消えてゆく・ネアンデルタール人論121

命のはたらきは、「出現」と「消滅」の反復のリズムとして起きている。それが科学的な真実であるかどうかということはともかくとして、人の無意識というか超越論的主観性においてはそのように認識している。
死んでゆくことは、命のはたらきが消えてゆくこと。
霊魂だかなんだか知らないが、原始人は、命のはたらきが何によって起きているのかと問うたのではなく、命のはたらきが消えてゆくというそのことと向き合うことによって死を意識する存在になっていったのだ。
人が霊魂として存在し、霊魂が永遠に生きてゆくのなら、「死」なんかなんの意味もないし、死を意識する必要もない。
霊魂の存在をどれほど科学的論理的に説明しても、そんなことはどうでもいい。人の意識のはたらきの超越論的主観性においてその存在が信じられているかどうかということこそが問題であり、そこにおいては霊魂など認識されていないのだ。ただもう命のはたらきの「出現」と「消滅」が起きていると認識しているだけであり、何が命のはたらきが成り立たせているかということなどは問うていない。
命のはたらきを成り立たせているものがあるとすれば、それは命のはたらきを永続させることができるのか?そんなことをいったって、命のはたらきそのものが「消滅」というアクセントがはたらかなければ成り立たないのだ。その「消えてゆく」ということこそこの生のカタルシス(浄化作用)であり、その体験がなければ人は生きられない。
その「消えてゆく」ことに憑依してゆく心の動きこそが人を人たらしめているのであって、「霊魂の永続」なんてどうでもいいのだ。
彼らのいう「霊魂の永続」よりも、命のはたらきの「消滅」こそが人にとっての「救済」であり、彼らはもう、そういう「消えてゆく」ことのカタルシス(浄化作用)に対する想像力がなさすぎるのだ。
その思想の、その思い込みの、なんと鈍くさくニヒルなことか。神や霊魂にすがっている暇があったら、あるいは自分の幸せや正当性に執着している暇があったら、自分など忘れて目の前に現れた世界や人にときめいてゆけよ、という話ではないか。
自分にもこの生にも、正当性なんか何もない。そんなものはすべて、自分のまわりの世界や他者のもとにある。
世界は輝いている。
いや、僕がそう思うというのではなく、人の超越論的主観性はそのようにはたらいている、という話だ。
意識の超越論的主観性においては、世界の意味や価値など問うていない。ただもうその出現に驚きときめいているだけだ。
霊魂という概念など、文明人のたんなる自意識の産物にすぎない。アフリカやアマゾン奥地の未開人だって、この1万年か5千年のあいだに風のように伝播してくる文明の洗礼を受けてきた文明人なのだ。人類の血と観念は、人から人に手渡されながら、いつの間にか地球の隅々まで拡散していってしまう。
霊魂が存在しようとするまいと、霊魂の存在を信じたり感じたりしているのは自意識過剰な文明人ばかりで、原始人にはそんな観念はなかった。
文明人のように、死が怖いのなら、そして「自分」という意識が消えてなくなることに耐えられないのなら、そりゃあ自分の霊魂が永遠に生き続けることにしたら安心だろう。そういうことにしておきたいのなら、いずれしんそこそうだと思い込めるようになることもあるし、それが真実だという理屈も生まれてくる。
まあ、そうやって文明社会に宗教が生まれてきたのだが、しかしそれは原始人が生み出したものではない。彼らが「原始宗教(アニミズム)=精霊信仰」を持っていたなんて、嘘だ。彼らは生き延びたいと思っていたわけではないのだから、生き延びることができる「霊魂」など発想するはずがない。原始時代の人類拡散は、より住みにくい土地、より住みにくい土地へと移住していった現象だったのであり、それはつまり、「生きられない」土地に移住していったということだ。生き延びようとするなら、そんなところへは移住してゆかない。「もう、いつ死んでもかまわない」という気持ちがなければ、そんなところに住み着いてゆくことはできない。
つまり人類は、「もう、いつ死んでもかまわない」というかたちで死を意識する存在になっていった、ということだ。とにかくその気持ちがなければ「人類拡散」は起きるはずがないのであり、そもそも人類史の最初の「二本の足で立ち上がる」ということ自体が、猿としての生き延びる能力を喪失する体験だったわけで、「もう死んでもいい」という勢いで立ち上がっていったのだ。
そういう死に対する親密な感慨とともに人類の歴史がはじまったのであり、そうやって死を意識する存在になっていったのだ。
原始人にとっての「死を意識する」ということは、「霊魂を意識する」ということだったのでは断じてない。生き延びようとして死を意識したのではない。「もう、いつ死んでもかまわない」という死に対する親密な感慨とともに人は猿から分かたれていったのだ。それは、いわば「消失願望」であり、生きものの命は「消失」を意識させるようなはたらきを持っている。「消失感覚」こそがこの生のカタルシス(浄化作用)であり、世にいう「快楽」というものの本質的なかたちにほかならない。
「快楽」が人を生かしているというか、人の心のはたらきを成り立たせている。「快楽」すなわちカタルシス(浄化作用)を失って、人の心は病んでゆく。
人類は、死を怖がって死を意識するようになっていったのではない。死に対する親密な感慨とともに死を意識していったのだ。
原始人は、死後も生き延びるらしい「霊魂」などというものは発想しなかった。「消えてゆく」ことこそ人としての根源的な快楽であり、そのようなかたちで死をイメージしていったのだ。
「生きてある」ということのなんと居心地の悪いことか。われわれは、この宇宙の長い歴史の中でつかの間生きてしまっているだけではないか。この生にどれほどの意味や価値があるというのか。どれほど生き延びることに執着しても、みんなもうすぐ死んでしまうのだ。この生のなんと軽くはかないことか。われわれは、この世に生まれ出てきたとたん、あっという間に死んでゆくのだ。
死者は愛おしい。彼らは、この生の居心地の悪さから解き放たれてあるものたちだ。原始人はそういうことに気づき、死者にひざまずくようにして「埋葬」という行為をはじめた。彼らはもともと生きてあることのいたたまれなさから解き放たれるようにして地球の隅々まで拡散していったものたちだったのであり、その歴史の果てに「埋葬」という行為をはじめたのだ。
死者の尊厳とは、生きてあることのいたたまれなさから解き放たれてあることにある。原始時代であろうと現代であろうと、そういうことに感動し涙しながら人は葬送儀礼をしているのだ。
この命もこの心も、生きてあることに執着しながら活性化してゆくのではない、生きてあることから解き放たれるようにして活性化してゆくのだ。そういうこの命のはたらきの自然やこの心のはたらきの自然を考えるなら、原始人が永遠に生き延びることができる「霊魂」などというものを発想して埋葬をはじめたということなど、論理的にありえないのだ。
人類は、生きてあることのいたたまれなさから解き放たれるように、命のはたらきの「出現」と「消滅」という森羅万象のリズムに気づいていった。原始人にとって命のはたらきが消えてゆくことは、かなしいことであると同時にめでたいことでもあった。それがネアンデルタール人によって埋葬がはじまった契機のかたちのすべてであり、それ以上でも以下でもない。
人類の二本の足で立っている姿勢は、その本質においてとても不安定な姿勢なのだ。人の命のはたらきも「自己」という意識もとても不安定なのであり、その生きてあることのいたたまれなさを基礎にしてそこから世界の輝きに気づいて心が華やぎときめいてゆくことこそ人間的な知性や感性のはたらきなのだ。これはまあ観念とか知能とか偏差値の問題ではなく、無意識というか人としての超越論的主観性の問題であるわけだが、たとえば今どきのこの国の大人たちのように、他者との関係の一体感という世界や自己の「安定・秩序」にまどろんだり、そればかり希求していると、心のはたらきも命のはたらきもどんどん停滞・衰弱してゆく。そうやって世界の輝きにときめかなくなってゆき、認知症鬱病やインポテンツになってゆく。
原始人は、そういう停滞・衰弱という「けがれ」から逃れるようにして地球の隅々まで拡散していった。
この生は、いたたまれない。この生から解き放たれる体験がなければ、人は生きられない。それは「消えてゆく」ということに憑依してゆく心の動きなのだ。人は「悲劇」を生きようとする。悲劇的な存在はみな美しい。
霊魂の永続性にすがろうなんて、その安心や幸せなど、心の停滞・衰弱以外の何ものでもない。たとえそれが科学的な真実であったとしても、人の心の自然で本質的なはたらきはそのような仕組みにはなっていない(もちろん僕自身はそれが真実だとも思っていないのだが)。
われわれの心は「消えてゆく」ことのカタルシス(浄化作用)を知っているし、人類700万年の歴史はそのカタルシス(浄化作用)とともにつくられてきた。ネアンデルタール人は、そのカタルシス(浄化作用)をもっとも深く豊かに汲み上げている人々だった。