別れのかなしみ・ネアンデルタール人論135

原初の人類が二本の足で立ち上がったのは生き延びる能力を喪失する体験だったのであり、ネアンデルタール人の祖先が50万年前に原始人が生きられるはずもない氷河期の北ヨーロッパに移住していったことにしても、生き延びる能力を喪失した状態で生きるいとなみだったはずだ。
この生は、いたたまれない。
人は、その人間性の自然において、生きられなさを生きようとする衝動を持っている。人間的な知性とは、その「生きられない=わからない」という状態の中で「問い」を見出し、そこから「答え」というこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆく。それが、この生のいたたまれなさという「けがれ」そそぐ「みそぎ」というカタルシス(浄化作用)の体験になる。
この生のいたたまれなさは、人の心に、この生の外の「非日常」の世界に超出してゆく動きをもたらす。そのカタルシス(浄化作用)を汲み上げながらネアンデルタール人は、氷河期の極北の地に住み着いていた。彼らがその厳しい環境に住み着くことができたのは、それに耐えることができるだけの頑丈な体を持っていたからというより、そうやってこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆくことによってこの生のことを忘れてしまうことができたからだ。人間なんだもの、どんなに頑丈な体を持っていても彼らだってあえぎあえぎして生きていたわけで、乳幼児の半数以上はそのまま死んでいったし、ほとんどの大人は40年以上生きられなかった。
そこは、かんたんに人が死んでゆく社会だった。まあそういう「かなしみ」の歴史とともに「埋葬」という習俗が生まれてきたわけだが、死者を土の下に埋めるということは、土の下に眠っている死者をありありと想うことができた、ということを意味する。
死者の生まれ変わりを信じたとか、そんなことではない。純粋に「そこにいる」と「想う」ことができたということに意味がある。それは、死者との「別れ」を果たすための猶予期間だったのかもしれない。「かなしみ」がきわまって、すぐにはあきらめがつかなかった。どんどん人が死んでいって次々に赤ん坊を産んでゆく社会だったのであれば、「あきらめる」ということをしなければ、新しい子を産むという心の準備ができない。おそらく最初は、死んだ乳幼児をふだんの生活の場である洞窟の土の下に埋めたのがはじまりだったのだろう。土の下で骨だけになってしまうことによってその死が完結する、という認識もあったのかもしれない。骨になるまでそばに置いといてやる、ということ。そうやってひたすら想い、あきらめていった。
それはきっと、人類の知能が進化発展してきた歴史の、ひとつの大きなエポックだったに違いない。つまりそれは、「問う」ということができるようになり、問いの向こうに答えを見出すことができるようになっていった、ということだ。
少なくとも猿は、土の下に埋めた死者を想うことなんかできないだろうし、埋めようとする発想は、それまでの人類すら持つことができなかった。「問い」の向こうの「答え」に向かって超出してゆくという脳のはたらきが進化してきたから、そういう発想ができるようになっていった。
「生まれ変わり」を信じたとか「霊魂」という概念を発見したとか、そういうことではない。そんなものは、氷河期明けの文明社会の発祥とともに生まれてきた幻想にすぎない。
もっと基本的な人の知性や感性のはたらきの問題なのだ。
そこに「答え」が隠されてある、という認識。


生きものの体の中には生きものの命を支配する霊魂が棲み着いている……と発想するのは、「支配=被支配」という関係を知ってからの話で、原始社会にそんな関係はなかった。だから、ネアンデルタール人の集団は、たえず離合集散を繰り返していた。彼らは、集団を存続させるための「規範」というものを持っていなかった。それは「支配=被支配」の関係がなかったことを意味する。したがって彼らは、体や心のはたらきを支配する「霊魂」などというものは発想しなかった。自分の体や心が霊魂に支配されていると感じるのは、文明人の自意識にすぎない。幼児がしつこく「なに、なぜ?」と質問してくるのは、神や霊魂というこの世界の秩序をつくっている存在を意識していないからだ。もし意識していたら、すべて「神や霊魂のしわざだ」で説明がついてしまう。いったんそうやって納得してしまったら、もう質問しようとする衝動は起きてこない。
洞窟の土の下に隠れているのは、神でも霊魂でもなく、「死者」なのだ。そして「死者」は何も答えない。こちらから死者のもとに想いを飛躍させてゆかないといけない。
まあ文明社会の霊魂観においても、死者のもとに霊魂などは存在しない。すでに死者のもとを離れている。したがって、土の下の死者を想い死者と対話するということは成り立たない。文明人は死者の霊魂と対話する。霊魂と対話できるのなら、埋葬する必要なんか何もない。死体なんか、そのへんに捨ててくればいいだけだ。しかしネアンデルタール人は、土の下の対話することのできない死体そのものをひたすら一方的に想っていった。そうやって人類の「埋葬」という習俗が生まれてきた。
心がこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆくこと、それが「埋葬」をはじめた心模様なのだ。死者の霊魂を想ったのではない。死体そのものを想ったのだ。そこにしか「埋葬」という習俗が生まれてくる契機はない。
その苛酷な環境のもとで、ネアンデルタール人ほどこの生のいたたまれなさが骨身にしみていた人々もいない。彼らの心は、この生の外の「非日常」の世界に超出していった。そうやって土の下の死者の死は完結したかと問い、「もうあきらめるしかない」という「答え」を見出していった。
「問う」とは、心が「非日常」の世界に向いてゆくこと。人は、それほどにこの生に対するいたたまれなさを抱えてしまっている。このいたたまれなさからの「解放=カタルシス(浄化作用)」は、「非日常」の世界に超出してゆくことにある。


そのときネアンデルタール人の心は、洞窟の土の下という「非日常」の世界に超出していった。そこに死者がいるという認識。そうしてひたすら死者との別れを想いながら深く「かなしみ」に沈んでゆき、そこから心が解き放たれていった。
まあ、泣いて泣いて泣き暮れていったのだ、泣くことのカタルシス(浄化作用)というものがある。そういうことは、現代人よりも古代人や原始人のほうがずっと深く豊かに体験していた。
猿よりも弱い猿として生きられなさを生きる歴史を歩んできた人類は、いつのころからか、泣いてばかりいる存在になっていった。泣くことを覚えたことによって人は人になった、ともいえる。
たとえば古事記の神々は、じつに他愛なく泣いてばかりいる。古代社会においては、それが当たり前だったのだろう。泣くことは原始的な振る舞いだ。人間性の原点だといえるのかもしれない。原初の人類は泣く泣く二本の足で立ち上がっていった……いや、そのときはまだ猿そのものだったのだからじっさいに涙を流して泣いていたはずもないが、それは猿としての生き延びる能力と決別する体験だったわけで、そのときからすでに泣いてばかりいる存在になることが約束されていたともいえる。
泣いて泣いて泣ききることによって、いたたまれなさが「かなしみ」へと昇華されてゆく。
そしてその「かなしみ」は、死者はこの生のいたたまれなさから解き放たれた存在である、という認識をもたらした。人類の埋葬は、他者の死と和解し「あきらめる=別れる」作法として生まれてきた。
どんなに別れがつらくかなしくても、別れは、心が「非日常」の世界に超出してゆくという、ひとつの「解放=カタルシス(浄化作用)」なのだ。


人の心は、この生の外の「非日常」の世界に超出してゆく。それが人間的な知性や感性や「ときめき」であり、平和で豊かな社会の現代人のようにこの生に耽溺してしまったら、それらの心模様(=脳のはたらき)はどんどん停滞・衰弱してゆく。
また、死をこの生の延長と認識して死者の霊魂と対話してしまったら、死者との別れは永遠にやってこない。そうやって現代社会の子供に死なれた母親の心が病んでゆくという例は少なくない。そこには「別れのかなしみ」はなく、別れられないいたたまれなさばかりが荒れ狂い続けている。
ネアンデルタール人の埋葬は、死者との別れのいたたまれなさを「かなしみ」にまで昇華してゆく作法でもあった。そりゃあ、自分の産んだ子の半数以上が乳幼児の段階で死んでいったネアンデルタール人の母親が死んだ子の霊魂と対話ばかりしていたら、心がいくつあっても足りないし、すべての母親が発狂してしまっていたことだろう。
ヨーロッパの女には、「ヒステリー」というネアンデルタール人以来の伝統がある。ネアンデルタール人の女はもう、発狂寸前のいたたまれなさを抱えながら子を産み続けていた。「かなしみ」とともに死んだ子との「別れ」を果たすことができなければ、子を産み続けることなんかできなかった。
そこは、「別れのかなしみ」がこの生のいたたまれなさからの「解放=カタルシス(浄化作用)」として機能している社会だった。そうやって、たえず集団の離合集散が起きていた。
ヨーロッパは今でも集団の離合集散がたえず起きていて、かんたんに国境線が変更され、いくつもの小国に分かれたり小国どうしがくっついてひとつの国になるとか、そんなことばかり繰り返している。
まあ、「別れのかなしみ」と「出会いのときめき」が人の世の基礎になっている。
「別れのかなしみ」とともに「非日常」の世界に超出してゆき、「非日常」の世界で「出会いのときめき」を体験する。「非日常」のときめく心を持っていないと、人は生きられない。別れのつらさと和解し「かなしみ」にまで昇華することができなければ、「出会いのときめき」も体験できない。
この世の中には、「別れ」を受け入れることができる人とできない人がいるのだろうか。受け入れることができないで未練を募らせたり憎しみを抱いたり、まあいろいろとややこしい。
いずれにせよ人類の葬送儀礼は、死者との「別れ」を果たすために生まれてきたのであって、死者の霊魂と対話するためだったのではない。そんなことはたぶんあたりまえのことで、生き残るものであれ死んでゆくものであれ、誰だって死はこの世との別れだという思いがある。


ネアンデルタール人は、別れのいたたまれなさを「かなしみ」にまで昇華してゆくいとなみとして「埋葬」をはじめたし、今だってつまるところそうやって死者との「別れ」を果たすことが葬送儀礼の普遍的で本質的なコンセプトに違いない。
他者の死であれ、みずからの死であれ、人類史はどのように死と和解してきたのか。それは、「死=別れ」と親密になってゆく以外にすべはなかったし、もともと人類はそうやってこの生の外の「非日常」の世界に超出しながら二本の足で立ち上がり地球の隅々まで拡散してゆくという歴史を歩んできたのだ。
「死=別れ」と親密になってゆくことこそ人間性の自然であり、その心模様(=脳のはたらき)ともに人間的な文化を進化発展させてきた。
死者を埋葬することはこの生の向こうに隠されてあるものに対する親密な感慨を深くすることであり、人と人は、別れることによっていっそう親密な感慨が湧いてくる。ネアンデルタール人は、そうやって深くかなしみ、泣ききることによって別れを果たしていった。
猿の母親は、死んだわが子をいつまでも抱きかかえて行動していたりする。それは、わが子への愛情はあっても「別れのかなしみ」は知らない、ということだろう。
死者を土の下に埋めるということは、「死者との別れを果たす」行為なのだ。そのとき、「別れのかなしみ」と同時に、死者に対するよりいっそう親密な感慨がこみあげてくる。より親密な感慨を抱くことによって別れを果たす。
やまとことばでは、死ぬことを「隠れる」ともいう。人類は、隠れているものに対する親密な感慨とともに歴史を歩んできた。
言葉の起源にしても、思わず発したその音声に心が隠されてあることに気づいてゆく体験にあった。
人と人は、たがいの姿かたちの向こうに隠されてあるものを問い合いながら親密になってゆく。そうやって、心と心が響き合う。