じたばたする・「漂泊論B」17

     1・それは、現代社会の制度性にすぎない
現代人は、生きることの「目的」とか「意義」のようなものを探している。
そんなものどうでもいいじゃないかと思うのだけれど、誰もがどこかしらで知らず知らずそういう心の動き方をしている。
生きることの「目的」や「意義」を探すのがまっとうな人間の生き方だ、それが人間性の基礎である、などといいたがる知識人は多い。
それが人間性の基礎である、だなんて、思考停止なのですよ。
たしかにわれわれはそんなものを追いかける欲望を持ってしまっているのだけれど、それは、人間性の基礎(自然)でもなんでもなく、高度な社会制度の中に置かれている現代人が負わされた十字架なのだということに、どうして気づかないのだろう。それが人間であることのアドバンテージだと思っているなんて変だ。
生きることの目的や意義を求めてアメリカ大統領になるのと、その目的や意義を追いかけて泥棒や人殺しになるのと、どれほどの違いがあるのだろうか。
いずれにせよ、そんなものはただのスケベったらしい欲望にすぎない。
現代社会に生きていれば、避けがたくそうした欲望を持たされてしまう。
子供や原始人の心にそんな薄汚い欲望ははたらいていないし、この世の中には生まれたばかりの赤ん坊のようなイノセントな心を持った大人もいる。
というか、誰の中にも、生まれたばかりの赤ん坊のようなイノセントな心がある。
生きてあることの目的も意義もどうでもいいのだけれど、それでも生きてあれば、「せずにいられないこと」や「してしまうこと」は生まれてくる。
何もしないで生きていることなんか誰もできないし、生きていることしんどいことだから、苦しまぎれに何かをしてしまう。
何もしないですむような安楽な人生などというものはない。
われわれ生き物は、苦しまぎれに息をしている。息をしないですむような安楽な生などというものはない。
孔子は「小人閑居して不善をなす」といった。つまらない人間は暇を持て余すとろくなことはしない、というような意味だろう。僕は、高校生のころから、この言葉にずっと監視され追いつめられて生きてきた。
でもまあ、今となっては、「不善」をなして何が悪い、と言い返したいところだ。おまえらみたいに人生の「目的」や「意義」を追いかけて生きている人間と違って、われわれのようにしんどい思いをして生きているものは、「いまここ」の「せずにいられないこと」や「してしまうこと」がどうしても生まれてきてしまうのだ。おまえらに「不善」などといわれても知ったこっちゃない、と。
孔子なんて、ほんとにどうしようもない愚劣な俗物だと思う。
われわれが、どうしておまえみたいな愚劣な俗物に追いつめられねばならないのか。
人生の「目的」や「意義」を追いかけるなんて、愚劣な俗物のすることだ。
追いかけるべき人生の真理などというものはない。
あなたが「いまここ」に生きてあるそのかたちが真理だ。
追いかけるべき「目的」や「意義」を持たなければ人間は生きられないのではないし、生きようとする必要もない。それでもわれわれは、すでに「いまここ」に生きて存在してしまっている。
われわれは、生きて存在することを確かめようとしているのではない。すでに生きて存在してしまっていることに「反応」しながら生きて存在してしまっているのだ。
それは、確かめるべきことではなく、避けがたく思い知らされてしまうどうしようもない「事実」なのだ。
われわれは息苦しいから息をしているのであって、息をしようとする先験的な「目的」を持っているわけではないし、息をすることに「意義」を見いだしているからでもない。
息をせずにいられないかたちで生きて存在してしまっているだけなのだ。それは、われわれの「せずにいられない」ことであって、するべき「目的」でも「意義」でもない。


     2・現代社会の停滞と行きづまり
人間は生きることの「目的」や「意義」を探している存在である、という前提で原始時代を語られても困る。
いまどきの人類学者や歴史家は、みなその前提で語っている。おまえら、ほんとにどうしようもないイメージ貧困な俗物だなあ。原始人に笑われるぞ。
そういう前提で考えているから、いまどきのインテリは「未来の社会像」を語りたがるし、大人たちは子供に対して「大人になったら何になりたいか」という夢とやらを語らせようとする。そうやって未来や生きてあることの価値や意義を追いかけることがあたりまえで美しいことであるかのような世の中になってしまっている。
現代人は、「未来=目的」ばかり追いかけて、「いまここ」のこの世界や他者に「反応」してゆく感受性や思考力を失っている。「いまここ」の目の前の「事実」に対する想像力がひどく貧しくなってしまっている。
たとえば、「いまここ」の目の前の「言葉」に対して、コピペして使えるかどうかの値踏みばかりして、「反応」して感動したりそこからイメージを膨らませてゆくということができなくなってしまっている。
人に対しても同じだ。他人を値踏みするような見方ばかりしていたら、人と人の関係も表面的で薄っぺらなものになってゆくだろう。美人であるかどうか、社会的地位があるかどうか、自分の未来に役立つかどうか……等々。
内田樹先生は、自分が「生き延びる」のに役立つ相手かどうかで、友達や尊敬する相手を選んでいるのだとか。先生あなたは、そうやって人を値踏みするような眼で見てばかりいる習性がついているから、若いころはさっぱり女にもてなかったのであり、自分が思うほどには人に好かれなかったのですよ。それは、あなたが鈍くさいブ男だったからではない。
人に対して豊かに反応できる人間でなければ、人に好かれない。他人を値踏みばかりしている人間は嫌われる。先生はいま、そうやって嫌われ者として生きてきた若いころの恨みを晴らしておられるらしい。江戸の仇は神戸で、て感じ。
しかし今やもう、内田先生のように「生きることの目的や意義」を追いかけている人間ばかりの世の中になってしまっているのであり、時代の風は先生に向かって吹いているのだろう。
「生きることの目的や意義」を追いかけてばかりいるから、他人を値踏みする視線で見てしまうのだろう。値踏みばかりして「反応」する思考力も感受性もまるでない。
そういうイメージも情感も貧しい世の中になってしまっている。


     3・じたばたするに決まっている
「霊魂」が、生きることの「目的」や「意義」を追いかける。
なぜなら霊魂は永遠に生きるものだからだ。「目的」や「意義」がなければ、永遠には生きられない。「目的」や「意義」があれば、死んでも生きられる。
現代人は、そういう「霊魂=観念」を、原始人よりもはるかに強く持ってしまっている。
だから、死ぬのが怖くて、死を前にしてじたばたする。
そういう「死の恐怖」を、現代人は「霊魂の永遠」で克服しようとしている。
が、はたして克服できるのか。
死が怖いのは「霊魂の永遠」の信じ方が中途半端だからか。そりゃあ宗教者は、本気で信じ込んでいるのだろうが、本気で信じ込むことができないのも人間である。人間はもともと本気で信じ込むことができないようにできている。
原始人が死を怖がらなかったのは、「霊魂」を本気で信じていたからではなく、「霊魂」という概念など持たなかったからだ。
霊魂、すなわち生きることの「目的」や「意義」を追いかけているかぎり、「死の恐怖」を克服できるかどうかという以前に、現代人は、イメージも情感も貧しいどうしようもなくブサイクな人間になってしまっている。
けっきょく、死を前にしてじたばたするかどうかは、その人がどんな精神生活を送ってきたかどうかによって決定されている。
生きることの「目的」や「意義」を追いかけて生きてくれば、死が怖くなってじたばたするに決まっている。
死ぬことなんか遠い未来だから関係ない、とはいえないのである。あなたの「いまここ」の精神生活によって、すでにじたばたするかしないかは決定されているのだ。
しない人はしない、じたばたする人はするべくしてしている。
「霊魂の永遠」とともに「天国」や「極楽浄土」を信じれば怖がらなくてもすむ、というわけにはいかないのである。「霊魂の永遠」も「天国」や「極楽浄土」も、人間の心は信じこむことができないようにできているのである。
「いまここ」に豊かに反応し「いまここに消えてゆく」カタルシスを知っている人が、たぶんじたばたしないでもすむのだ。
「霊魂の永遠」を生きるか、それとも「いまここに消えてゆく」カタルシスを生きるか、たぶんそういう問題なのだ。
少なくとも死を怖がらなかった原始人は「いまここに消えてゆく」カタルシスを汲み上げながら生きていたし、現代社会の「この世のもっとも弱いもの」たちもそのようにして生きている。死を前にしてじたばたするかどうかは、そういう精神生活の問題なのだ。
内田樹先生がどんなに「私は死の問題を解決している、私はじたばたしない」といっても、いざとなったらきっとじたばたするのであり、それはもう決定済みのことなのだ。
おまえらも、それに右にならえするのか。すればいいさ。われわれの知ったことではない。
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