寄り添い合う関係・ネアンデルタール人と日本人・54


ひとまず僕は、この世界が存在することの驚きや、自分がこの世界から置き去りにされてあることの途方に暮れる気持ちはあっても、この世界は誰がつくったのだろうというようなことには何の興味もないわけですよ。
この世界をつくったものがいるということにすれば、何か安心するところがあるのだろうか。
かえって気味悪くなって頭が変になりそうだと思うのだけれど、そうでもないのだろうか。
まあ、そんなことを思う連中のことなんか知ったこっちゃない、という態度でいられればそれがいちばんいいのだろうが、そんなことを声高に叫ぶ人がたくさんいて、今や誰もがどこかしらでそんな思いも持たされているのであれば、いやだなあとは思うが、知らんぷりもできない。自分だって、すでにその気にさせられているかもしれない。
人の心の中などわからない。
「自分」という意識だって、人によってずいぶん違うのだろう。もしかしたらびっくりするくらい違うのかもしれないし、あんがいたいして違わないのかも、と思うこともある。
僕はたぶん、「自分」という迷宮に分け入ってゆく能力のない人間で、自分をどのようにつくってきたかという自覚はほとんどなく、自分に引きずりまわされて生きてきただけだという思いの方が強い。
つまり「自分」をつくってゆく能力がない。「自分」を支配することができない。したがって自分をつくっている霊魂も、この世界をつくった神をイメージすることもうまくできない。そんな神や霊魂をイメージすると、とたんに落ち着かなる。
世の中には神や霊魂という概念に安らいでいる人もいれば、僕のように「そんなものを押しつけてくるなんて暴力じゃないか」と思ってしまう人間もいる。寝た子を起こさないでくれ、というか。なんだか知らないけど、そんなものを声高に叫ばれると怖い。こちらとしては、そんなふうに世間から教育されて生きてきて、死ぬ間際が近づいてきた今になって「いや、それではすまないのではないか」と思いはじめているのだから。
仏教だって、お釈迦様の手のひらだとか、そうやって支配と被支配の関係を思い描いてなにがうれしいのだろう。そんなふうに人を怖がらせるような教義をつくるのはやめてくれよと思うのは部外者で、その教義に安住している人たちがいる。
けっきょく人類が支配の装置としての「共同体(国家)」というものを持ってしまったからだろうか。そこから自分が自分を支配するという観念(自我)が肥大化してきた。そうしてうまくその観念を持てないものは、共同体から脱落してゆかねばならない。べつに物理的に脱落していなくても、精神的観念的には脱落している。
しかしじつは、誰だって共同体の制度性から脱落してしまっている部分は持っているのであり、そこでこそ生まれ育ってくる知性や感性もある。
というか、知性や感性は文明的なものではない。文明とはまあ思考停止と同義であり、知性や感性はほんらい的には原始的な心の動きなのだ。
原始的に思考したり感じたりすることの贅沢というのもある。シンプルな思考や感性、というのだろうか。神や霊魂などというややこしいフィルターを通さず、物事をありのままに見てゆくということ。ありのままにみたら「なんだろう?」という疑問が湧いてくるだけだが、この「なんだろう?」という状態に立って思考することを回避して、知識や経験を駆使しながら無理やりわかったことにしてしまう。それはもう、神や霊魂という概念でこの世界やこの生をわかったことにしてしまうのと同じで、文明人はそういう観念の動きの習性を持ってしまっている。



文明社会の神や霊魂という概念は、人間からシンプルに思考する習性を奪った。彼らは、あれこれの知識を駆使しながら物事をややこしくしてわかった気になっているのだが、そこから新しい疑問がわいてこないということは用心した方がいい。それはもう神やお釈迦様の手のひらの中で完結してしまっているということだ。
この世に完結してしまう問題など存在しないのに、完結させてしまうのが神とか霊魂とか文明という観念制度である。
まあ、ややこしくしておけば完結しているような体裁になっている、ということだろうか。ややこしくすればするほど、すべてを包含しているような体裁になる。それに対して数学者は、たったひとつの単純な数式にそれをまとめてしまう。世の中にはそれを「神のつくった数式だ」という人もいて、けっきょく人間はシンプルに思考したいのだな、ということがわかる。
神や霊魂や知識や経験などというよけいなものを通さずに物事をありのままに見ること、ほんとうは誰の中にもそうした原始的な知性や感性が息づいている。死の間際になると、そうした原始性に浸されてしまう。死の間際になると神や霊魂という概念にすがりながら、それでも一方で神も霊魂も知らない原始性に浸されてしまう。
神や霊魂という概念を信じ切ってしまえば死ぬことなんか怖くないし、この世界との「別れのかなしみ」もない。そうやってかんたんに自殺を敢行してゆく。
人間なんてもともと死にたい死にたいと思いながら生きている存在である。それでもこの世界との「別れのかなしみ」がどこかに息づいていて死ねなくなっている。
「別れのかなしみ」は、神も霊魂も知らない心のもとで息づいている。神や霊魂や死後の世界や生まれ変わりを信じきってしまったら、かなしむ必要なんかないし、さっさと死んでゆくことだってできる。
あなたは、この世界との「別れのかなしみ」を振り切ることができるか?振り切りたかったから、神や霊魂の存在を丸ごと信じきることだ。そうすれば、かんたんに振り切ってしまうことができる。
まあ、何のかのといっても、この世に自殺してゆく人がたくさんいるということは、神や霊魂や死後の世界や生まれ変わりを声高に叫ぶ人がたくさんいてそういう合意を社会に定着させてしまっているからだ。
人類が神だの霊魂だのという概念を持ってしまったことこそ、この世に自殺が存在することの元凶なのだ。
とはいえ自殺の原因にもいろいろあって、特攻隊の兵士のようにしたいわけでもないのにしなければならない場に立たされてしまう人もたくさんいるのだろうが、まるで宗教者の殉教のように面白がって死んでゆく人もいる。神や霊魂を信じきってしまえば、そういうことができる。
人類が神や霊魂という概念を持ってしまったというのはどういうことだろうか……?これは、神や霊魂が存在するかどうかということよりも、もっと大きな問題だ。われわれは今そのことを考えているのであって、神や霊魂が存在するかどうかということなんかどうでもいいことで、われわれの知ったことではない。
そして、神や霊魂を無邪気に信じきっているのが原始人の本性だというような思考は、ほんとに愚劣だと思う。われわれは、そんなことをいう世界中の人類学者に対して「おまえらほんとに頭悪すぎるよ」といいたくなってしまう。2ちゃんねるでは、こういうことを…【君はъака】\_(・ω・`)ココ重要!…と記すのだとか。まあ、そういうことだ。



「思考」とは、問題に寄り添ってゆくことであって、問題を支配することではない。この世界をつくった神という概念を信じてしまっているから、神にならって問題を支配しようとする。そうしてけっきょくは、程度の低い思考しかできない。
人と人の「関係」は、伝達したり説得したりして支配し合っているのではなく、ただもう寄り添い合っているだけだ。伝達したり説得したりしようとする欲望の強い人間ほど、人にときめきときめかれる関係を持つことができていない。
やっぱりねえ、「寄り添う」というタッチを上手に品よく持っている人は魅力的ですよ。それを「文化」というのだろうか。それはもう、人と人の関係にも思考の態度にもあらわれる。そういうタッチを多くの現代人が失っている。伊勢白山道や江原啓之内田樹のような人間が次々にあらわれてうるさいことをいってくるし、それにころりとしてやられる善男善女がたくさんいる。
それでも、人の心には、神や霊魂を知らない部分がある。われわれはその部分を問いたいし、そこにこそ人間が普遍的にそなえている原始性が息づいている。
一流の学者や芸術家は、原始人なのである。
そうしてわれわれ凡人は、神や霊魂を信じる文明制度の観念に冒されてしまって、思考も感受性もままならなくなってしまっている。そしてそれでも誰もが、神も霊魂も知らない心をどこかに疼かせ、寄り添い合うという関係をつくっている。
人間なら誰だって、神も霊魂も知らない途方に暮れた思いがどこかで疼いている。その思いを携え、人と人が寄り添い合っている。
その途方に暮れた思いでいることができなくなって、神や霊魂という概念にすがる。まあ本人は、すがっているなどとは思っていない。自然に頭の中に浮かんできたことだし、それがほんとうに存在するからそうなったのだ、と思っている。
それはまあそれでけっこうなのだが、それでも誰の中にも神も霊魂も知らない心が住み着いているわけで、われわれにとってはそれこそが問題なのだ。
人と人の、もっとも切実な関係には、神や霊魂という概念など共有されていない。人と人の関係に失敗して心を病んでしまった人が神や霊魂という概念にすがるのはけっこうだ。しかし、彼らに人と人の関係のもっとも切実で根源的な関係を語られても納得することはできない。
彼らには、この世界や生命の成り立ちの根源のかたちを知っているという自覚があるのだろうが、彼らが人と心を通い合わせ寄り添い合ってゆく作法を誰よりもよく知っているとはいえない。彼らは、そういうことに失敗して神や霊魂を見い出していった人たちなのだ。
われわれは、そういうことは、神も霊魂も知らなかったネアンデルタール人縄文人に聞く。
人と人は、神も霊魂も知らない途方に暮れた心で、ときめき合い寄り添い合っているのだから。
いいかえれば、ひとりぼっちでこの世界から置き去りにされたような「途方に暮れる」という場に立てない人は、人と人の関係に失敗する。もちろんこの社会には、それを補うための家族関係とか社会的地位とか財産とか容姿や性格に対する評価いうようなものが機能しているわけだが、それらのものにたよって人と人の関係を築いているからこそ、それらのものを失うと、とたんに人と人の関係がもてなくなってしまう。それらのものを全部失っても、人とときめき合い寄り添い合うことができるか。そこで途方に暮れながら立っていることができないといけない。
原始人はみな、そうやって途方に暮れながら立っていた。だから、人とときめき合い寄り添い合うことができた。彼らの人と人の関係は、われわれ現代人よりずっと切実で豊かだった。
原始人はわれわれよりずっと無邪気に神や霊魂を信じていた、などといっても、それは神や霊魂を信じているあなたたちの我田引水なのだ。そんなものを信じたからといって、人と人の豊かなときめき合う関係や寄り添い合う関係がもてるわけではない。
途方に暮れている存在だから、そういう関係がもてる。
途方に暮れていなければならない。だからみんな、途方に暮れている人たちから学んでいる。そうやって、映画や小説などの途方に暮れている人の物語に感動している。神との関係や自分の運命との関係を確立できたとしても、他者とときめき合い寄り添い合う関係を豊かに体験できるわけではない。
根源的には、人はさびしい人やかなしい人に寄り添ってゆく。神との関係や共同体のスローガンを共有して集団をつくってゆくのは文明社会の問題であって、人と人の関係の根源の問題とはちょっと違う。
人間は嘆きを抱えた存在だから、寄り添い合いもするし、ときめき合いもする。
その嘆きを消してゆくように神だの霊魂だのといってしまえば、それはもう寄り添い合う契機を失うことと同義ではないか。



キリストも釈迦も説教をする。それは、人に寄り添っていっているのではなく、人をまわりに集めている行為である。彼らは、そうやって集団をつくっていった。神という概念を共有してゆけば、集団がつくられる。集団をつくる契機として、神という概念が生まれてきた。べつに、人と人が寄り添い合うための契機だったのではない。神との関係に入りこんでゆけば、他者はもう見えなくなる。そうやって、観念世界が自己完結してしまっている。しかし、誰もが神との関係に入りこんでいっていれば、集団の結束は成り立っている。
神との関係に入りこむことは、それによって観念世界が自己完結してしまって他者を見失うことなのだ。集団の結束を生むために、神との関係に入り込むことが称揚されていった。
神との関係に入り込む心の動きは、他者に寄り添ってゆく心の動きと逆立している。したがって、神との関係に入ってゆくことによって他者に寄り添ってゆく心の動きが生まれてくることは原理的にありえない。その集団は、集団としての強い結束力を持っているが、ひとりひとりが寄り添い合っているわけではない。これは、ユダヤ教を考えるとよくわかる。彼らはひとりひとりが神との関係に入り込んで強い結束力を持っているが、人と人が寄り添い合う関係の心動きを失ってヨーロッパ人という他者との関係に失敗してしまう歴史を歩んできたし、そうやって彼ら自身が精神を病んでしまう危うさをいつも抱えている。
他者との関係に失敗することは、精神を病んでしまう契機になる。
べつにユダヤ教だけのことではない。神との関係に入り込むことは他者との関係に失敗する契機になるし、他者との関係に失敗して神との関係に入り込むことも多い。
人と人のプリミティブな寄り添い合う関係は、神との関係から離れたところで生成している。人は神との関係から離れた心の動きを持っているし、持たなければ他者との寄り添い合う関係にはなれない。
原始人の寄り添い合う関係は神を知らないところで生成していたし、現代人だって寄り添い合う関係になっているときは神との関係から離れている。
この世の中には、神との関係に入り込んで精神を病んでしまっている人がたくさんいる。誰もがそんな例をうんざりするほど目の当たりにしているというのに、今なおスピリチュアルはお盛んであるらしい。
人類は、神だの霊魂だのと騒ぎだす以前はピュアでプリミティブな人と人が寄り添い合う関係を豊かに持っていたのであり、そういう時代があったのだ。
原始人は、神も霊魂も知らなかった。アニミズムだなんて、そんなおかしな言葉で原始人を規定するのはいいかげんやめてくれよと思う。彼らは、ピュアでプリミティブな人と人が寄り添い合う関係に対する想像力がなさすぎる。僕だってそんな関係を持つ能力があるわけではないが、神や霊魂の存在を叫ぶなんてくだらないと思っているそのぶんだけ、そんな関係に対する敬意は持っている。
神や霊魂の存在を叫ぶ人間ほど人と人が寄り添い合う関係を失っているというのに、そういう人間にかぎってそんな関係を実現する能力を誰よりもそなえているつもりでいる。
そんな関係は神や霊魂を思わない人が実現しているし、そんな関係は神や霊魂を思わないところから生まれてくるのだ。
人間なら誰だって、神や霊魂を思わない心を持っている。ひとりぼっちでこの世界の外に置き去りにされて途方に暮れている心を。その心を携えて人と人は寄り添い合い、ときめき合っている。
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