言葉の起源と「羞恥心」


ここでは今、人間の本能的な心の動きとしての「羞恥心」について考えている。
それは、観念的制度的な「恥の意識」とはまた別のものである。
すでに自分の中にあって後生大事に抱えている「自尊心(感情)」が揺らぐことを「恥の意識」という。
しかしここでいう「羞恥心」とは、生き物としてこの世に生れ出てきたことの「とまどい」であり、そのようにして生まれてはじめての体験として「生起する」心のことだ。
すべての生き物は、この世に生れ出てきたことにとまどっている。それはもう、草や木だってそうなのであり、そこから「棲み分け=生物多様性」が起きている。
とまどうことが命のはたらきなのだ。われわれの体がいったん入り込んだ毒素を排出することだって、「とまどう=羞恥する」というはたらきだといえるにちがいない。
そしてその「とまどい=羞恥心」から、人類の文化が生まれ育ってきた。その「とまどい=羞恥心」の豊かさこそが人間を人間たらしめている。
知能が発達したから文化が生まれてきた、などとかんたんにいってもらっては困る。文化によって知能が発達したとしても、知能が人間的な言葉や衣装などの文化を生み出したのではない。人間社会のイノベーションは新しい事態に対する「とまどい=羞恥心」から生まれてくるのであって、知能によってではない。そんなことは、当たり前ではないか。そのとき人類は、知能によって新しい事態を分析し答えを見いだしていったのではない。その新しい事態に豊かにとまどい羞恥していった結果としていろんなことを発見しながら新しい文化に生まれ育っていったのだ。
知能は、新しい事態を分析することはできても、何も発見しない。新しい事態は、分析のデータがないのだから「わからない」のである。その「わからない」ことにとまどい羞恥していったものが何かを発見するのだ。
こんなことはいいたくはないのだが、知能指数が高いだけでとまどい羞恥するという心の動きのない人間は、わからない事態に対しては、知ったかぶりして勝手な解釈をでっちあげるか、知らんぷりするか、自尊心が傷ついてパニックを起こすか、まあそういう態度になるだけで、「探求する」ということはしないというかできない。
わからない事態に対してわかったふりして手持ちのデータで分析してみせる知能よりも、「わからない」ということをそのままに「なんだろう?」ととまどい羞恥してゆく心の動きの方が、ずっと高度な知性であり感性なのだ。
人類の文化の歴史は、そういうとまどい羞恥する心とともに発展してきた。



セックスと衣装のことについて考えたのなら、言葉の起源についても考えておくべきだろうか。このことはこれまでさんざん書いてきたのだが、「とまどい=羞恥心」に焦点を当てて考えるとどうなるのだろうか。
言葉の起源においては、まず頭の中に言葉が浮かんでそれを音声として口から吐き出したという体験があったのではない。多くの歴史家は、知能が発達して頭の中に言葉が浮かんでくるようになったから言葉が生まれてきたと考えているが、そうではない。この世に言葉が存在しているから言葉が浮かんでくるのであって、言葉を知らない人間が言葉を思い浮かべることは原理的に不可能なのだ。そんなことは、当たり前じゃないか。
まず、言葉など何も知らないまま、思わず音声が口の端からこぼれ出てしまう体験があった。それはまあ、猿でも犬でも鳥でも持っている生態だが、人間の場合は、限られた音声ではなく、じつにさまざまなニュアンスの音声が口の端からこぼれ出る存在になっていった。それは、それだけさまざまな心の動きをする存在だった、ということだ。
カラスは仲間への伝達の方法として鳴き方を変えているというが、そんなことを最初からできたのではあるまい。まず、カラスなりに思わず発してしまう音声があって、それを使って伝達するようになっていっただけだろう。カラスがあのような音声を発するようになっていったのは、べつに伝達の目的があったのではない。どんな鳥だって、気がついたら鳴き声を発するようになっていただけであり、そのあとからその音声を使って伝達することを覚えていっただけのこと。伝達の目的で音声をイメージし、その音声を発していったのではない。そんなことがあるはずがない。そんなことができるのなら、今ごろスズメだってカアカアと鳴いている。その鳴き声の進化のはじめに、自分がどんな音声で鳴くことができるかなんて、わかるはずがない。鳴いてしまってから、そのような音声が出ることに気づいていったのだ。
それはもう、人間だって同じだろう。発してしまってから、そんな音声を発することができることに気づいていったのだ。
言葉の能力は、その音声を聞いてそのニュアンスを感じていったところから生まれ育ってきたのであって、その音声を頭の中でイメージしたのではない。
声帯を持っていれば、声は出る。猿だって、人間のような振幅の大きい心の動きをしていれば、人間のようなさまざまな音声を発することができるにちがいない。なぜなら人間だって、もともとは猿そのものだったのだから。
原初の人類は、さまざまな音声を発する猿だった。そのさまざまな音声が「言葉」というものになってゆくまでには、おそらく何百万年もかかっている。
最初から言葉をイメージして言葉を発したということなど、あるはずがないではないか。
たとえば、人と出会ってうれしいときはいつも「やあ」という音声が無意識のうちにこぼれ出ていたから、それがやがて挨拶の言葉になっていった。
人間は、思わずさまざまなニュアンスの音声がこぼれ出てしまうほどに、豊かで振幅の大きい心の動きをする猿だった。



生き物は、心が動いたときに、思わず口の端から音声がこぼれ出る。
音声がこぼれ出るほどに激しく心が動くのは、この生やこの世界に対する「とまどい」が起きたときだろう。驚くとかよろこぶとかときめくとか怖がるとか、なんにしてもそれは、新しい事態が生起したことに対する「とまどい」に違いない。
予期せぬ事態に対する反応として、思わず音声がこぼれ出る。
とすれば人間は、予期せぬ事態に対して心が動くという体験を豊かにしている猿だった、ということになる。
予測してその通りになるなら、驚くこともとまどうこともないのだから、べつに音声はこぼれ出ない。
人間は予測の能力(知能)が発達したから文化・文明を生みだした、などといわれるが、少なくとも言葉の起源においては、予期せぬ事態に遭遇して大きく心が動くという体験の豊かさこそがその契機になっている。
人間にとっては、生きてある「今ここ」の一瞬一瞬が予期せぬ事態であり、そういう心の動きから言葉が生まれてきた。だいたい自分が音声を発してしまうこと自体が予期せぬ事態だったのであり、予期せぬ事態だったからこそ大きく心が動いてその音声のニュアンスを豊かに感じながら言葉のレベルへと発展させていったのだ。
生き物にとってこの生は「予期せぬ事態」である。生まれてきたことがそうなら、生きてゆく一瞬一瞬もまたそうなのだ。人間は、そのことを猿よりももっと深く豊かに感じ取りながら文化・文明を発達させていったのであって、予測の能力(=知能)が発達して無感動になってゆくところから人間社会のイノベーションが起きてくることなど、論理的にありえないことだ。
いちいち予測してこの生やこの世界を予定調和のものにしてしまっている無感動な心からどうして言葉が生まれてこよう。そんなこざかしい知恵から言葉が生まれてきたのではないし、そんなこざかしい知恵よりも「予期せぬ事態」と遭遇して「なんだろう?」と問うてゆくとまどいや羞恥の方がずっと本格的な知性や感性なのだ。
生きてある「今ここ」の一瞬一瞬に豊かな驚きやときめき持っていることこそ人間性の根源であり、じつはそれこそが高度な知性や感性のほんとうのかたちなのだ。
現代人の、予測の能力とか記憶力とか分析力などというこざかしい「知能」がそんなにえらいのか。そんな能力が、人間を人間たらしめているのか。そんな能力を持ったことによって人間は人間になったのか。今どきの歴史家は、そんな問題意識でしか歴史を眺めることができないから、つまらない起源論ばかり合唱していることになる。
生き物にとって、とりわけ人間にとっての「今ここ」のこの生やこの世界の一瞬一瞬は生まれて初めて遭遇する予期せぬ事態であり、その豊かな「とまどい=羞恥心」から人間的な文化が生まれてきた。それはもう、人間が一年中発情しているようになったことも、衣装の起源も、言葉の起源も、埋葬の起源も、ネアンデルタール人が洞窟に壁画を描くようになったことも、ぜんぶそうなのだ。



吉本隆明氏の『言語にとって美とは何か』という著書の中の「たとえば原始人がはじめて海を見て<う>といったとしよう」という記述は有名だが、吉本氏は、そのとき「う」という音声が頭の中に浮かんだのだ、と考えていて、深く感動すれば頭の中に音声が浮かぶ、といいたいらしい。だから、「頭の中に言葉が浮かんでいる<沈黙>こそが言葉の本質である」というのが彼の生涯の持論になっていた。つまり、文学者はそういう「沈黙」を豊かにそなえているから文章表現をせずにいられない、といいたいのだ。
まあ文学者のそうしたナルシズムにうっとり浸っているのは彼の勝手だが、それが言葉の本質で起源だといわれると困る。
そうではない。その海の「う」は、思わず発せられた音声であって、頭の中に浮かんだのではない。
はじめて海を見たのなら、それが何かわからないのである。見ただけなら、それが水であるということすらわからない。そんな何がなんだかわからないものを生まれてはじめて見て、それを表現する言葉など浮かびようがないではないか。ただもう「何がなんだかわからない」という感慨が音声となって口の端からこぼれ出ただけなのだ。それはべつに、「海」を表現する音声=言葉だったのではない。海を見たときの「感慨」を表出する音声=言葉だった。
吉本氏は言葉の表現の名手だったのかもしれないが、このていどの思考力や想像力で言葉の本質や起源を語られても困る。
まあ、「う」という音声は、驚いたり感動したりして息が詰まるような心地になったときに口の端からこぼれ出る音声である。だからやまとことばにおいては「予期せぬ事態」に対する感動や驚きや戸惑いの表出として「う」という音声=言葉が使われてきた。つまり、この生や世界に対する「とまどい=羞恥心」の表出として「う」という音声がこぼれ出るのであり、そのことに自覚的なってゆくことに言葉が育っていった。
海(うみ)は、水平線の向こうにわからない世界を持っている。水平線の向こうは何がなんだかわからない(=予期せぬ事態)、という感慨を込めて「う」という音声がかぶせられている。
古代以前の「歌(うた)」は、即興で歌われるものだった。だからそれだって「予期せぬ事態」として体験されるものだった。「うまれる」とか「うつくし」の「う」も、生まれてはじめての「予期せぬ事態」として体験される感動をともなっているからだ。



古語としてのやまとことばは、海や水のことを「み」といった。
「み」という音声は、心がやわらかく充実していることの表出。やわらかく充実して詰まっていること。だから果物の中に詰まっているやわらかいものを「実(み)」というし、魚の肉のことも「身(み)」という。心が充実することを「身が入る」という。「みな」の「み」は、人々のたがいの親しみが集まっている状態のことを指している。「な」は、「なあ」と呼びかける音声、「親密」の語義。
「海(うみ)」の「み」だって、この地球にやわらかく充実して詰まっているもののように見えたからだろうし、海を眺めていると胸の中がやわらかく充実してくる感慨があったからだろう。「ああ、海は広いなあ」とかなんとか。おそらく語源においては、そういう感慨の表出だった。
すなわち、古代以前の人々が海のことを「み」というようになっていったのは、はじめて海を見た人間が「う」といってそれをみんなに伝えていったからではない、ということだ。
みんなして「海は広いなあ」という感慨が共有されるようになって、はじめて「海=み」として合意されていった。言葉は、誰かひとりの文学的天才が発明し創始者になってみんなに伝えていったのではない。言葉は集団の無意識としていつの間にか生まれ育ってきたのであり、だから言葉は集団ごとに違う。
少なくとも言葉の起源と発展生成に関しては、ひとりの天才よりも集団の無意識の方がえらいのだ。
ひとりの天才が時代をつくるのではない、集団の無意識によって時代が動いてゆく。
文学者なんて、感動が豊かな人種でもなんでもないのである。この生やこの世界に対して、生まれて初めて遭遇するような感動(とまどい=羞恥心)など希薄なまま、舌なめずりしながらすでに自分の中に持っている規範や記憶でこの生やこの世界を分析吟味し裁いてきただけである。それが、文学者のナルシスティックな「沈黙」の正体なのだ。
人間の感動は、音声として吐き出される。意識しないでも、自然に思わず音声として吐き出されてしまう。感度のないニヒルな文学者の頭の中に言葉がため込まれる。
頭の中に音声=言葉が浮かんだのが言葉の起源=本質ではない。



人間は、思わずさまざまな音声=言葉が口の端からこぼれ出てしまうような、豊かな心の振幅を持っている。それが、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」である。
根源的本質的には、言葉も性衝動(勃起)も、この生の現場で「生起する」ものであって、「記憶」として蓄積されてあるのではない。
心が生起し、言葉が生起し、性衝動が生起する。すべては生まれてはじめての体験として「生起する」。それが、命のはたらきの基本である。
頭の中に何でもかんでも「記憶」としてため込んでしまうと、心が生起しなくなる。そうやって人は、心を病んだりインポになったりする。
「記憶の中のものを取り出す」ことと、「思い出す」こととは違うのだ。思い出すことは、新しく心が生起する体験である。だから、「思い出す」という体験が希薄な脳は、それが起きたときにパニックを起こしたりする。そういうことを病理用語で「フラッシュバック」というらしい。
凡庸な知性は、記憶をため込む。それが吉本氏のいう「沈黙」の正味であり、それに対して高度な知性は、つねに頭の中を空っぽにしながら「思い出す」ということが豊かに起きている。すなわちそれは、思わず音声がこぼれ出ててしまうような「心が生起する」という原始的な体験でもある。
空っぽの頭でなければ、感動も発見も起きない。われわれは、今どきのギャルのあっけらかんと空っぽの心が生み出す「かわいい」の文化から学ぶことはあるのだ。
現代人の、その記憶力や分析力が、心を病んでゆく契機になっている。
たとえば、もともと記憶力が弱い人の脳において記憶力が減衰するアルツハイマーという病を患うかといえば、そうともいえないだろう。むしろ記憶力に頼って生きた人が早くからその症状を呈するという場合は多い。記憶で頭の中をいっぱいにして生きてきて、空っぽの頭が「思い出す」というという機能を失ってしまっているからだろう。まあ歳をとると、どうしてもそういう能力が衰えてゆく。
頭の中が空っぽになることがボケることではなく、空っぽにして思い出してゆくというダイナミズムを失うからボケるのだ。
若者のあっけらかんとした空っぽの頭の中に豊かな感性や知性がはたらいていることは、たぶん人類の希望なのだ。というか、本格的な知性や感性はじつはあっけらかんとした空っぽの頭の中に宿っているということを、われわれは知ってもよい。
まあ、おおむね記憶力や分析力で頭の中をいっぱいにしている人から順番にボケてゆくし、そういう人は元気なときでもその知性や感性はおおむね凡庸である。いろいろ立派な仕事をして社会的に尊敬されていても、彼らは、どうしてもそういう限界を引きずっている。まあ現代社会は、そういう凡庸な脳を使い捨てて動いているのだ。
人間の頭のはたらきのダイナミズムは、あっけらかんと空っぽになって、生きてある「今ここ」の瞬間瞬間を生まれてはじめてのこととして体験してゆくことにある。人間的な高度な知性も感性も、そこにこそある。原初の文化のイノベーションはそこから生まれてきたし、これからもきっとそうなのだ。



直立二足歩行の起源からはじまって、言葉も衣装も埋葬も洞窟の壁画表現も踊りも歌も音楽も、高度な知能を持ったひとりの天才によって生み出されたのではない。集団のみんなで生み出してきたのだ。
それは、高度な知能から生まれてきたのではない。知能は人によって違いが大きい。どんな偉大な発見発明であろうと、誰もが共有できるわけではない。しかし直立二足歩行も言葉も衣装も、みんなが共有していったのだ。
人間集団において誰もが共有できることは、知能の産物ではなく、記憶力や分析力や予測力等の知能を空っぽにしたところから「生起」してくる新しい心の動きである。それが集団の無意識となってイノベーションが起きてくる。その心の動きだけは、誰の中でも起こる。「今ここ」のこの生やこの世界に対する反応として「今ここ」で生まれてくる心、そこの部分を共有しているのが集団の無意識である。そのようにしてこの生やこの世界を生まれてはじめての体験として「なんだろう?」と問うてゆく「とまどい=羞恥心」が共有されながら、人類史の新しい文化のイノベーションが起きてきた。
言葉の起源でいうなら、猿から分かたれて誰もがさまざまなニュアンスの音声を発するようになったことである。その新しい事態を、過去の記憶を駆使して分析吟味してゆく知能によって言葉が生まれてきたのではなく、それぞれの状況において誰もが無意識のうちに同じ音声を発していることに気づいたとき、それが「言葉」として認識共有されていった。
やまとことばの「海=み」という言葉は、ひとりの天才が生み出した言葉ではない。長い歴史の時間を経て濾過されていった集団の無意識なのだ。
知能によって言葉が生まれてきたのではない。知能をそぎ落として「今ここ」のこの生やこの世界に焦点を結んでゆく原初的な意識のはたらき(=心の動き)がある。知能によってこの生やこの世界を分析吟味してゆくのではなく、生まれたばかりの子供のように「なんだろう?」と問うてゆくことこそがじつは人間の生を支えている意識のはたらき(=心の動き)であり、同時にもっとも高度な知性や感性になっている。
原初的な「なんだろう?」という問いこそ、人間の文化にイノベーションをもたらす究極の知性や感性でもある。



通俗的な言語論においては「言葉の本質的な機能は伝達することにある」という。
そうではない、言葉のほんとうの機能は、「問う」ことにある。
原初の人類が「ねえ」とか「やあ」とか「おーい」というようなニュアンスの声を掛け合っていたのは、何かの情報を伝達するためであったのではあるまい。それは、他者への「問いかけ」だった。「われわれのあいだに親密な関係は成り立っていますか?」という問いかけだったのであり、人間の二本の足で立つ姿勢はそういう関係をつくっていないと安定しないものだった。
人間とは、「問いかけ」をする猿である。原初の人類は、二本の足で立っているという不安定で攻撃されたらひとたまりもない危険な姿勢のまま正面から向き合う関係をつくっていった。そうしてたがいに、われわれは親密であるか、攻撃し合うことはないか、と問い合っていったのだ。
人間は、他者に問いかけずにいられない衝動を根源的に抱えて存在している。原初の言葉とは、そういう「問いかけ」だった。「やあ」とか「おーい」とかと声を掛け合い、たがいに親密であることやたがいに攻撃する意思のないことを確かめ合いながら二本の足で立つという不安定で危険な姿勢を維持し、猿としての限度を超えて大きく密集した集団を成り立たせてきた。
つまり言葉の根源的本質的な機能は二本の足で立つ姿勢と人間的な大きく密集した集団を成り立たせることにあり、それは「伝達(説得)する」ことではなく、「問いかける」ことにある、ということだ。
「み」という音声が「海」をあらわす言葉になってゆく初期の段階においては、誰もが「み」という音声を発しながら「これは海をあらわす言葉になりうるだろうか?」と問い合っていたのだ。
「あれは『み』だよね」
「うん、そうそう、きっと『み』だね」
そういうやりとりを交わしながら、二本の足で立つことやその大きく密集した鬱陶しい集団を成り立たせていったのだ。
「み」という音声は、胸の中がやわらかく充実してくる感慨から発声される。海を前にしてそういうたとえば「海は広いなあ」という感慨を抱く体験を共有しながら「海=み」という言葉が生まれてきた。「伝達」して共有していったのではない。問い合い頷き合って共有されていったのだ。
海を前にして「あれは『う』だよ、これからは『う』ということにしよう」と誰かがいえば、「いやその言い方はおかしい、『み』じゃないのか」とケチをつける人間が必ず現れてくる。そんなふうにして「決めて」いったのではない。誰もが「なんだろう?」ととまどいいぶかりながら、「『み』かなあ?」「そうだなあ」と問い合い頷き合いながら「海=み」になっていった。
原初の言葉は、人が人を説得し命令して生まれてきたのではない。誰もが「なんだろう?」といぶかりとまどいながら、その「感慨」を「問い」として発していったことにある。そのとき彼らが共有していたのは海に対する「感慨」であって、海のことを説明する「意味」ではない。
彼らが「み」という音声に対して意識していたのは、そういう音声がこぼれ出てくる「感慨のあや」であって、海の「意味」ではない。
海そのものの意味を表現して「み」といったのではない。あくまで海を前にして起きてくる「感慨」を意識しながら「み」という言葉を共有していったのだ。だからそれは、果物の「実(み)」のことでも魚の「身(み)」のことでもよかった。
原初の言葉は「意味」ではなく、「感慨のあや」を表出していたのであり、原始人はそのことを意識しながら言葉を育てていた。原始人が意識していたのは、その音声=言葉がまとっている「感慨のあや」であって、伝達するべき「意味」だったのではない。
空を見上げて「いい天気だなあ」というときだって、本質的には、べつに天気の「意味」を伝達しているわけではないだろう。「われわれはこのさっぱりした感慨を共有しているか?」と問うているのであり、それが言葉の根源的な機能なのだ。
何が伝達されたかではない、何が問われているかということにこそ言葉の機能の根源的なかたちがある。
現代社会においては「意味」を共有していないとうまく動かないシステムになっているが、原始人においては、「意味」よりもまず「感慨」を共有していることを確認しないと、うまく二本の足で立っていられなかったし、猿のレベル超えて大きく密集したその集団を成り立たせることができなかった。
他者の「感慨=心」はわからないし、他人が干渉して勝手につくったり決定したりすることができるものでもない。それはもう、問うて確かめてゆく以外にすべはない。
原初の言葉は、「問い」として発生し、育ってきたのだ。
根源的には、人と人は「意味」なんか共有できない。世界の見え方なんか人によって千差万別だし、それを他人がどうこうできるものでもない。
人と人が共有しているのは、二本の足で立っている猿であるということであり、すなわちこの生やこの世界を「なんだろう?」と問うてゆくことにある。
「なんだろう?」と問うてゆくことが、人間の知性や感性を発達させ、限度を超えて大きく密集した集団をいとなむことを可能にしてきた。
「なんだろう?」と問うてゆく心の動きの振幅の大きさから人間的なさまざまな音声が発せられるようになってきて、その心の動きの表出を根源的な機能としながら言葉が生まれ育ってきた。
カラスの鳴き声が「伝達」の機能を持っているといっても、ほかのカラスがそれに返事をすることはほとんどない。しかし人間の言葉は、問うて答えたり問い返したりする「会話」として発展してきた。
伝達の機能によって会話が弾むことはない。伝達し、相手が納得すればそれで終わりである。しかし人間の会話は、本質的には果てしない「問い」の交換なのだ。そのようにして人間的な言葉が発展成長してきた。
「問う」というその半永久的な運動の契機を豊かに持っていることこそ、人間的な文化を発展させてきたのだ。
なんだかまとまらない話になってしまったが、とにかく今どきの歴史家や言語学者のあいだにはびこる「言葉は伝達する機能として生まれてきた」という通俗的な合意はほんとにくだらないし、真実ではないと思う。
彼らの思考には、この生やこの世界に対する「とまどい=羞恥心」がなさすぎると思う。
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