自己完結しない命・ネアンデルタール人と日本人・53


学問をする知性とはどういうものかと考えたとき、それはきっと問題に寄り添ってゆくだけの態度であって、べつに「信じる」ということではないだろう。信じてしまったら、そこで思考停止してしまう。
神や霊魂を信じてしまったら、それで全部問題は解決してしまう。
神に祈れば病気が治ると信じられるのなら、薬や治療の方法を探す必要もない。おそらく氷河期明けの文明社会が未開の民に神や霊魂を信じる観念を植え付けてしまい、それで彼らの文化文明が停滞していったのだろう。未開の民はそれをすっかり信じ込んでしまい、その観念をどんどん深化させていった。
しかし文明社会は、そういう観念を共同体の運営のために使っていただけで、丸ごと信じていたわけではなかった。その一方でちゃんとプライベートな「問題に寄り添ってゆく観念」も行使してきた。
では、縄文人は、神に祈ればなんとかなると思っていたか?
そんなことはあるまい。彼らは、とても好奇心が旺盛だった。彼らは木の実を主食にしていたが、食べられないドングリや栃の実を灰汁抜きして食べるということを覚えていったのは、神に祈るだけではすまない生き方をしていたからだろう。そうしてそれらのいろんな食べ方も工夫し、クッキーなどにもしていたらしい。また、野草もいろんなものを食べていて、そこから薬草の知識も身につけていっただろうし、山椒などもスパイスも試していた。
しかしなんといってもいちばん驚くべきことは、漆塗りの技術を持っていたことだろう。
漆の木は、縄文時代の途中から自生するようになってきたのだとか。おそらく渡り鳥のフンなどで大陸から運ばれてきたのだろう。そしてそのややこしい精製の方法を、彼らはいつの間にか自前で覚えてしまった。おそらく本家の大陸よりもずっと短期間で覚えてしまったのだ。
それは、漆の美しさに対する愛着と、問題に寄り添いどんどん探求してゆくという知性と率直さを持っていたからだろう。神に祈って解決するということをしないで、どんどん探求していったのだ。
漆なんか、生きるために必要なものでもなんでもないし、手がかぶれたり、面倒なことばかりである。それでもそんなことに熱中できたのは、異民族の脅威がなく、「生きるため」などというテーマを持つ必要のない環境だったということもあるのだろう。
それは、神や霊魂という概念で解決して思考停止してしまうという観念習性ではなかった。



日本人には、外来の新しいものにすぐ飛びついてすぐに自分のものにしてしまうという習性が伝統的にある。それは、神や霊魂という「原則=信じるもの」を持っていない民族だからだ。あらかじめ持っている物差しがない。無原則にひとまず興味を持ってしまう。これはもう、縄文時代来の習性なのだ。
仏教を輸入することができたのも、もともと宗教などというものはなく、神道はただのお祭りの習俗にすぎなかった。
まあ、宗教に関しては、世界中がそうだったのだろう。四大文明の地以外はそうした観念性が薄く、お祭りの習俗しかもっていなかった。だから、仏教やキリスト教が世界中に広まっていった。
ヨーロッパにキリスト教が広まっていったのも、どこもお祭りの習俗ばかりで本格的な宗教を持っていなかったからだろう。
どこからともなく人が集まってきてわいわいがや騒ぐお祭りは、人類の歴史はじまって以来の習俗だが、神や霊魂という概念でこの世界もこの生もこれで決まりだと決定してしまう観念性は、四大文明の地からはじまっている。そしてそういう原則を持ってしまったらもう、外から入ってくるものを受け入れなくなってゆく。既知の信じるものを共有しながら結束してゆくということはできても、未知のものに寄り添ってゆく、という心の動きは希薄になってくる。
とにかく縄文人は、そういう「原則」を持っていなかったし、「原則」をしっかり持っていないのは日本人の民族性である。
その「原則」を持つ心は、神や霊魂を信じることが基礎になっている。
現在の未開の民だって、どこかから伝わってきた神や霊魂という原則をいつの間にか持ってしまったために、新しいものに対する好奇心を失っていった。
しかし日本列島は、ずっと新しいものに対する好奇心の歴史を歩んできた。外からの情報が入ってこないところだったからかもしれない。神や霊魂という概念の洗礼を受けないまま原始的な心性を洗練進化させていった。
原則を持たないから、何でも寄り添ってゆく。そして裁量する原則(基準)を持たないから、直感がはたらく。縄文人が漆の精製を覚えていったのも、そうした未知のものに対する好奇心と直感が豊かだったからだろう。
そして原則を持っていないから、現実に対する問題処理能力に欠けている。公共心という原則がないから、集団や社会を構想する能力がない。良くも悪くも縄文人は、原始的ななりゆきまかせの集団運営しかできなかった。
四大文明の地は、集団=共同体を構想するための基準となる神や霊魂という原則を持っていた。
そしてアフリカやアマゾンやボルネオの未開の民は、神や霊魂という原則を持ってしまったために、集団=共同体を構想できなくなってしまった。つまり、その小さな集団のまま、さっさと自己完結してしまった。
四大文明の地は自己完結するために集団=共同体を構想していったが、未開の民はすでに自己完結してしまったために集団=共同体を構想する能力を失っていった。彼らは神に祈れば欲しいものが手に入ると思ったし、四大文明の地では、神に祈れば欲しいものが手に入る能力が得られると思った。
知識人であれ無知な大衆であれ、大人であれ子供であれ、人はそうやって神や霊魂という概念を持ち、自己完結してゆく。
自己完結してしまうという病理。
自己完結して思考停止してしまっているから情報が必要になるし、自己完結して思考停止してしまっているから情報を必要としなくなる。これが、文明社会と未開社会の差異だろうか。とにかくどちらも、神や霊魂を「信じる」という心で自己完結してしまっている。
共同体の制度は、集団として自己完結しようとする欲望の上に成り立っている。その自己完結しようとする欲望が、神や霊魂という概念を生みだした。
しかし縄文人の社会も原始人やネアンデルタール人の社会も、自己完結していなかったし、自己完結を目指すこともなかった。すべてをなりゆきにまかせていた。つねに人が動いて「出会い」と「別れ」が起きていた。これはおそらく、神や霊魂という概念を持っていなかったからだ。
縄文人は、自己完結しないで他者に寄り添っていった。そうやって男たちは旅を続け、女たちはその一行を受け入れもてなしていった。そうしてそこで集団として自己完結することなく、また別れていった。
縄文人は神や霊魂という原則で自己完結していなかったから複雑な漆の精製の技術をたちまち覚えていったし、集団=共同体を構想することもなかった。
現代人の自意識は、どうしても自己完結してしまうし、自己完結しようとしてしまう。だから、原始人のような自己完結しないで他者に寄り添ってゆくという率直さはなかなか持ちにくい。しかしそれでも人と人はどこかでそういう関係を結んでいるし、結ばないと生きられない。
人は、死を前にすると自己完結できなくなって、人と人が寄り添い合う関係に浸され、深く「別れのかなしみ」がこみ上げてくる。それでも自己完結したまま死んでゆこうとするのなら、神や霊魂や死後の世界や生まれ変わりといった概念を捏造してゆくしかない。
まあ僕はその体験をしていないのだが、死を前にした人は、他者に寄り添われていることを誰よりも深くしみじみとありがたがっているのではないかと思うわけですよ。
神も霊魂も知らない世界のいちばんさびしい人は、そういう感慨を深く体験している。自己満足・自己完結して神や霊魂という概念をまさぐっているひとたちにはわかるまいが。
ネアンデルタール人縄文人は、「別れのかなしみ」を深く知っている世界でいちばんさびしい人たちだったのではないだろうか。



話が飛んでしまうが……
古事記ヤマトタケル東征譚のところで、「かがなべて」という枕詞が出てくる。
ヤマトタケルが今の神奈川県足柄あたりから山梨の酒折宮まで戻って休んでいるときに、まわりのものたちにこう歌いかけた。
…新治(にひばり)筑波を過ぎて 幾夜か寝つる…
こうなると、家来のものたちは「返し」の歌を詠まないといけない。
そこで、かがり火を焚くのが仕事の下っ端の老人が、こう返した。
…かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を…
で、ヤマトタケルはいたく感心し、この老人を国造(くにのみやつこ)に取り立てたという話である。
この返し歌のどこが素晴らしいのか。
「かがなべて」は「日々(かが)並べて」つまり「何日も過ぎて」という意味だというのが一般的な解釈である。この老人からしたら「かがり火を焚き続けて」という意味も込めているのだろうか。
古事記伝本居宣長は、この返し歌の本領は「夜には」を「夜庭」に懸けている機知にある、といっている。その流れで「日には」=「日庭」とつなげていて、つまり、「何日も何日もずっとかがり火を焚く庭に立ってお仕えしてまいりました」と歌っているのだとか。
何言ってるんだか。本居宣長といっても、この程度なのだ。そうやってこの老人は自分の忠義を訴え、ヤマトタケルは「感心なやつじゃ」とほめたというのか。ばかばかしい。
古代人の心は、そのような現代人的プレゼンテーションの習性とともに自己完結していたのではない。
この返しの歌には、じつはもっと高度な歌づくりの機知ともっと深い人に対する真情がこめられている。そこのところを読めなくて、何が古事記研究の大家か。
「夜には」=「夜庭」という懸け方くらいこの時代の人ならだれでもできただろう。べつに感心するほどの技巧ではない。われわれだってできる。だいいち必死に闘ってきた兵士を差し置いてたかが夜のかがり火を焚いてきたことくらいでえらそうに忠義ヅラするな、という感想にもなる。
この「かがなべて」という枕詞は、「日々並べて」という意味ではない。「あまねく平定して」というようなニュアンスの言葉なのだ。
「かが」とは「聡明」「端正」の語義、これはもう、ちゃんと古語辞典にしるされてある。
「か」は、「かっとなる」の「か」、つまり、たしかな気持ちが湧き起こること。そういう確かさのニュアンス持った「か」を二つ並べて強調し、「聡明」「端正」になる。
着物の裾を二つに折って縫うことを「かがる」というのも、そうやって見栄えよく整えることだからだ。
「かがり火」は、まわりを明るく照らす火のことをいう。
「かがる」とは、端正にすること。「なべて」は「おしなべて」の「なべて」、「あまねく」ということ。
というわけでこの場合の「かがなべて」は、「あちこちで戦って平定してきた」というのが表の意味である。次の句との関係でいちおう古事記の編者が「日日」という字を当てているとしても、その場にいた古代人は「かが」と聞けば、まず「聡明」「端正」のニュアンスで受け取っていたのだ。「はっきりと確認・納得する」とか「めでたく終わってほっとする」とか「なんと素晴らしいのだろう」と感動するとか、まあそのような感慨から「かが」という言葉が生まれてきたのだ。
彼らが「かが」と聞いて「日々」という文字を思い浮かべたはずがない。編者が便宜的にそういう字を当てているだけなのだ。あとの句でちゃんと「夜には九夜 日には十日を」といっているのだから、わざわざ蛇足のように「日々並べて」といわねばならない理由は何もない。
「かがなべて」の表の意味は「あまねく平定する」ということなのだが、この言葉はじつに意味深で、ここではそのほかに、「安堵の充足が胸に満ちてくる」という感慨のメタファーにもなっていて、じつはこのニュアンスこそ「かがなべて」というやまとことばの本質であるともいえる。「さぞやほっとしておられるでしょう」とねぎらう感慨を込めて「かがなべて」といったのだ。そういうニュアンスを、本居宣長はなんにもわかっていない。
そして物語はここから急転直下、ヤマトタケルが悲劇的滅亡へと堕ちてゆく流れになってゆく。そういう物語的感興を盛り上げるための仕掛けとして、作者はこのエピソードを挿入したわけで、そこのところを読まなければこの物語の巧みさと魅力を汲み上げたことにはならない。
「夜には九夜 日には十日を」の「には」は、「庭」でもなんでもない。そのままの助詞で、「夜を日に継いで戦ってこられましたね、お疲れ様です」と詠っているのだ。そしてこの「かがなべて」に「お疲れ様です」といっているニュアンスも込めているその真情と教養の高さにヤマトタケルは感動した。
何はともあれこの老人は「かがなべて=お疲れ様です」という言葉をかけてやりたかったわけで、あとの句はその修飾に過ぎない。なのに本居宣長をはじめとする研究者たちは、この「かがなべて」という枕詞があとの句の蛇足の飾りことばであるかのように解釈してしまっている。これは、この国の枕詞研究のあしき迷妄である。
最初にヤマトタケルが「幾夜か寝つる」と歌ったのは、「ちゃんと寝ることができたのは幾夜あっただろうか」という意味であり、それを受けてこの老人は「かがなべて=お疲れ様です」と返したのだ。
彼はべつに自分の忠義や仕事を宣伝しているのでもなんでもない。ヤマトタケルの「ああ疲れた」という思いと達成感をちゃんと汲み取り、自分を投げ捨て相手に寄り添ってゆくような心でそう返していった。
ヤマトタケルは、ただ歌の技術に感心しただけでなく、二人のあいだに心が通じ合うところがあったのだ。そのよろこびこそ贈答歌の醍醐味ではないか。日本列島の和歌は、このようにして生まれ洗練発展していったのだ。
そして、もしかしたらここでの「かがなべて」はこの老人の即興の造語だったのかもしれない。しかしそれでもその意味もその言葉=音声が持っている感慨のニュアンスもたちまち伝わってしまうところに、言葉がひとつの意味に限定されていなかった古代のやまとことばの本領があった。「意味が限定されていない」という合意があったから、聞くものの誰もがその音声にこめられているニュアンスを探ろうとしていった。
これだって「寄り添ってゆく」関係である。やまとことばは、この関係の上に機能していた。人の心と心が寄り添い、そして「かが」という言葉と「なべて」という言葉が寄り添い、「あまねく平定して」という意味と「安堵の充足が胸に満ちてくる」という感慨が寄り添っていった。
和歌は、このようなただのダジャレだけではすまない複雑な懸け言葉の技術がどんどん発達していった。こういうのを「秀句(すく)」ともいうのだそうだが、これもまた神も霊魂も知らない民族の、原則もなく自己完結もしない心の動きから生まれてきた技術であるのだろう。
歌を贈って返すということ、そして連歌のようにどんどんつなげてゆくこと、これらはまあ、日本的な寄り添ってゆく作法のひとつにちがいない。
本居宣長は、古事記における無邪気に神を信じてゆく心こそ「やまとごころ」であるといっているのだが、そうではない、神などというものを知らない無原則の自己完結しない「なりゆき」にまかせる心で人と人が寄り添い合っているのが「やまとごころ」であり伝統的な人と人の関係の作法なのだ。そういう無原則の自己完結しない心だったからあのような奇想天外な神の話を生みだしたわけで、神を知らない原始的な心をそのまま洗練・深化させていったのが日本列島の伝統文化であり、そういう神を知らない原始的な心は普遍的に世界中の誰の心の中にも息づいているのではないだろうか。



人間の命は自己完結できないようにできているから、人と人が寄り添い合ってゆく。まあそのようにして生まれてきて「おぎゃあ」と泣き、そのようにして「別れのかなしみ」とともに死んでゆく。
自己完結して生きて死んでゆきたい人間ばかりが、神だの霊魂だの死後の世界だの生まれ変わりだのとわめいている。
しかし、高度な知性や感性とは、自己完結できない心のことなのだ。その心が、現代人よりもネアンデルタール人縄文人の方がずっと豊かだった。
現代人にはもう、漆の精製技術を一から探求してゆくというような知性はないのだろうか。しかし逆にいえば、この世界にはたくさんの未知が横たわっているということかもしれない。
かんたんに神だの霊魂だのといって思考停止してしまうわけにはゆかない。
神や霊魂を知らない原始的な知性や感性の方が、じつはより高度な知性や感性でもあるのだ。
「ああ、わかった」と満足してしまったら、そこで思考は停止する。「わかった」と思った瞬間に、さらに新しい疑問が湧いてくる。縄文人は、その繰り返しの果てに漆の精製技術を見い出していった。
人と人の関係だって、「わかった」と思った瞬間に相手に対する興味は失せている。次々に新しい疑問が湧いてくる相手なら、飽きることがない。
身体には霊魂が宿っている、という。宿っているのは霊魂だけじゃない。社会的な身分とか家族の関係とか収入とか知識とか性格とか経験とか、いろんなものがその人の中に宿っている。それらを見定めて「わかった」と思う。まあ、「人を見る目がある」というのは、そういうことだろう。霊魂という概念を持ってしまった現代人は、そのようにして人を見る習性になってしまっている。
しかし原始的な感性は、その人に宿っているものなど見ない。原始的であればあるほど宿っているものなど少なくなってゆく。おそらく原初の人類は、目の前に他者が存在するということ自体に驚きときめいていた。たぶん人は、死んでゆく直前には、そういう原始的な体験をする。そしてこの原始的な感性は、誰の心の底にも息づいている。そういう原始的な感性で人と人はときめき寄り添い合っているのだ。どんなダメ男ダメ女が相手でも、好きになってしまったのならしょうがない。誰の中にも原始的な感性がある。
ネアンデルタール人縄文人の社会の男と女の関係は、そのような原始的な感性の上に成り立っていった。男は、女なら誰が相手でも勃起していった。現代人のような妙な選り好みはしなかった。女が女であることそれ自体にときめいていった。人と人が寄り添い合っているということそれ自体にときめきがあった。そして現代社会においても、おそらく死んでゆく人は、そういう原始的な体験をしている。
その死んでゆく人の原始的な体験が、日本列島の伝統的な文化の基礎になっている。なぜなら日本列島の住民は、縄文時代の一万年をずっとそうやって死んでゆく人のそばに寄り添ってゆくという介護の作法を続けてきたのだから、自然に死んでゆく人の感性を汲み上げてゆこうとする文化のかたちになっていったはずである。
それが、「もののあはれ」であり「はかなし」の美意識なのだ。
日本列島の文化の伝統は、死に対する親密さの上に成り立っている。
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