命のはたらきとしての「羞恥心」


「羞恥心」とは、命のはたらきの根源としてのこの生やこの世界に対する「とまどい」であり、「なんだろう?」と問う心の動きである。そこから今どきのあっけらかんとしたギャルの「かわいい」という反応が生まれてくるし、それはまた本格的な学者や芸術家の探求心でもある。つまりそれは、原始的な心の動きであると同時に、現在のもっとも高度な知性や感性のかたちでもある。
人間とは、「なんだろう?」と問う猿である。その問いの豊かさが人間を人間たらしめている。
知っていることしかしゃべれないのは、貧しい知性や感性である。
今どきの老人が自分のことや知っていることを延々と語り続けるのは、問うことを失ってすでにボケはじめているのだろう。
いや老人でなくても、この生やこの世界をすでにわかっていることであるかのような「既視感」とともにあれこれもっともらしく分析してみせる思考だって、知性や感性の貧しさであり、すでにボケはじめている兆候だといえなくもない。世の中にそういうタイプの知識人は掃いて捨てるほどいるし、たとえば江原啓之や伊勢白山道のスピリチュアルの言説とか内田樹先生の倫理や道徳を物差しにして何もかもわかっているようにいいたがることだって、この生やこの世界をすべて「既視感」にしてしまう思考であるにちがいない。そうやって現代人は、どんどん思考停止に陥ってゆく。
宗教とは、この生やこの世界を「既視感」にしてしまう思考だろうか。現代は、宗教だけではなく、社会そのものが「既視感」で動く仕組みになってしまっている。いいかえれば、すべてが宗教になってしまっている。
誰もがこの生やこの世界を「既視感」で解釈してしまおうとしている。
人間は「なんだろう?」と問う生き物であり、それに付け込んで勝手な解答を与えて見得を切る人種が次から次に現れてくるのは当然のなりゆきかもしれないが、それ自体人間が永久に問い続ける存在であることの証だともいえる。
彼らは、この生や世界のすべてをすでに解決されていることにしてしまおうとする。この生のことは「霊魂」という概念で、この世界のことは「神」という概念で、すべて解決されてしまうらしい。
しかしそれでも人は、永久に問い続ける。人間性とは、「解決」することではなく、「問う」ことだからだ。彼らが「神」だの「霊魂」だの「真理」だのと繰り返し最終的な宣告をしても、それでも人は「なんだろう?」と問い続ける。



まあ究極の知性とは何かとか真理とは何かということはさておき、この世の人と人の関係の基本的なかたちは問い合うことにあり、原初の言葉はそのようにして生まれてきた。
人間なんて、つまるところ人と人の関係をちゃんとやりくりできるのなら、真理なんかわからなくてもいいのだ。それができるのなら地球が太陽のまわりをまわっていようといまいとどうでもいいのであり、と同時に問い続ける生き物だからこそ文化のイノベーションが起きてくる。
「わかる」ことではない。「問う」ことが、二本の足で立って限度を超えて大きな集団をいとなんでいる猿の「自然」である。人間の集団は、どんなに大きく密集しても、たがいの身体のあいだに問わずにいられない「すきま」を持っている。だから、大きく密集した集団をいとなむことができるし、大きく密集した集団の中で「問う」という知性や感性が育ってきた。



戦後の日本は、爆発的に人口が増えた。今どきのギャルたちは、「問い合う」ということをしないとこの大きく密集した集団の中では生きられないことを骨身にしみて知っている者たちである。彼女らのファッションは、「この服はかわいいですか?」と問うているのであって、「この服はかわいいでしょう」と見せびらかしているのではない。
彼女らは、あんがい自分のことを「かわいい」とは思っていない。だから、「かわいい」服を着ようとするし、「かわいいですか?」と問わずにいられない。
現在、「かわいい」のファッションが「ジャパンクール」として世界中に広がっているのは、人類の人口が増え過ぎたからかもしれない。これだけ大きく密集してしまえば、「共生」がどうのという以前に、「問い合う」という関係をつくっておたがいの身体のあいだの「すきま」を確認してゆかないとやっていられない。
神や霊魂や倫理や道徳や正義でこの生やこの世界をすでにわかっていることにしてしまおうとするのは、おそらく乳幼児体験として人と人の関係に関する何かを失敗しているのだろう。
人と人の関係の基礎は、「問い合う」ことであって「わかり合う」ことではない。原初の言葉は、「問う」機能として生まれてきた。まあ、問い合うということをしなければ、わかり合うということもない。
限度を超えて大きく密集した集団の中に置かれている人間という存在は、自然に「問う」ということを覚えてゆく。「問い合う」という関係をつくらなければ、この密集状態の鬱陶しさには耐えられない。
現代の日本社会の子供たちは、社会や学校や親からの監視に囲い込まれてしまっている。その鬱陶しさから逃れようとして「問い合う」という「すきま」のある関係を模索している。それが、「かわいい」のコンセプトである。「ねえ私の服、かわいい?」と問うてゆくその「羞恥心」の上に成り立っている。
それに対して、神とか霊魂という、もともとわかるはずもないことをすでにわかっていることであるかのようにいいたがる人たちがいる。その「羞恥心」のなさは、いったい何なのだろう。彼らは、神や霊魂に支配されたがっているのだろうか。
この国の子供たちを支配するシステムはタイトだ。
支配=被支配の関係には、「すきま」がない。制度に慣らされた大人たちは、その関係にもぐりこみまどろんでいるが、子供たちにとっては息苦しいばかりだ。
子供たちは、親にも学校にも社会にも支配されている。だからこそ彼らは、「問い合う」という「すきま」のある関係を模索する。たがいにくっつくまいとし、離れるまいとしながら関係をつくろうとしている。おそらくそういう状況から「かわいい」の文化が生まれてきた。



人間は、問い続ける猿である。あっけらかんとしたギャルも、高度な知性や感性を持った学者や芸術家も、そういう「人間の自然」を持っている。
えらそぶってこの生やこの世界の問題を解決したつもりになっている中途半端な大人たちばかりが、そういう「人間の自然」を失っている。
現代社会とは、人と人が「問い合う」という関係を失いつつある社会なのだろうか。人は、そういう心の動きを失ってボケてゆく。
江原啓之も伊勢白山道も内田樹も、この世の人間をボケさせるオピニオンリーダーとして機能している。まあ、今や多くの大人たちがこの生やこの世界をわかったつもりの「既視感」で生きてゆこうとしている。
人間は、「死後の世界」を知りたがる生き物である。なぜならそれは、永久にわからないことだからだ。そのわからないことを前にして「なんだろう?」と問うことが、命のはたらきの自然だからだ。
けっして答えの出ないわからないことだからこそ、「なんだろう?」と問わずにいられない。なぜなら「なんだろう?」と問うことが命のはたらきであり、永久に「なんだろう?」という問いの中に身を浸していられるからだ。
われわれはべつに、スピリチュアリストや宗教家にその答えを教えてもらいたがっているのではない。そういう「問い」すなわち「とまどい=羞恥心」が希薄なものが答えを欲しがるし、わかったつもりになって差し出したがる。
江原啓之も伊勢白山道も内田樹も、人間の自然としての「とまどい=羞恥心」が欠落している。つまり、知性としても感性としても二流三流なのだ。彼らよりも、あっけらかんと「かわいい」とときめいてゆく今どきのギャルの方が、よほど気のきいた知性や感性を持っている。
前者の言説が神や霊魂や正義や倫理などの「規範(原則)」によってこの生や世界を「既視感」のものとして規定してゆくのに対して、後者の「かわいい」のファッションは、無原則のなりゆきまかせで「なんだろう?」という問いの中に飛び込んでゆきながら、そこから「かわいい」の色やかたちを掬い上げている。つまりそうやって、この生やこの世界を、「既視感」ではない生まれてはじめての出会いとして体験しようとしている。
「かわいい」のファッションに規範や原則などはない。それは、つねに一度きりの「出会いのときめき」なのだ。



内田樹先生は、この世界を「既視感」で眺めることができないといけない、それが本当の知性だ、といっておられる。だから僕がこんなことをいって批判しても蛙のツラにションベンなのだろう。この生やこの世界を「既視感」で眺めている彼らには、この生やこの世界に対する「羞恥心」がない。この生やこの世界に対して、「とまどい」もなければ「ときめき」もない。そんな彼らが社会との良好な関係を結べば、妙にアクティブで騒々しくて自由気ままのように振舞うが、いったん失敗すれば、重度の引きこもりになったり鬱病になったりする。どちらにしても彼らは、ひといちばい「規範」に縛られている存在であり、その規範の通りに思考し行動しているという安心でわがもの顔になるし、規範に縛られて身動きできなくなってしまいもする。
つまり彼らにとってこの生もこの世界もすでにわかっているものであらねばならないのであり、そういう強迫観念で神や霊魂をイメージしてゆく。
この生やこの世界が霊魂や神によって決定されてあるのなら、もうそれ以上考える必要はない。この生やこの世界に対してとまどい羞恥しなくてすむ。というか、もともとこの生やこの世界にとまどい羞恥するという心の動きを持っていないのであり、とまどい羞恥しながら生きるということができない人たちなのだ。
この生やこの世界にとまどい羞恥してゆくだけの思考の基礎体力を持っていないのだ。
人間は、この生やこの世界にとまどい羞恥しながら「なんだろう?」と問うてゆく生き物である。そうして「死」という永久に「なんだろう?」と問い続けるほかない対象を発見した。
この生やこの世界にとまどい羞恥しながら「なんだろう?」と問うてゆくのが命のはたらきなのだ。
命のはたらきとは、問うことだ。この世に生まれてくることは「問い」の中に投げ入れられることだ。それはもう草や木の命のはたらきにおいてもそうなのであり、この世界に反応するということは、生まれてはじめての体験として「なんだろう?」と問うてゆくことである。
生き物の「生きられる反応」とは、「なんだろう?」と問うてゆくことであって、すでにわかっているものとして解釈してゆくことではない。
たとえば、体の中に入ってきた毒を毒だとわかっても、排出する契機にはならない。「反応」してとまどい苦しみもがくことによって排出される。草や木に、みずからの意思で排出する能力などない。意思そのものがあるかどうかわからない。しかし草や木だって、毒に対しては、とまどい苦しみもがくという「反応」をする。
命のはたらきとは、わけがわからずにとまどい苦しみもがくことだ。
毒を排出することはとまどい苦しみもがくことであって「これは毒である」とわかることではない。われわれの細胞のはたらきだろうと草や木だろうと、「これは毒である」とわかってなどいない。
たとえ毒であっても、体のはたらきに役だって体の進化をもたらすこともある。生き物が生きてあることは、そのつどそのつどの出たとこ勝負なのだ。神や霊魂が何をしてくれるわけでもないし、支配されているのでもない。
この世界を解釈することは、「反応」することではない。「反応」を喪失していることだ。
「探求する」とは「なんだろう?」と問いの中に分け入ってゆくことであって、神や霊魂という概念でわかってしまうことではない。この世界のすべての現象を「神のしわざだ」といってしまえば、もうそれ以上考えないですむ。考えないですむために、「神」という概念がイメージされていった。
「神」という概念は、人間を考えさせないで支配してゆくための道具であり、支配されることにまどろんでゆくための道具である。
江原啓之も伊勢白山道も内田樹も、そうやって「問うこと=考えること」をやめてしまった人たちである。神や霊魂や正義や倫理道徳を持ち出せば、とまどい苦しみもがくことをしないですむ。彼らは、もともととまどい苦しみもがくという命のはたらきが希薄な人たちであり、そういう状況に身を置くこと避けながら、あのような思想というか世界観になっていったのだろう。
目の前のその人が、どんな人かということなどわかるはずがない。「あなたはどんな人ですか?」と問い合っているのが、人と人の関係である。そうやって言葉が生まれ衣装が生まれてきたのだ。
「かわいい」のファッションには「問い」がある。現在のこの国のギャルと外国のギャルとのそのセンスの差は、この「問い」の豊かさにある。あえて「規範=既視感」を外しながら「この衣装はかわいいですか?」と問うてゆく。その「見せびらかす」こととは紙一重のところに踏みとどまって問うてゆく「羞恥心」こそ、「かわいい」のファッションの真骨頂である。見せびらかしているようでいて見せびらかしているのではない。その寸前で踏みとどまってはにかんでいる。
このようなセンスは、おそらく江原啓之にも伊勢白山道にも内田樹にもわからない。なぜなら彼らは、すでにこの生やこの世界に対する「羞恥心」を失っているからだ。
「羞恥心」がないのは、人間的に下品であるし、思考そのもののレベルが二流三流である。
彼らは、なんであんなにも「羞恥心」がないのだろう。それはたぶん、現代社会そのものの病理でもある。そしてこの論考は、それを問うて堂々巡りをしてしまっている。
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