人が人を想うこと・ネアンデルタール人論136

この国のネアンデルタール人学の権威は赤澤威という東大出の教授だそうで、その研究テーマとして「ネアンデルタール人の心に迫る」というようなことをさかんにおっしゃっておられるのだが、しかしそれに関してなら、このブログの半分も考えることができていない。ぜんぜんだめ。そういうお題目を掲げているだけで、ネアンデルタール人の心について考えるということが何もわかっていない。幼稚で短絡的で、話にならない、というレベルだ。
彼らは、4〜3万年前にヨーロッパにやってきたアフリカ人が先住民であるネアンデルタール人と入れ替わった、という「集団的置換説」を妄信しているのだが、その時点ですでにアウトだと思う。
どうしてそんなバカげたことが信じられるのか。状況証拠をあれこれ考えるなら、そのころヨーロッパにやってきたアフリカ人などひとりもいない。反論がある人は、どうかいってきていただきたい。東大教授だろうと、誰でも相手になって差し上げる。
考古学や遺伝子学の証拠としてこんなのがあるといっても、それは最終的な証拠ではない。そんな証拠は、これから先もどんどん書き変えられてゆく。あなたたちは、その証拠を状況証拠と照らし合わせて確かめるという手続きを何もしていない。それが状況証拠と矛盾するのなら、今後の新しい研究や発見によって書き変えられる可能性があるということだ。
たとえば、数年前までは、現代人は世界中みな純粋なホモ・サピエンスで、その遺伝子にはネアンデルタール人の遺伝子はまったく残っていないといわれていたが、最近のゲノム遺伝子の研究でそれが残っていることがわかってきた。そして、純粋なホモ・サピエンスの遺伝子の持ち主などアフリカにしかいないということだが、悪いけどそんなことくらいこのブログでは数年前から言ってきたことで、状況証拠に照らし合わせてそうとしか考えられないからだ。
アフリカにだけ純粋なホモ・サピエンスの遺伝子の持ち主がいるということは、「アフリカ人が世界中に旅してその遺伝子を広めていったわけではない」ということを意味する可能性がおおいにあるのだ。
ホモ・サピエンスの遺伝子なんか、べつにアフリカ人が旅をしていかなくても世界中に伝播してゆくことができる。集落から集落へ、人から人へ手渡されながら世界中に伝播してゆく。人間の世界は、そういう生態を持っている。そしてその速度は、集団的置換説の信者たちが考えているよりもずっと早いのだ。
ネアンデルタール人とアフリカ人の遺伝子は50万年前に分岐したといわれているのだが、それはそれまでは混じり合っていたということを意味するのだろうし、50万年前といえば人類がはじめて北ヨーロッパに住み着いていった時期であり、そのころでもアフリカの血は伝播してきていたが、そこではもうアフリカ人の血が混じってしまうと生き残れなかったということを意味する。また、極北の地の暮らしに特化した遺伝子がアフリカに伝播していってもけっきょく淘汰されてしまうほかなく、そうやって分岐していったのだろう。
そうして、暮らしの文化が進化して氷河期の寒さが一時的に緩んだ4〜3万年前にまた混じり合うことができるようになったし、アフリカではもう外部の血を遮断するほど部族ごとに孤立してゆく暮らしの文化が定着していた。そうやってネアンデルタール人ホモ・サピエンスの血が混じってクロマニヨン人になってゆき、アフリカでは純粋ホモ・サピエンスの歴史に閉じ込められていた。
部族意識を持ってしまったアフリカ人はもう、どこにも拡散してゆかなかった。そういう文化的生態的な状況証拠はいくらでもある。
また、つい最近までは、原始時代のヨーロッパの石器や装飾品の文化は4〜3万年前のクロマニヨン人の時代になって急に進歩したものになり、それ以前のネアンデルタール人の遅れた文化や知能では生み出せるはずがない、などといわれていたが、それらの文化の起源がすでにネアンデルタール人の時代にあったという考古学の証拠が新しく次々に発見され、今やもう両者の連続性で考えないとつじつまが合わないようになってきている。
今どきの人類学者たちは、人類がなぜどのように拡散していったかということも、ちゃんと考えることができていない。それは、「住みよい土地をもとめて」というような安直な論理では説明がつかない。人類は、より住みにくい土地より住みにくい土地へと拡散していったのであり、その果てにネアンデルタール人の祖先は原始人が生きられるはずもないような氷河期の北ヨーロッパに住み着いていった。
人類拡散なんて700万年前に二本の足で立ち上がった直後からすでにはじまっていたのであり、そこで拡散してゆかなかったものたち(アフリカ人)は拡散しない文化を進化発展させ、拡散していったものたちが拡散してゆくにつれて拡散のメンタリティを濃くしていったのだ。
4〜3万年前のアフリカ人がそのころもっとも色濃く拡散のメンタリティを持っていただなんて、何を薄っぺらなことをいっているのだろう。それは、今どきの幼稚な人類学フリークたちが合唱しているような、足が長いとか走るのが早いとか、そんな問題ではもちろんないし、「住みよい土地を求めて」ということでもない。
まあつまるところ、人としての「ここにはいられない」という想いにせかされて拡散していったのであり、物理的に住みにくくなったからというようなことではない。彼らはもっと住みにくいところに移住していったのだから、そんなことは理由にならない。
住みにくさは、拡散の理由にはならない。そういうときにこそ人と人は結束してけんめいに住み着いてゆこうとするわけで、だから拡散しないし、しかしだからこそ拡散していった先がたとえ住みにくい土地であっても住み着いてゆくことができた。


人類拡散は、つまるところ「人が人を想う」という問題なのだ。
人を想う心の動きが停滞・衰弱してくれば、「ここにはいられない」という気持ちになってくる。「感動」とか「ときめき」という体験ができないのなら「ここにはいられない」、つまりこの生の「けがれ」がたまってくるということ。
人の生は、食い物があるかどうかということよりも、感動やときめきがあるかどうかという問題のほうが先にあるのだ。食い物がないことは我慢できても、感動やときめきがないことには耐えられない。飢えて発狂することはなくても、感動やときめきがなくなれば心を病んでゆく。
感動やときめきがなくなるということは意識がどんどん「自分」に向いてゆくということであり、そうやって自分(=この生のいたたまれなさ)を持て余すばかりで、自分の外のことに反応したり好奇心を持ったりできなくなってゆく。
意識を「自分」から引きはがすことがこの生のいとなみの基礎になっている。感動したりときめいたりしながら引きはがすことができているなら生きられる。
人も他の生きものも、生き延びようとして生きているのではない。生きることは、生きてあることすなわち「この生=自分」を忘れてゆくいとなみであり、その「結果」が「生きる」というかたちになっている。生きることを忘れてしまわなければ生きられない。
意識の発生は、身体が世界に反応することによって起きる。青い空を見る目の視覚が「青い」という意識を発生させる。鼓膜の振動が「聞く」という意識になる。まあ、そんなようなことだ。世界に反応できなければ、心は停滞・衰弱し、病んでゆく。意識を自分から引きはがしながら世界に反応してゆく。
意識が健康にはたらいているなら、意識は自分を忘れて世界に向いている。
意識が自分に向いて生き延びようとしていたら、心は停滞・衰弱してゆく。
したがって生き延びるための食い物のことが人の生の第一義の問題になるということは論理的にありえない。
人はもう、本能的にみずからの身体が生き延びることを忘れて意識を世界に向けてゆく。
つまり、人類拡散の第一義的な契機は生き延びるための食い物の問題だったのではない、ということだ。世界や他者に感動したりときめいたりする心が行き場を失って「ここにはいられない」という気持ちになっていったからだ。
平たく言えばつまり、生活がしんどくなったというよりも、人と人の関係がよどんできて「拡散」ということが起きてきたのだ。みんながしんどければ、みんなで結束してなんとかしようとがんばってゆく。楽なものとしんどいものがいるのなら、しんどいものどうしが結束して集団を出てゆく。楽な暮らしがしたいからではない。しんどくてもかまわないからそのときめき合う関係を生きようとしたからだ。楽な暮らしがしたいのなら、楽な暮らしをしているものたちの一員になることを目指すしかない。それはもう、現代社会でも原始社会でも同じなのだ。楽な暮らしなんか、住み慣れた土地にしか存在しない。出てゆけばもっとしんどい暮らしが待っているに決まっているのだが、それでも彼らは出て行った。
たとえば、セックスに目覚めた若者の性衝動は、自然に集団の外に向いてゆく。一緒に暮らした慣れ親しんだ相手ではあまりその気になれない。現代の若者たちだって、家族の外に出て恋や友情に目覚めてゆくわけで、それと同じこと。
集団の外をうろついていてたまたま見かけた他集団の異性にときめいてそれが忘れられなくなるとか、そうやって集団の外をうろつく若者が増えてきて、そこで出会ってときめき合うという体験が重なってゆけば、それが既成の集団の外に新しい集団が生まれてくる契機になる。そうした現象の無限の繰り返しによって人類拡散が起きてきたのかもしれない。
もともと若者は、集団の外をうろつきたがる習性を持っている。彼らは、既成の集団のときめきの薄い予定調和的な関係に違和感を持っている。それではすまない豊かにときめく心模様を持っている。集団の人と人の関係が予定調和的になってくると、集団の外をうろつきまわる若者が増えてきて、それが拡散の契機になってゆく。もしかしたら人類拡散は、若者の性衝動によってもたらされたのかもしれない。まあ若者ほど、ときめき合う関係さえあれば少々の住みにくさなんかいとわない、という傾向は豊かに持っているわけだし。
すなわち「人が人を想うこと」、それが人類拡散の契機になったのではないだろうか。


現代の知識人の多くは、右翼であれ左翼であれ、マルクスの「下部構造決定論」の影響下にある。すなわち生き延びるための政治や経済の問題が人類の歴史をつくってきた、と彼らは考えている。「住みよい土地を求めて拡散していった」ということだって、まさに政治や経済の「下部構造決定論」ではないか。
「生き延びるため」とか「住みよい土地をを求めて」とか、そういう「合理性」が人を生かしているのか。そこに人間性の自然・本質があるのか。それは、疑うことのできない人間性の真実なのか。
その思考はまあ、マルクスの、というよりも近代合理主義の基本的な問題設定であるのかもしれない。マルクスヘーゲルなどの天才たちの思考が、近代合理主義の基礎になっている。そして今や、「ポストモダン」などといわれて、近代合理主義の矛盾や不自然がさまざまに指摘されるようにもなってきている。
人類は、生き延びようとする目的で地球の隅々まで拡散していったのではない。「もう死んでもいい」という勢いでどんどん住みにくい土地に住み着いていった。
人間なんか、もともとどうしようもなく「不合理」な存在なのだ。
生き延びるための食い物のことなんかそっちのけで、人を想い人にときめきながら拡散していったのだ。「下部構造決定論」で人類の歴史が動いてきたのではないし、われわれだって、人と人の関係がうまくいかなければ、働くことも生きることもできなくなってしまう。
「人を想う」ということがちゃんとできなければ、人は生きられなくなってしまう。「人を想う」ことが人を生かしている。それが「言葉」や「埋葬」や「介護」の起源や「人類拡散」などのさまざまな文化のイノベーションをもたらしたのであり、われわれのの知性や感性の基礎や命のはたらきの基礎にしても、幼児体験としてどのように人との関係を結びどのようにときめいていったかということにこそある。
「人を想う」とは、ようするに「自分」も「生き延びる」ことも忘れてこの世界の輝きにときめいてゆくということ。われわれは生き延びるための合理的な思考で生きているわけではないし、そうやって人類の歴史が動いてきたのでもない。
マルクスヘーゲルの「労働史観」なんて、ただの文明社会の「心理学」であって、人間性の真実に迫る「哲学」なんかではない。


「遊び=お祭り」のカタルシス(浄化作用)こそが人類の歴史を動かしてきたのだ。そうやって「非日常」の世界に超出してゆくことによってイノベーションが起きてきた。
人類拡散だって、どこからともなく人が集まってきて賑わいときめき合うという、ひとつの「遊び=お祭り」だった。住みよい土地を求めて集団で移住していったのではない。原始時代にそんなことは起きなかったし、それは人類の普遍的な生態ではない。集団が移住していったのではなく、そこで集団が発生したのだ。コンサートやスポーツ観戦でスタジアムに人が集まってきて集団が発生するのと同じこと、そこにこそ人の普遍的な集団性の生態がある。人は「ここにはいられない」という思いを心の底に持っている存在だから、どうしてもそういうことが起きてくる。そこは「非日常」の空間であり、「この生=日常」から逃れてきたという思いを共有しながらときめき合っている。他者の身分や人格のことなど、誰も問うていない。昔の祭りは、乞食をはじめとするたくさんの被差別民が参加して盛り上がってゆく習わしになっていた。そういう解き放たれた場に立って「ときめく」という心の動きが起こる。「ときめき」とは「非日常」の視線であり、「非日常」の視線を持たなければ人は生きられない。この生に閉じ込められたままでは息が詰まる。現代人は、「この生=日常」の「幸せ」や「充実」に耽溺しながら、知らず知らず心を病んでゆく。
人類が地球の隅々まで拡散していったという歴史は、われわれに、「ここにはいられない」という思いは手放さないほうがいい、ということを教えてくれる。生きることなんか、いやいやしょうがなくやっていればいいだけのこと。人の心の底にはそういう嘆きやかなしみが棲みついているのだし、だからこそ人は、そこから世界の輝きに深く豊かにときめいてゆく存在にもなっている。世界の輝きに対するときめきが人を生かしているのであって、生き延びようとする欲望によって人の知性や感性や行動が豊かになってゆくのでもない。
知性や感性や人にときめく心が豊かな人は、この生に幻滅している。因果なことに心はそこから華やいでゆくのであり、この世に生まれ出た赤ん坊はこの生に対する幻滅から生きはじめるのだし、原初の人類はこの生に対する幻滅とともに二本の足で立ち上がり地球の隅々まで拡散していった。
生き延びようとする欲望なんて病気なのだ。それによってこそ心は停滞・衰弱してゆく。生きることなんか素晴らしいことでもなんでもない。ただ、この世界や他者の存在が輝いているだけだ。うんざりするくらいくだらない人間がたくさんいる世の中で、自分もまた生きるに値する存在でもなんでもないのだが、それでも世界は輝いている。それでも人は「ときめく」という体験をしてしまう。空が青いというだけで、「ああ」と嘆息して、今日一日生きられたりする。気がついたら、生きてしまっている。原始人は、そうやって二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していったのだ。
自分の生の正当性というか、自分の生の意味や価値なんかに執着するなよ。そんなものはどこにもないのだ。ただもう、この世に「あなた」が存在するというそのことの輝きが「私」を生かしている。