雲になる・「漂泊論B」18

     1・「安定・秩序」に潜り込んでゆこうとする制度性
赤ん坊には、第三者を排除しようとする制度的な「自分という意識」は希薄だろう。
「制度的な」とは、お母さんとの1対1の関係ではなく、集団的な三角関係の意識である。
この社会の制度性は、三角関係の上に成り立っている。ルールを守る人間たちは、結束してルールを守らない人間を排除する。家族は、家族どうしかたまって外の第三者を排除している。
集団は、集団内で結束して、外部を排除する。
集団の結束のために第三者を排除してゆく。それによって「自分という意識」が肥大化してゆく。
そういう制度的な自意識と、人間の自然としてそなわっている自意識とはまた別のものだろう。
赤ん坊のときはお母さんにかまってもらわないと生きてあることができないが、2、3歳ころの第一反抗期になると、自分で体を動かせるようになってくるから、お母さんにかまわれることを鬱陶しがるようになってくる。そうして、お母さんとの関係の外の世界に目が向いてゆく。これが、自然ななりゆきだろう。
ところが、現代の濃密すぎる母子関係や高度な社会制度は、この成長過程を阻害して、なおも母子関係に潜り込んでその外部を排除しようとする三角関係の自意識に目覚めさせる。
そうしてこの自意識が肥大化すれば、つねに外部を排除する三角関係の中に潜り込もうとして、外部の世界や他者に対する「反応」を喪失してゆく。
外部を排除して仲間で結束してゆく関係は、安定している。まあ、この世でもっとも安定しているのは、母子関係かもしれない。
制度的な自意識は、「安定=秩序」に潜り込んでゆこうとする。
「安定=秩序」は、支配と被支配の関係によって確立される。彼らは、支配の側に立つにせよ被支配の側に立つにせよ、つねにそういう関係に潜り込んでゆこうとする。
そうして、自分自身や自分の身体も支配して生きてゆこうとする。つまり、そういう自分自身や自分の身体を支配する「霊魂」を持っている。
現代人は、「霊魂」など迷信だといいながら、じつはすっかり「霊魂」に執着してしまっている。
現代社会は「安定=秩序」を目指す。そうして多くの歴史家が、それが人間の本性だという前提で、原始人も「安定=秩序」を目指して集団をつくっていたと考えているのだが、原始人の集団には安定も秩序もなかった。それはひとつの「お祭り」の集団であり、人が集まってくるダイナミズムがあったと同時に、かんたんに解体してしまう集団でもあった。そうやって彼らは、地球の隅々まで拡散していったのだ。人間の本性が集団の「安定=秩序」を目指すことにあるのなら、人類拡散は起きていない。
原始人は、この生やこの身体やこの世界の「安定=秩序」をつくるための「霊魂」という概念を持っていなかった。


     2・身体に意識はあるか
われわれは、生き物として、身体の異変を「痛い」とか「痒い」とか「苦しい」とか「鬱陶しい」というようなかたちで意識が察知する。まあ人間はそういう意識が発達しているわけで、それが自意識の基本的なはたらきだろう。
「即自的」な意識、などともいう。
身体=自分、という意識。
意識が身体を察知するのであり、それは脳神経のはたらきの問題なのだろうが、たとえば足の痛みは足で感じるし、手の痛みは手で感じている。であれば、身体そのものが意識で、身体に人格が宿っているように感じる。
しかしそれは、ただたんに「意識は脳の<外部>ではたらいている」というだけのことかもしれない。べつに身体の痛い部位だけではない。「そこにコップがある」と思うときは、コップのところで意識がはたらいているともいえる。
意識は脳から発生するが、脳の外部のあらゆるところではたらいているように感じられる。
われわれの身体が動くとき、脳が身体を動かそうとしているのか、それとも身体自身が動こうとしているのか。
われわれはどこしらで、身体自身が動こうとしている、と感じている。それがじつは、子供や原始人のような素直な感覚だ。
足が痛ければ、足が痛がっている、と感じる。
脳から発生した意識は、脳の外部のあらゆるところではたらいていると感じられる。
意識は対象に憑依する、ということだろうか。対象に憑依して、対象のところではたらいている。
だから、身体自身が動こうとしているように感じるし、身体そのものが人格だとも思う。
べつに胸の中に「霊魂」などというものがあって、それが身体を動かそうとしているわけでもないし、脳が動かそうとしているのでもない。
脳から発生した意識は、身体に憑依して、身体自身が動こうとするかたちではたらいている。
素直に考えれば、身体自身が動こうとしているように感じる。
だから原始人は、身体が人格を持っていると思った。しかしそれは、「霊魂」が身体を動かそうと思ったのではなく、あくまで身体自身が動こうとしたと感じていた。
痛い部位は、痛い部位が痛いと感じている。「霊魂」が痛いと感じている……などと思うはずがない。
骨や肉や皮膚が「痛い」と感じている……これが、素直な原始的な感覚だろう。
そのようにして「身体が動こうとしている」と感じていた。
「自分という意識」が動かそうとするから身体が動く……などという制度的な自意識は、原始人にはなかった。そんなふうに思うためにはよほど制度的な自意識が発達しなければならないということを、現代人は自覚していない。
普通は「身体を動かそう」とは思わない。「動こう」と思うだけだ。
つまり、原始人は身体自身が動こうとしていると感じていたのに対して、現代人は「霊魂」が身体を支配して動かそうとしている、と感じている。


     3・発生し、生成し、消えてゆく生
「身体自身が動こうとする意識を持っている」というイメージが、日本的な「心身一元論=心身一如」の身体観である。誰だって素直になって考えれば、なんとなくそういうイメージになる。
日本的な身体観は、原始的普遍的な身体観でもある。
そして身体が動くことは、身体のことを忘れて身体が消えてゆく感覚である。自然としての自意識はそれを感じているのであって、動いている身体の物性を確かめているのではない。
消えている身体はもう、意識が支配できない。
身体は勝手に動いて勝手に消えてゆく。われわれはどこかしらで、身体が意識を持っている、と感じている。
自分が動こうと思うことは身体が動こうと思うことだ。スポーツのナイスプレーにせよ、主婦が手なれた包丁さばきでネギを刻んでいるときにせよ、自分がそのまま身体になっていて、自分が身体を支配して動かしているというような心身二元論の感覚にはなっていない。
心身二元論で身体を動かそうとすると、動きが鈍くさくなる。
そのとき自分という意識は身体に憑依して、身体とともに消えてゆく。それが、スムーズに体を動かしているときのカタルシスである。
人間は、そういう身体=自分が消えてゆくカタルシスがなければ生きていられないし、そういうカタルシス人間性の基礎をつくっている。
原始人は、身体が消えている心地で生きていた。というか、身体を意識させられることの鬱陶しさと、身体が消えている心地のカタルシスとの往還が彼らの生のかたちだった。
現代人だって、基本的にはそのようにしてこの生をいとなんでいる。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることの鬱陶しさ(居心地の悪さ)を引き受け、そこから歩いてゆくことによって身体が消えてゆくカタルシスを汲み上げていった。そのようにして、人類の歴史がはじまった。
原始人の生のいとなみは、身体の鬱陶しさから逃れようとするいとなみでもあった。
彼らは、現代社会のような、快適な身体の環境を持っていなかった。
人間にそんな環境が与えられたのは、近代以降のことだ。
原始人にとって、身体の鬱陶しさは身体のことを忘れてしまうことでしか克服するすべはなかったし、身体を忘れてしまう(¬=身体が消えてゆく)ことには深い快楽がともなった。
身体を忘れてしまうことが原始人の生きるいとなみだった。彼らは、身体を支配しようとするよりも、身体を忘れようとした。
現代人にしても、子供や病人などの弱いものにとっての身体は、支配するべき対象ではなく忘れてしまいたい対象にちがいない。そうして、身体を忘れてしまう感覚の上に、身体はもっとも自由にスムーズに動くのであり、人間はそこにおいてもっとも深い快楽=カタルシスを体験している。
人間の知性も感性も運動神経も、身体=自分を忘れるイノセントのもとに宿っている。
なのに現代人は、身体=自分を支配する「制度的な自意識=霊魂」に執着しながら、経済活動などの世渡りの技術ばかりうまくなってしまっている。うまくていけないということもないのだが、それだけでは、知性も感性も運動神経も、自然としての生命力もやせ細ってゆく。
身体を豊かにスムーズに動かすとは、身体を解放して、身体が動こうとすることにまかせることだろう。
同様に、自分の知性や感性が深く豊かにはたらくことは、自分を支配して自分つくることによってではなく、自分を解放することによって得られるのだろう。
知性や感性が深く豊かな人は、そういうイノセントを持っている。
現代人は、身体や自分を支配しすぎている。支配したりされたりすることの制度的なたのしみを知りすぎている。いまどきの大人たちは、そうやって「安定=秩序」に潜り込んでゆく倒錯的な愉悦ばかり欲しがっている。
しかし原始社会は「お祭り=混沌」の上に成り立っていたのであり、どこからともなく人が集まってきて集団が生まれたかと思うと、かんたんに解体してしまったりしていた。そうやって彼らは、地球の隅々まで拡散していった。
原始人には、支配と被支配の関係に対するイメージがなかった。
猿の社会は、ボスの存在や順位制によって、支配と被支配の関係の上に成り立っている。猿は、そうやって集団の「安定=秩序」をつくっている。しかし二本の足で立ち上がった原初の人類は、その関係を捨てて猿であることから分かたれていった。そうしてかんたんに集団の規模が膨れ上がってしまうと同時に、かんたんに集団が解体していった。そうやって地球の隅々まで拡散していった。
原始人にとっては、集団もみずからの身体も「解体する=消えてゆく」ものであり、集団を維持するための「霊魂」も身体を維持し支配するための「霊魂」も持っていなかった。
彼らにとっては、この生も集団も「お祭り=混沌」として成り立っているものであり、現代人のような安定した秩序とともに存続させるべきものではなかった。
彼らは、この生が発生し生成し消えてゆくものだということを身にしみて納得していた。


     4・はじめに共同体(国家)の霊魂があった
人類は、共同体(国家)を持ったことによって、この生も集団も「安定=秩序」の上に存続するべきものになり、そこから「霊魂」という概念が発想されていった。
まあ、意識とは、脳から発生する「はたらき」のことであって「物質」ではないにちがいない。したがって、「霊魂」などという物質も存在しない。ただ、意識はこの世界の何にでも「憑依」する。身体に憑依すれば身体に霊魂があると思うし、花に憑依すれば花の霊魂があると思うし、国家に憑依すれば国家に霊魂があると思うし、水道の蛇口に憑依すれば水道の蛇口に霊魂があると思う。そういう「憑依」のはたらきが「霊魂」という概念を発想させる。
霊魂などというものは、われわれの身体だけではなく、花にも雲にも国家にも水道の蛇口にも道端の石ころにもガードレールにもあるのだ。身体なんて、意識が憑依しているもののひとつにすぎない。身体に霊魂が存在するのなら、この世のすべてのものに霊魂が存在するのだ。
われわれは、身体の霊魂を演繹して花や雲に霊魂を見ているのではない。なんにでも霊魂があるように見えるから、身体にも霊魂があるように思うのだ。
われわれは、身体が消えてゆくことのカタルシスを汲み上げて生きている。身体が健康であるのなら、われわれの意識は身体のことなど忘れてこの世界ばかりに向いている。
身体に対する意識は、この世界との関係が壊れたときに起きてくる。意識にとって身体は、この世界との関係を壊すものだ。
われわれの通常の意識は、この世界と向き合っている。そうして世界との関係を失うというかたちで身体を意識させられる。
意識にとって、世界がはじめに存在し、そのあとに身体を自覚する。したがって、人はまず、雲や花に「霊魂」を見い出したのだ。あるいは、共同体(国家)の「霊魂」を最初に見出したのだ。身体の「霊魂」なんて、そのついでに見出されたものにすぎない。
共同体(国家)の霊魂を発見しなければ、身体の霊魂もイメージされることはなかった。
われわれは、避けがたく身体の霊魂を意識させられる状況のもとに置かれてしまっている。それはつまり、避けがたく共同体(国家)の霊魂を意識してしまっている、ということだ。
そして、共同体(国家)がうとましいものだから、それとの関係を失った意識が、どうしても身体の霊魂を意識してしまう。
共同体(国家)がうとましいものだから、どうしても身体の霊魂が先験的なものであるかのように思ってしまう。しかしじつはそうではない。共同体(国家)の霊魂の方が最初にイメージされていったのであり、花や雲や鳥や風の霊魂の方が最初にイメージされていたのだ。


   5・花になる、鳥になる、雲になる
花を開かせている霊魂、鳥を飛ばせている霊魂……現代人の物差しからするとそのようにイメージになるのだが、原始人はしかし、そうやって「支配」しているものなどイメージしなかった。もともと人間集団は、「支配=被支配」という関係を捨てて猿から分かたれたのだ。
原始人は「支配=被支配」の関係の愉楽など知らなかった。
原始人には、霊魂が「花を開かせている」とか「鳥を飛ばせている」という発想はなかった。
花は花自身で開こうとし、開いている。鳥は鳥自身で飛ぼうとし、飛んでいる。そして身体は身体自身で動こうとし、動いている。彼らは、そのように考えていた。花が開くための原理のようなものはあるのだろうと思っても、何ものかが花を開かせているとは思わなかった。
そして縄文人は、花が開く原理として「かみ」という言葉を見出していった。「かみ」を擬人化してイメージしていったのは、仏教伝来以後、共同体(国家)の成立以後のことである。
縄文人にとっての「かみ」は、この世界の普遍の原理のことだった。やまとことばの「かみ」という音声は、「普遍の原理」というようなニュアンスなのだ。だから、彼らの「かみ」は、姿かたちなどなく、ただ花や雲やこの身体に宿っているものだった。
縄文人は、身体の支配者としての「霊魂」ではなく、身体の「普遍の原理」としての「かみ」をイメージしていった。
意識はなんにでも憑依し、雲自身も動こうとしているように見える。しかしそれは、擬人化しているのではなく、意識が憑依して雲の意識になっているからだ。
雲は雲であって、人間ではない。でも、雲にも意識があるように見える。そのとき意識は、雲の意識になっている。
原始人は、自分が雲になることはあっても、雲を人間だと思うことはなかった。
人間である自分が消えて雲になっていれば、そりゃあカタルシス(快楽)だろう。それほどに彼らはみずからの生や身体が鬱陶しかったし、それほどに深いカタルシスを体験して生きていた。
生きてあることが鬱陶しいということは、生きてあることの深いカタルシスを体験してしまうということである。人間は、そのようにして存在している。
縄文人は、万物の身体に宿っているものを、「霊魂」ではなく「かみ」だとイメージしていった。それは、自分が花や雲になりきることのカタルシスをもたらした。共同体(国家)の「支配=被支配」の「秩序=安定」を知らなかった彼らにとって自分はひとつの「混沌」だったから、かんたんに自分が解体して(消えて)花や雲になりきることができた。
この「自分=身体」が消えるカタルシスこそ日本文化の伝統であり、花や雲になりきるイノセントな心の動きは、初期の万葉集にも色濃く表れている。
子供だって、自分を忘れておもちゃになりきっていたりする。それは、知能が未発達だからではなく、生きてあることの鬱陶しさ、すなわち身体の「無力性」と「受苦性」を深く負っている存在だからである。人間の知性や感性は、そういうところに宿っている。
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