神も霊魂も知らない・ネアンデルタール人と日本人・55


あなたは、神も霊魂も知らない生を想像できるか?
体が丈夫なうちは、あれこれ作為的に生きてゆくこともできるが、死んでゆくときはもう、うまく体を動かすことができないし、未来という時間もない。その絶望のいたたまれなさを収拾するために神や霊魂や死後の世界や生まれ変わりという概念が提出される。作為性に浸されてしまった心はもう、それによってしか救出されない。
しかし原始人は、死んでゆくときのその「うまく体を動かすことができないし、未来という時間もない」という事実と和解していた。それは、神も霊魂も知らなかったからである。
神や霊魂という概念は、文明人の作為性の表徴であり、戦争ばかりするようになってきたことの心的外傷=PTSDから生まれてきた。それに、むやみに膨張した共同体(国家)という集団を持ったことによって、その中の人間関係そのものにおいて心的外傷が体験されるようにもなった。
文明人のルサンチマンが、神や霊魂という概念を生み出していった。他者に対する殺意……そういう恨みや憎しみや怒りが自分の中に渦巻いていて、他者の中にもそれがあるように感じ、その恐怖によって心的外傷が刻まれる。戦争は、避けがたく人をそういうところに追い込む。
人類は、追い詰められて神や霊魂という概念を生みだした。現代社会においても、神や霊魂の存在を信じ切っている人の多くは、そうした心的外傷(PTSD)を幼児体験や思春期体験に持っているのかもしれない。
いや、現代人のすべてがそうした心的外傷を負っているともいえる。これだけたくさんの人間が寄り集まっている集団の中に置かれ、共同体の制度によってきっちり監視されているのであれば、心的外傷を持たないはずがない。
時代や共同体に踊らされるということは、時代や共同体に追い詰められ傷を負っているのと同義であり、そうやって人は、知性や感性を鈍磨させてゆく。われわれは、見えないはずの共同体の制度や時代というものを、まるで目の前に存在するものであるかのように思い込んでしまっている。それは、目の前に存在しない神や霊魂を信じてゆくのと同じであり、文明人はそうした「ない」はずのものを「ある」と思い込んでゆく制度的な観念性を持たされてしまっている。



しかし、それでも人は、どこかしらに神も霊魂も知らない原始的な心性を携えて寄り添い合い、「出会いのときめき」や「別れのかなしみ」を汲み上げながら生きている。
死んでゆくときになれば、みずからの生の正当性なんか成り立たないのである。死んでゆくことの正当性というかその事実と和解していかなければならないのだ。その和解の方法として、神や霊魂や死後の世界や生まれ変わりといった概念が生まれてきたのだが、それは果たして和解しているといえるだろうか。そうやって生きることの正当性をどこまでも拡張しているだけである。
生きることの正当性を脅かされる体験を何度も繰り返し、そのあげくにそうした概念で正当性を確認確立してゆく。
とはいえ、命のはたらきの根源に、生きることの正当性などというものは組み込まれていない。ここのところが大事なのだ。命のはたらきはエネルギーを消費することであり、そうやって死んでゆくはたらきなのだ。人間なら誰だって「ああ疲れた」とか「死んでしまいたい」という感慨を持つ。それは、命のはたらきがそういう感慨を持たせるような仕組みになっているからだ。生きていれば、どうしてもそういう感慨を持ってしまう。そしてそこから生まれてくる世界観や生命観や行動習性もあるはずである。そこからは、神や霊魂の存在を設定しつつ無限の生を構想する、というような発想は生まれてこない。逆に「消えてなくなる」というイメージが生まれてくる。「ゼロ」という概念はそうやって発見された。べつに、この肉体が物理的に消えてなくなるということではない。ただもうわれわれは消えてなくなろうとする衝動を持っているということであり、息をしたりものを食ったりして身体の物性を忘れている状態になれば、誰だってほっとする。快楽とは、身体の物性を忘れてゆくことである。人間は、身体の物性を忘れようとする衝動を持っている。そして、おそらくそれが命のはたらきの根源のかたちなのだ。そこには、生きることの正当性も永遠の生をデザインするはたらきも組み込まれていない。
人の心のはたらきには「消えてゆこうとする衝動」が組み込まれてある。あるいは、消えてゆくことと和解してゆく心の動きがはたらいている。消えてゆくことは、快楽なのだ。
快楽を知らない鈍くさい連中が、神だの霊魂だのと吹聴しまくっていい気になっている。
消えてゆくこと、すなわちフェードアウトしてゆくこと。そこにこそ快楽の源泉がある。
死は、永遠の生を獲得することではない。「今ここ」の中に消えてゆくことだ。いやこれは、物理学や生物学の問題ではなく、少なくとも人の心はそのようなかたちで死と和解してゆくはたらきを持っている、ということだ。
人の心をねじ曲げて神だの霊魂だのと扇動してくれるな。最初からねじ曲がっている連中が、人の心をみな自分と同じにしてしまおうとしてそのように扇動してくる。
神や霊魂が存在するとかしないとか、そんな議論はどうでもいい。とにかく、人間のプリミティブな心は神も霊魂も知らないのであり、そのプリミティブ(原始的)な心の上に人間性が成り立っている。



神が存在しようとしまいと、そんなことはどうでもいい。とにかく神も霊魂も知らない心こそが、人の心の基本的なかたちなのだ。
彼らは、人を脅迫して、あなたの中にはすでに神や霊魂を思う心がある、などといってくる。共同体の制度性の中に置かれている現代人はそういう気にさせられる心的外傷をすでに負ってしまっているし、すでに心的外傷を深く負ってしまった人は、教えられなくても勝手にそういう気になってしまっている。
そしてそれでも人は、そんなものを思わない心でときめき合い、寄り添い合っている。
原始人は、神も霊魂も知らないままときめき合いながら地球の隅々まで拡散してゆき、埋葬という行為を覚えていった。これがここまで書いてきたことであり、ここから先も、できるだけ問題をシンプルにプリミティブに設定したい。
そうすると、人と人はなぜ寄り添い合うのか、という問題が浮かぶ。これは、かんたんなようでかんたんではない。厳密に考えようとするなら、雌雄の発生の問題にまでさかのぼらないといけない。
神と霊魂を信じれば寄り添うようになる、などという問題ではない。神と霊魂を知らない心で寄り添い合っているのだ。自分という意識が神や霊魂との関係につながれてしまったら、他者など必要ない。多くの人が、他者との関係に失敗して神や霊魂との関係に目覚めてゆく。
まあわれわれとしては、他者との関係に失敗して生きてきたくせにそういう問題でえらそうなことをいうな、といいたいわけですよ。
人と人が寄り添い合うという問題は、神も霊魂も知らなかった原始人に問うしかない。現代人の多くは、原始人よりも自分たちの方がそういう能力にまさっている、と思っている。
原始人には、現代人が説く「愛の思想」などというものはなかった。しかしそれは、彼らがそういう寄り添う関係をすでに身体化しており、いまさら語り合う必要もなかったからだ。
現代人は、愛を問題にしなければならないほど、愛に対する渇望=喪失感がある。それは、すでに神との関係につながれてしまっているからだ。まあ何が神かという問題もいろいろあって、現代人は、神を信じるようにいろんなものを信じてしまっている。その「信じる」という心の動きが問題だ。「信じる」というかたちで、「自分=自我」がいろんなものにつながれてしまっている。金の価値とか家族の価値とか共同体の価値とか、「自分=自我」をそういう価値につないでゆくことによって、他者との関係の失敗を収拾してゆく。
現代人は、一般的に考えられている以上に「他者との関係の失敗」という「心的外傷」が心の中に刷り込まれてあるのかもしれない。そうして「信じる」という心理体験がないと生きられないような心になってしまっている。
まあ、「信じる」というかたちで「知識」を身につけてゆかないとこの社会では生きられないわけで、「信じる」という心の動きが現代社会を成り立たせているともいえる。法律の正しさとか金の価値は、人々が丸ごと信じてしまっていることによって流通している。
好むと好まざるとにかかわらずわれわれは、「信じる」という心の動きを持たないと生きられない社会の中に置かれている。金や法律を信じることだって、神を信じているのと同じなのだ。そうやって「自分=自我」が世界(=神)につながれてしまうことによって、「この世界から置き去りにされてある」という身体の実存感覚を失ってゆく。そうして「出会いのときめき」や「別れのかなしみ」を感じなくなってゆく。
現代社会では、「出会い」も「別れ」もない「信じる」というかたちで世界につながれてあることがこの生の根拠になってしまっている。社会の構造がややこし過ぎて、原始人のような「なりゆき」まかせでは生きられない、ということだろうか。
現在は「不信の時代」なのではない。いろんなことをかんたんに信じてしまうことが病理になっている。
原始人には、「信じる」という心の動きなどなかった。「あの山の向こうには異民族がいてわれわれの集団を滅ぼそうとしている」というような思いこみ=信憑は持たなかった。見えないものは「ない」と思い定めて生きていた。だから、見えない神も霊魂も死後の世界も生まれ変わりも「ない」と思い定めていた。「未来という時間」も「ない」と思い定めていた。彼らの世界では未知の人と人が他愛なくときめき合っていたし、住みにくくて生きてゆけるかどうかわからないような土地でも平気で住み着こうとしていった。そうやって地球の隅々まで拡散していった。彼らには、「信じる」というかたちですがってゆくものなど何もなかったから、なりゆきまかせでどんな土地にも住み着いていったのだ。
神や霊魂を信じ、未来という時間を信じていたら、行き当たりばったりで拡散してゆくというようなことはしない。
「信じる」という心を持っていたら、共同体の制度を信じ合いながらたちまち大きな共同体をつくってゆくことができる。
縄文社会に三内丸山遺跡という例外を除いてほとんど大きな集落がなかったということは、彼らには集団として共有してゆくことができるような信じるものがなかった、ということを意味する。それがないと共同体はつくれない。
人類社会は、「信じる」という心を持ったことによって共同体(国家)が生まれてきた。
自我が「信じる」というかたちで世界との関係を持ってしまうと、他者との寄り添いとめき合うという関係が希薄になり、自然発生的な関係が希薄なってくる。そうして、作為的に関係をつくるようになってゆく。そうやってキリスト教の「愛の思想」が生まれてきたし、共同体をつくろうとする動きも活発になってくる。



人類は、「信じる」という心の動きを持ってしまったから、人と人が自然にときめき合い寄り添い合う関係をうまく持てなくなっていった。
寄り添い合うことは、信じ合うことではない。たがいに、自分のことなど忘れている。したがって、他者が自分のことを思っている、すなわち愛し合っているという信憑などはない。ひたすら、他者のことだけを思っている。まあ、無償の愛、ということだろうか。現代人は、そういう関係がうまくつくれないで、愛し合っているという信憑を持とうとし、それに失敗して傷ついたりしている。
原始人は、他者から愛されていることを「信じる」というようなことはしない。ただもう一方的に他者のことを思って寄り添っていった。
もともと相手の気持ちを信じるというようなことはできないことなのだ。原始人はその不可能性を受け入れることができたが、現代人は相手の気持ちを自分に向かせようとする。その作為性は、支配欲でもある。その作為性と支配欲で「信じる」ということをしている。
というか、自分で自分の心をつくってゆく。そうやって自分を支配しながら自分を信じてゆく。自分の心なんかいざとなるとどうなるかわからない、という不信感はないのだろうか。自分の心の動きに驚くということはないのだろうか。そんなはずはない。われわれは根源において、自分の心の動きを追いかけている存在なのだ。
ものを食って美味いと感じるのは、うまいと感じる心をつくっているのではなく、それを追いかけているだけである。
神を信じる気持ちが自然に生まれてくるのではない。彼らは、神を信じる気持ちをつくっているのだ。目の前に見えているわけではないのだから、自然に生まれてくるはずがない。光のシャワーを見た、などといっても、それはあくまで光のシャワーであって、神そのものではない。光のシャワーを見ることくらい、脳科学的に説明がつくことだろう。それが神だと、「信じる」気持ちを勝手につくっているだけのこと。何がなんでも信じてしまう。まあ、趣味の問題で、原始人にはそんな趣味はなかった。
そういう作為性を一切捨てて自然に生まれてくる心にまかせることが、現代人はもううまくできないし、原始人はごく普通にできていた。
「信じる」という心は、人間の自然でもなんでもない。
人間は、自然状態において何も信じていない。ただもう、目の前に見えたものの見えたかたちを受け入れているだけである。
歩いている足もとの土が「硬い」と信じているのではない。硬いかどうかなど考えないで歩いている。そのとき身体はただの「空間の輪郭」になっていて、身体の物性など意識していない。したがって土の物性も問うていない。「信じる」ということなどしていないから歩けるのだ。
われわれは、世界の一部ではない。世界に対する信憑などはない。ただ、世界が目の前に見えているという事態を受け入れているだけだ。
われわれは、生きてあることを信じているのではない。それは、信じきれないことだ。それでも生きるいとなみをしてしまっている。目の前のその「生きてしまっている」という事態を受け入れ、追いかけている。根源的には、この生を否定しようとする作為性を持っていない。意識は、生きるいとなみを追いかけているだけであって、生きるいとなみをつくっているのではない。
「信じる」というのは、とても現代的で、作為的な心の動きである。
われわれは心や体を持っていて、生きることは心や体が勝手にしていることで、「自分=自我」はそれを追いかけている。心だって、勝手に動いているのだ。というか、勝手に動いている心がある。
怒りや憎しみや恐怖だって、「自分=自我」を置き去りにして勝手に湧いてくる。しかしなぜそんな感情が湧いてくるかといえば、「信じる=思いこむ」ということをしてしまうからで、その通りにならないことに怒ったり憎んだり怖がったりするのだろう。
とにかく原始人は、そうした「信じる=思いこむ」という心の動きが希薄だった。この世に生まれてきて間もない子供だって、「信じる=思いこむ」ことができるものなどほとんどないにちがいない。だから彼らは、さかんに「何・どうして?」と問うてくる。それは、この世界から置き去りにされてあるものがけんめいに追いかけている態度である。
原始人だって、世界から置き去りにされながら、けんめいに世界を追いかけていた。そうやって他者にときめき、寄り添っていった。何も信じていないから、死んでゆく人にはせつなく寄り添っていった。神も霊魂も、信じられるものなど何もない途方に暮れた心で寄り添っていった。
置き去りにされて途方に暮れた心で生きられないのは現代的な病理で、現代社会はその病理を持たないとうまく生きてゆけない仕組みになっているだのだが、それでも死んでゆくときには誰もが置き去りにされて途方に暮れた心に浸されてしまう。



神や霊魂が存在するかどうかではない。人間には神も霊魂も知らない心がはたらいている、そのことが人間の生きてあるいとなみをどれほど深く豊かにも切実なものにもしているかということを、いまいちど問いなおしてみてもいいのではないだろうか。
神を信じる心が気高く清らかであるのか?そんなものはどうしようもない俗物根性ではないのか?
また、他者に愛されたと自慢する人も多い。しかしそんなものは勝手な思い込みで、他者が愛してくれたかどうかなど、永久にわからないことだ。それは、他者に対する関心ではない。自分に向いている心が、愛されたと信じ込む。自分を忘れてひたすら他者のことを思っていれば、自分が愛されているかどうかということなどわかりようもない。
原始人がなぜ住みにくい土地に住み着きながら拡散していったか、ネアンデルタール人がなぜ氷河期の極北の地に住み着いてゆくことができたのか……それは自分に向かう心が希薄だったからだ。自分のことなど忘れてしまわないことにはそんな厳しい環境の地に住み着いてゆくことなんかできるはずがない。
縄文学者は、縄文人は生まれ変わりを願って埋葬をした、という。しかし生まれ変わりを信じられるのなら、土の下に埋めてしまうことなどしない。どこか遠いところに置いてくるだろう。縄文人ネアンデルタール人も、今しばらく死者に寄り添っていたかったから土の下に埋めただけなのだ。
他者に寄り添っていようとする本能的な心がある。ネアンデルタール人はもう、腐ってしまう頭部の肉や皮をはぎ取ってでも、死者に寄り添っていようとした。たぶん胴体は先に埋めておいて、頭部の骸骨だけはしばらく飾って別れを惜しんだのだろう。その思いの切実さは、神や霊魂や死後の世界や生まれ変わりを信じている現代人にはたぶんわからない。
原初の言葉は、他者に「声をかける」だけの機能だったのであり、そうやって寄り添ってゆく作法として生まれ育ってきたのだ。
他者が目の前に存在するということそれ自体に対するときめきがあったのであって、他者の身体に宿っている心も霊魂も問わなかった。
いや、われわれだって、思わず声をかけるときは、他者の存在そのものにときめいている。
人間は、神も霊魂も思わない心を持っている。
人間は、根源において何も信じていない。ただもう心や体が生きるいとなみをしていることに気づいているだけだ。
信じているのではない、気づいているだけだ。信じることは、「ない」ものを「ある」と思い込むことだが、気づくことは、目の前に「ある」ものだけを「ある」と思い、目の前に「ない」ものは「ない」と思い定める直截な心の動きのことである。そういう神も霊魂も思わない心の動きがある。そういう心で人は人に寄り添ってゆくわけで、それはもう神や霊魂を信じるところの「ない」ものを「ある」と思い込む心の動きとは別の次元のことだ。
神も霊魂も知らないプリミティブ(原始的)な心で、人は人にときめき寄り添ってゆく。
神や霊魂の存在を信じる心は、目の前に存在しないものを「ある」と思って怒りや憎しみや恐怖をたぎらせてゆく。神や霊魂を信じることが人の心をどれほど病理的なものにしてしまっていることか。
また、目の前にいれば「バカなやつめ」と思いながら面倒を見てやったりもするのが人の心である。そのとき人は、神の規範のことも人の中に宿っている霊魂のことも忘れている。
人が目の前にいれば、どうしても寄り添っていってしまう。そういう心で人は、死んでゆくときには「別れのかなしみ」に浸されている。
つまり、命のはたらきは「今ここ」だけのものなのだ。「死後の世界」だの「生まれ変わり」だのともったいをつけて解説してくる人たちの心はもう、じつは見えないものに対する憎しみや怒りや恐怖でどうしようもなくゆがんでしまっていて、その心で神や霊魂を信じ込んでいるだけなのだ。
神や霊魂を信じることは、目の前にないものを「ある」と信じてゆくことである。それに対して人は目の前にないものを「ない」と思い定める心のはたらきを持っているから、目の前のその人に寄り添ってゆきもする。そうやって出会いにときめき別れにかなしんでいるのが、人間のプリミティブな心の動きではないだろうか。
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