死ねないと絶望している・「漂泊論B」23


人間は「死にたい」と願いつつ「死ねない」と絶望している存在である……これが、人類の歴史を考える上でのわれわれの前提である。このことは、どうしてもいいたい。何度でもいいたい。
猿であった原初の人類が二本の足で立ち上がったのはそういう資質を持ったということであり、そういう資質を携えてやがて地球の隅々まで拡散していったのだ。
そしてこれはたぶん、日本列島の住民の歴史的な人間観・生命観でもある。日本的な「無常」という感慨は、ここから生まれてきた。
現在のこの国で自殺者が3万人以上になっていることだって、人間の本性としての「死にたい」という願いや歴史的な「無常」という感慨のこと抜きには考えられない。
西洋人はこのことを「日本人は自分で死ぬことを名誉にしている民族だからだ」というような分析をするのだが、そういうことではない。
われわれは、西洋人ほど「自我」とか「意志力」といったものを持っている民族ではない。
「自我」とか「意志力」が希薄で、人間としての本性とか歴史的な無意識に引きずられるようにして自殺してしまうのだ。
百歩譲ってなぜ「死ぬことが名誉」になってしまうかといえば、人間の本性として「死にたい」という願いがはたらいているからだ。こういうことは、西洋人にはわかるまい。
韓国は、日本ほどには「腹切り」とかの「死ぬことが名誉」という伝統文化はないが、それでも、国民の自殺率は日本よりももっと高いのである。
であればそれを「死ぬことが名誉」の国民性のせいだとは片づけられない。
人は社会の制度性に追いつめられると人間の自然としての「死にたい」という願いに抱きすくめられてしまう、ということがある。日本人も韓国人も、そうやってみずから死を選んでいる。日本と韓国の文化や社会構造はそうとうに違うが、個人が社会の制度性に深く追いつめられてしまう、という現在の状況は何か共通しているのだろう。追いつめられ方は違っても、追いつめられることの深さは共通しているのだろう。
西洋人なんて、何も知らないでほんとにくだらない分析をしてくる。おまえらだって若いころには一度や二度は「死にたい」と思ったことがあるだろう。それは、「死ぬことが名誉」という意識か。
日本列島の住民には、西洋人ほどの「自我」や「意志力」はない。いつだって人間の自然や歴史的な無意識に引きずられて行動してしまう民族なのだ。
人間が死なないことも自然だが、自殺してしまうことも自然の範疇なのだ。
「死にたい」という自然があり、「死ねない」という自然がある。
げんみつには、みずからの意志で「死なない」のではなく、「死ねない」と絶望しているのだ。
人は、社会の制度性に追いつめられると、「死ねない」という絶望をはぎ取られ、「死にたい」という自然に抱きすくめられてしまう。
人間は、ほんらい「死にたい」と願ってしまう存在であるが、「死ねない」という絶望を衣装としてまとっている。
人間は、「死にたい」と願わずにいられないような身体の「無力性」と「受苦性」を根源において抱えながら存在している。
それでも死なないのは、「死にたい」と願いながら、そこから「自分=身体が消えてゆく」心地をカタルシスとして汲み上げながら生きているからだ。
「死にたい」という願いから生きるいとなみが生まれ、「死ねない」と絶望してゆく。
「死にたい」という願いが、人間の知性や感性や命のはたらきを活性化させ、「死ねない」という絶望をもたらす。
「死ねないという絶望」を喪失することによって人は、生きていられなくなる。
「死ねないという絶望」は、知性や感性や命のはたらきが豊かにはたらいているところにある。豊かにはたらいていれば、他者(世界)にときめくし、他者(世界)からときめかれる。そういう関係の中で人は、「死ねない」と絶望する。
他者(世界)にときめくこともときめかれることもなくなってしまえば、「死にたい」という願いだけの存在になってしまう。
あなたは他者(世界)にときめいているか。他者(世界)にときめかれているか。
他者(世界)にときめかれていることなんかわからない。しかし自分がときめいていれば、人間とは他者(世界)にときめいている存在であるということを信じることができる。
「死にたい」と願いつつ人間は、他者や世界にときめきながら「死ねない」と絶望してゆく。われわれは、そうやって生きはじめる。
もしその人が自殺すれば、まわりのものは「自分はときめかれていなかったのか」と傷つき落胆する。
他者が傷つき落胆することを思うことができるのなら、まだ他者にときめいている証拠である。そういうときめきすらもなくなって死を選んでしまう。ときめきどころか、恨みばかりになって他者を傷つけ落胆させたいのなら、死ぬことは最良の選択になる。
まあそういう恨みがなくても、自分の中にときめきが消えて他者のときめきもまた想像できなくなれば、「死にたい」という願いだけの存在になってしまう。



人間は、生まれたばかりの裸の自分になってしまえば、「死にたい」という願いはどうしても持ってしまう。
たとえば、病気をして衰弱し、人と人の生々しい関係に身を置く体力がなくなれば、「死にたい」という願いだけの存在になってしまう。「死にたい」という願いに浸されているのが、人間の根源的な生きてあるかたちなのだ。よく「病気を苦に自殺する」などというが、それは、人間の根源に遡行していった結果なのだ。
生きることなど体が勝手にしてくれている、という体力がなければ、われわれは生きていられない。
生きようとして生きている、などというのは、命の衰弱なのだ。そして、命が衰弱すれば「死にたい」と願ってしまう。人間は、から生きてあることのカタルシスを汲み上げてゆく。
この世界や他者にときめく体力があれば、生きてしまう。生きようとしないと生きていられないなんて、命の衰弱以外の何ものでもない。
人の顔を見たり話を聞いたりする体力と気力があれば、人間は生きてしまう。そういう最低限の体力と気力で生きてしまうのが人間である。
人の顔を見たり話を聞いたりして反応する知性と感性と最低限の体力があれば人間は生きてしまうのであり、そういう知性や感性の希薄なものが、「命の尊厳」とか「生き延びる」などと言い出す。
生き延びようとするスケベ根性をたぎらせないと生きていられないなんて、知性や感性や命のはたらきの鈍磨以外の何ものでもない。
これは、一般化と個別化の問題かもしれない。
共同体の制度性は、人の意識=観念を「生き延びようとして生きている」と一般化する。
それに対して個人的な身体性の意識(あるいは無意識)のはたらきにおいては、「死にたい」という願いから「身体が消えてゆく」心地のカタルシスを汲み上げながら生きている。
われわれは、この二つの位相の意識のはたらきをやりくりしながら生きている。
何もかも一般化して考えることに邁進すれば社会生活をいとなむ上でおおいに有効である。だがそうやって身体の安全・安定の上に立った観念が肥大化すれば、個人的な身体性の意識(あるいは無意識)のはたらきが鈍くなって、身体の危機にさらされたときに死ぬのが怖くなったり鬱病になったりしてしまう。
基本的に身体意識は、痛いとか痒いとか暑いとか寒いとか息苦しいとか空腹で鬱陶しいとか、身体の危機(苦痛)の上ではたらいている。
生きるいとなみとは、そういう身体の危機から身体を忘れて「身体が消えてゆく」心地をカタルシスとして汲み上げてゆく行為である。
身体が気持ちいい、などということはない。言い換えれば、身体が気持ちいいとは身体のことを忘れている状態であり、身体の物性が消えて、身体が空間の輪郭として感じられている状態である。
身体の危機=苦痛は、身体が消えてゆくことによって解消される。
人間は、身体の危機を生きている。個別化の問題としては、そういうことになる。それに対して社会の制度性は、そういう知性や感性や命のはたらきを奪う。そうして「命の尊厳」だの「生き延びる」だのというスローガンが「一般化の問題」として共有されてゆく。
それでも人間は、生き物として「身体の危機」を生きている。
自殺の問題も、たぶんそういうレベルで考えなおされてもいいのではないのだろうか。
生きることなんかつまらない、と思っている人間に「命の尊厳」を説いてもほとんど効果はない。なぜなら、生きることなんかつまらないと思うのが人間の自然だからだ。
しかもわれわれ日本人は、そういう人間の自然に抱きすくめられてしまう文化風土・歴史風土を生きている。そういう「生きることなんかつまらない」という人間の自然から「無常」という感慨が生まれてくる。
「生きることなんかつまらない」という感慨から、生きてあることの豊かなはたらきが生まれてくる。
「命の尊厳」だの「生き延びる」だのといっていたら、命のはたらきが衰弱してしまうし、知性も感性も鈍磨してゆく。
個人の身体性においては、誰だって「生きることなんかつまらない」という感慨の上に命のはたらきを紡いで生きている。



生命とは、生きる装置ではなく、死んでゆく装置なのだ。しかし、死んでゆくはたらきがそのまま生きるはたらきになってしまう。われわれは、死んでゆくかたちで生きている。そうやって心は、「死ねない」と絶望している。
人間は死に対する親密な心を持っているから、死にそうな状況に置かれることを拒まない。そうやって原初の人類は地球の隅々まで拡散していった。死にそうな状況に飛び込みながら、それでもまだ「死ねない」と絶望しているのが人間なのだ。
日本的な無常感の伝統においては、「滅びの美学」などという。滅びようとしながら滅びないのが、人間という生き物の生態である。滅びようとしたから人類は滅びなかったのであり、そんなことを繰り返しながら、いつのまにか知能などを発達させてこの地球上に君臨するようになってしまった。
生きるとは、死んでゆくいとなみである。
それでも死なないのか、そのまま死んでしまうのか、それはもうギャンブルである。
生き延びようとする欲望をたぎらせながら生きてゆくことなんかできない。
生きることは、ギャンブルだ。
生きられるかどうかではなく、死ねるかどうかのギャンブルなのだ。
「死にたい」と願ったら、その願いによって生きるはたらきが豊かに起きてしまう。
どんなに生きても、命とは死んでゆくはたらきだから、「死にたい」という願いはけっして消えない。「死にたい」という願いがなければ生きてあることができない。
「死にたい」と願いつつ「死ねない」と絶望するほかないのが生きるいとなみであり、その繰り返しの果てに疲れ果ててわれわれは死んでゆく。
生命は生きる装置ではなく死んでゆく装置であるということは、死はいまここにある、ということを意味する。
われわれの根源的な意識は、いまここで消えてゆくというかたちで死をイメージしている。そのようなかたちで「死にたい」と願っている。
しかし因果なことに、「いまここで消えてゆく」ことは生きるいとなみになってしまう。
「いまここで消えてゆく」ことは、疲れ果てたところにやってくる。「いまここで消えてゆく」ためには、疲れ果てるまで生きるしかない。
疲れ果てることが、われわれの救いである。
人間は、疲れ果てることをしたがる生き物である。それは、いまここで消えてゆこうとしているからだ。
「祭り」などまさに、疲れ果てていまここで消えてゆくことを目指してやっている行為であろう。
人間の死のイメージは、「いまここに消えてゆく」ことにある。だから「死ねない」のであり、死が「いまここに消えてゆく」ことであるかぎり、死は親密なものになる。
たとえば、溺れて死んでゆく人は、その瞬間はあまり怖くないらしい。「いまここで消えてゆく」という心地に浸されているからだろう。
自分を忘れて何かに熱中したりときめいたりしながら「いまここで消えてゆく」タッチを持っている人は疲れ果てている。疲れ果てている人は、死を怖がらない。
「死にたい」という願いを心の奥に持って生きている人は、疲れ果てている。
その人の疲れ果てている気配は、ひとつのセックスアピールである。そうやって人と人は、「死にたい」という希望と「死ねない」という絶望を共有してゆく。
僕はいま、人が死んでゆくときの作法とか、人と人の関係の本質を考えているわけで、それはまあそんなところにあるのではないだろうか。
そして、あの連中はなぜ「命の尊厳」だの「生き延びる」だのといいたがるのだろうかと考えるなら、それは、人間はなぜ「霊魂」などという概念を持ってしまったのだろうか、という問題であるような気がする。たぶん、頭の中が「霊魂」という概念に浸されてしまっているのだ。そしてこれは、原始人の問題ではなく、きわめて現代的な問題である。
僕は、原始人や縄文人が「霊魂」という概念を持っていたなんて信じない。しかしそれをいおうとすると、僕の思考は何かしらもどかしさが募って漂泊してゆくしかない。
「ない」という証明は、とてもややこしく難しい。
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