚のストレスを保護するために衣装のようなものが工夫されていったのだが、いったん衣装をまとってしまえばもう、体毛はまったく無用のものになり、さらに後退していった。とくに北の地域では冬場にすっぽりと体を覆う衣装をまとうようになってくるから、南の地域よりももっと早く体毛が後退していったにちがいない。
そのとき人類の体毛は、いったん抜け始めると、どんどん抜けてゆくほかなかった。先験的に「見られている」というストレスを負った存在である人間は、抜け落ちれば落ちるほどストレスが大きくなっていった。
それは、生き物としては、生き延びる能力が退化してゆく現象だった。生き延びようとするならそんなことにいちいちストレスを感じていない方がいいのだが、人間にとっては生き延びようとすること自体が不自然なことだったのであり、それはもう生き物自体にとっても不自然なことなのだ。
生き物の自然な意識は、生き延びることなど忘れて「今ここ」に焦点を結んでゆく。
人間は、身体機能の退化と引き換えに人間的な文化を発展させてきた。
恐竜が大きくなりすぎて滅んでいったとしたら、身体が大きくなることは生き物としての退化の現象だろう。
ともあれ人類が先験的に「見られている」というストレスを負った存在であるのなら、体毛が抜け落ちてしまうのはもう、歴史の必然だったのかもしれない。そしてそのきっかけは、おそらく限度を超えて大きく密集した集団を持ったことにある。そういう集団の中に置かれれば、ますます「見られている」というストレスが膨らんできてしまう。
そういうストレスを引き受けながら人類は、人と人の関係の豊かな出会いのときめきを体験し、衣装や言葉の文化を発展させていった。
原始時代において、そういう大きく密集した集団をつくったことによって生じる「みられる」ことのストレスは、北の地においてより深く体験されていった。
まあ、50¬〜30万年前の北ヨーロッパネアンデルタール人が出現したことは人類史の問題なのである。今までは人類史の外の問題として扱われてきたが、遺伝子学的にも、彼らが人類そのものの存在だったことが証明されつつある。
言葉とか衣装とか埋葬とか壁画芸術とか限度を超えて大きく密集した集団をつくるとかセックスや恋愛とか旅をするとか、これらの人間的な文化の基礎はネアンデルタール人によってつくられたともいえる。



衣装の起源も、現代的な衣装の究極としてのファッションの問題も、人間存在の根源のかたちである「見られている」ということに対する「とまどい=羞恥心」の上に成り立っている。
ファンションのセンスがよくておしゃれな人はそういうことをよく心得ているし、原始人もまたそういう「とまどい=羞恥心」を豊かに体験していたから衣装を生み出したのだ。
まあ、何が高度なファッションセンスかという問題は人さまざまであり、人があふれている都会の雑踏の中で暮していれば自然に磨かれてくるという部分もあるし、単純に人格や心の動きだけでは語れないが、「見られている」ということに対する「とまどい=羞恥心」が希薄であると、見せたがりの野暮ったいファッションセンスになってしまう場合が多い。
派手好きな人には見せたがりが多いのだろうが、必ずしも誰もが野暮ったいというわけでもない。
現在の「かわいい」系のファッションには、派手な色遣いがあふれている。着物は、思い切り派手な色づかいから地味で上品なものまで、多種多様である。江戸時代の娘のじゃらじゃらした髪飾りの組み合わせも、なんだか派手で無造作で混沌としている。
西洋の色の組み合わせには基準(規範)のようなものがあるが、日本列島にはそれがなく、一見混とんとしているようでも「なりゆき」でなんとなくまとめてしまうセンスがある。そうやって「かわいい」のファッションの色づかいが成り立っている。それは、無造作のようで無造作ではない。そのあたりのセンスというか感覚は、いわく言い難いものがあるのだろう。
見せようとする自意識があれば、いろいろ計算する。しかし「かわいい」のファッションは計算しない。それは、見せようとする自意識が希薄である、ということだ。派手な色づかいをすれば見られてしまうにきまっているが、見せようとする計算はしていない。
見られてしまうのは、おしゃれすることの宿命である。しかしその混沌とした色づかいが見せようとはしていない風情をつくっている。地味で上品な色づかいで見せようとする作為を隠しているよりももっと、もっとあっけらかんとしている。
その派手な色づかいは、「見られている」という前提の上に成り立っているのであって、「見せよう」としているのではない。
「見られている」ことにとまどい羞恥しているからこそ、あっけらかんとそれを振り切ってゆく。あっけらかんと作為を振り棄ててしまうことで、「見られている」ことの「とまどい=羞恥」に耐えている。彼女らには「羞恥=とまどい」がないのではない。あるからこそ、あっけらかんとなる。
この自意識を捨てたあっけらかんとしたタッチにおいて、外国のギャルとは歴史的な蓄積の差を持っている。日本のギャルの無意識には、そういう伝統がある。
シャネルのスーツをまるでユニフォームのように着こなしているのも、「見られている」という自覚を前提として持っている女ならではの高度な洗練ではあるが、「きゃりーぱみゅぱみゅ」があっけらかんとした色づかいで遊んでいることも、それはそれで世界中の誰にでもできるということではないのだ。それは、とても原始的であると同時に、ある意味でおしゃれの究極でもある。



まあこんな言い方をすれば突拍子もないことと思われるのだろうが、日本列島の古代人が「死んだら何もない黄泉の国に行く」ということだって、天国を信じる西洋人や輪廻転生を信じるインド人からしたらそうとうあっけらかんとした死生観に違いないわけで、もしかしたらそういう伝統の上に「かわいい」のファッションセンスが成り立っているのかもしれない。
人間にとって死ぬことをどうとらえるかは、自意識の問題である。ファッションすなわち衣装をまとうということだって、自意識をどう解体するかという問題であり、解体できない人はセンスが野暮ったいし、自意識を携えて死後の世界に向かおうとする。彼らには、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」がない。
自意識を解体できない人は、死後の世界を信じるしかない。「黄泉の国に行く」などといっていられない。
古代人が「死んだら黄泉の国に行く」といっていたのは、彼らの自意識が希薄だったのではなく、自意識を解体する文化を持っていた、ということなのだ。それは、原始人のような、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」の上に成り立っていた。
原始人は、身体の皮膚のストレスが膨らんでくる自意識を解体するために衣装をまとったのであって、それによって「生き延びよう」とか「見せる」という自意識を表現しようとしたのではない。
なんにせよ、自意識を解体できなければ、そのファッションは野暮ったい。解体の契機は、「今ここ」のこの生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」にある。自意識を解体するとは、この生やこの世界にとまどいつつ「なんだろう?」と問うてゆくことである。つまり、この生やこの世界の「規範」を見失うことである。そうやって「かわいい」のファッションは、混沌とした色の組み合わせを遊んでいる。
一方、この生やこの世界の「規範」をすでに持っている自意識は、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」はないし、「なんだろう?」と問うこともない。
感じるか否かは、わかるかわからないかではない。問うているかどうか、なのだ。彼らは、この生や世界がわかっているからこそ、この生やこの世界に対する感触を失っているのだ。
この色とこの色を組み合わせたら美しい、とわかっているから「見せる」という意図を持つ。それに対して「かわいい」のファッションは、「この色とこの色の組み合わせはかわいいですか?」と問うている。当事者に「とまどい」を残している。「かわいい」とは、「とまどい=羞恥」の表現なのだ。その「かわいい」が他者に同意されるということは、「とまどい=羞恥」を共有してゆくことである。
人と人は、二本の足で立ちながら向き合い「とまどい=羞恥」を共有してゆくことによって、その危険で不安定な姿勢を安全で安定した姿勢として成り立たせている。このような原初的な関係のニュアンスこそ、「かわいい」のファッションのコンセプトなのだ。
そのあっけらかんとした色の組み合わせは、「美しい」と自覚しているのではなく、「かわいいですか?」と問うているのだ。
人間の二本の足で立つ姿勢は、「とまどい=羞恥心」を共有してゆかないと成り立たない。その「ストレス=嘆き」は、消去されることによってではなく、「共有」されることによって癒される。とまどい羞恥することが生きることなのだ。それはもう、人間としてというより生き物自体の根源的な生きてあるかたちであり、生命力とはとまどい羞恥することである。
そのあっけらかんとした色の組み合わせは、「かわいい」と確信しているわけではないが、かわいくないものを「かわいくない」と認識する美意識はひとまず担保されている。それが、「伝統」である。そして何が「かわいくない」と認識させるかといえば、やっぱりこの生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」にほかならない。
江戸時代の娘のじゃらじゃらした髪飾りにだって、この「とまどい=羞恥心」と、かわいくないものを「かわいくない」と見分けられる美意識が息づいているのであり、じゃらじゃら飾り立てていても、それは、「かわいいでしょう」と見せびらかしているのではなく、「かわいいですか?」と問うている。
現在の日本列島のギャルが他国のギャルよりもこの「かわいい」のセンスにおいて一歩リードしているとしたら、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」の伝統を持っているからであり、自意識を解体してあっけらかんと「死んだら何もない黄泉の国に行く」と合意してきた伝統でもある。
この「あっけらかん」としたタッチの底に人間として生き物としてのこの生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」を持っているのが「かわいい」のセンスである。
現代は、自意識過剰な人間が多い。自意識過剰な人間は記憶力と分析力が自慢で、その記憶の上に構築された規範(基準)によってこの生やこの世界を吟味し裁いてみせる。彼らは、そういう能力が知性であり感性だと思っている。彼らには、この生やこの世界を「なんだろう?」と問うてゆくセンスがない。つまり、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」がない。彼らにとってのこの生やこの世界は、すでに決定されていて、発見することがない。すでに決定されているものだけがこの生でありこの世界であるらしい。
それに対して自意識を解体することは、記憶もこの生やこの世界の規範(基準)も失い(捨て)、「なんだろう?」と問うてゆく「とまどい=羞恥心」である。そこから、人類史のイノベーションが起きてきた。
「黄泉の国」は、この生やこの世界を「なんだろう?」と問うてゆく意識から生まれてきた。何もないまっ暗闇の世界なら、「なんだろう?」という問いがあるばかりだろう。その「なんだろう?」という問いの上に、古代の世界観や生命観や美意識が成り立っていた。
記憶力や分析力が自慢の知ったかぶりの知性や感性よりも、自意識を解体して「なんだろう?」と問うてゆくことの方がもう一段上のレベルの知性や感性であり、それは今どきのギャルのあっけらかんとした「かわいい」の美意識でもある。その原始性こそが究極の知性や感性であると同時に、人間としての自然であり生き物としての自然でもある。
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