途方に暮れるということ・ネアンデルタール人と日本人・52


人間は関係性の生き物である、などともいわれている。
では、人間の関係性の基礎はどのようなところにあるのか?
たぶんそれは、雌雄の発生のところまでさかのぼらねばならない。そういう問題のはずである。
それはともかく、その関係性の基礎の上に人間の集団が成り立っている。
人間が猿の限度を超えて大きく密集した集団をいとなむことができるのは、それなりに人間特有の集団性を持っているからだろう。
それは、強いものが弱いものを助けてやることによって集団がひとつにまとまっているからか?
それとも弱いものどうしが助け合いながら集団の動きを追いかけているからか?
おそらく後者の関係性の上に人間の集団が成り立っている。
人間の集団は、ひとつにまとまってなどいない。とくに文明社会になってからは、さまざまな階層が生まれてきた。
この国は比較的階層が緩やかだともいわれているが、それでも「権力者やエリートと庶民」とか「山の手と下町」とか「金持ちと貧乏人」とか「男と女」とか、まあまとまりきれない関係がある。
それでもひとつの集団としてまとまることができるのは、人間は根源において集団をつくっている存在ではなく誰もが集団を追いかけている存在であるということにある。そこにおいては、みな同じ立場の存在なのだ。集団をつくっている人間などひとりもいない。時代の「なりゆき」が集団の構造をつくっている。ほんとうは誰もが時代の「なりゆき」を追いかけて存在している。



ここまで書いてきたことの延長でいえば、介護とは強いものが弱いものを助けてやる関係であるのかといえば、根源的にはべつにそういうことではなく、ひとつの人と人が寄り添い合っている関係だといえる。
現在の介護現場では、しばしば「強いものが弱いものを助けてやる関係だ「という意識になっているから、弱いものも助けてくれと過剰に甘え要求するし、強いものは恩に着せようとしにかかる。そんな関係が健康=自然であるはずがない。
人間は介護をする生き物だが、基本的には、ただ寄り添ってゆくというだけのことだ。
原初の人類の関係で、病人にしてやれることなどほとんどない。ただじっと寄り添っていただけだろう。そうやって、他者がそばにいないと落ち着かない生き物なのだ。
そばにいてほしいし、いてやりたい。それは、二本の足で立つ姿勢が、他者の身体が目の前にないとうまく安定しないからで、他者の身体が目の前にあるという前提の上に成り立っている。
おたがい、他者の身体によって安定を得て、他者の身体に安定を与えている。そうやって誰もが他者に生きていてくれと願いながら存在している。
二本の足で立つ存在である人間は、先験的に他者との関係につながれてある。
というわけで、他者が動けなくなったら、自分も動けなくなってしまう。動けない病人を前にしているときこそ、人間としての実存が極まってくる。
人間は他者に寄り添ってゆく存在であるということ。そして原初の時代においては、どちらが強いかという順位関係が存在しなかった。
人間社会における「強いもの」という存在は、氷河期が明けて戦争をするようになり階層が生まれたりして、そこからあらわれてきたのだ。
ネアンデルタール人のような原始社会においては、たとえ狩りの能力を持った屈強な男でも、社会的にはけっして「強いもの」ではなかった。そんな男でもやはり、他者に寄り添ってゆき、他者に生きていてくれと願うだけの存在だった。そうでないと生きられない弱い存在でしかなかった。
古代の日本列島の住民が門付けの乞食に食べ物などを与えていたのは、「強いものとして弱いものを助けてやる」という意識ではなかった。「聖なる存在に捧げものをする」という意識で差し出していた。これもひとつの介護の精神であり、ネアンデルタール人社会の屈強な男たちにもそういう心の動きはあったはずである。
それが、人類の普遍的な原始性なのだ。
そしてその原始性は現代人の中にも息づいているはずである。なのに現代社会の介護をするものも介護をされて死んでゆくものも、そうした原始性を覆い隠した観念性を持たされてしまっている。
上野千鶴子は『ケアの社会学』という本の中で、「被介護老人は何がしてほしいかをちゃんと意思表示できないといけない」などといっている。ほんとに、アホじゃないかと思う。自己顕示欲の強い田舎っぺのブスのいうことはこれだから困る。頭がぼけてきたらそんな意志表示などできなくなってくるし、だいいち、介護士がそばにいてくれるだけでありがたい、というのが死んでゆくものの普遍的な思いなのだ。
また、「そばに寄り添っていてあげたい」という思いがなくて介護士というしんどい仕事が務まるはずがない。死んでゆくものたちがそのことに対する敬意を持っても罰は当たらないだろうし、日本列島の文化にはそういう関係になってゆきやすい原始的な精神性の伝統がある。



このブログは、「人間は寄り添い合って生きている」というごくごく単純な事実を考えようとしているだけである。しかしこの事実から離れて神だの霊魂だの死後の世界だの生まれ変わりだのと考えていった方がもてはやされている世の中らしい。そういう考えを持つのが人間の本性だと多くの人が思っている。
四大文明だろうとマヤ文明やインカ文明だろうとキリスト教イスラム教だろうと未開の民の民の精霊信仰だろうと、人間は神も霊魂も死後の世界も生まれ変わりも信じていないくせに、ややこしくそうしたものを語りたがる傾向がある。そうしたものを語ることによって、信じられない心をなだめようとしてきた。そうしたものの存在を語りたがるということ自体が、そうしたものを信じることができていない証拠なのだ。そりゃあ、幽体離脱や空中浮揚や死後の世界をさまよっているような心的現象は起きるだろう。そしてそれがそうしたものが存在することの証明だと合意し合ってゆけば、仲良しの集団がつくれるだろう。それは、合意し合っているだけの集団であって、ときめき合っているわけじゃない。ときめき合うことができないから、そういう合意し合っている集団をつくらねばならない。共同体とは、そういう合意し合っている集団であって、ときめき合っている集団ではない。
だから人は、そうした集団とは別のときめき合っている集団をつくろうとするのだが、その集団すら合意の集団にしかできず、それでもときめき合っているつもりになってゆく。
その人たちは、その集団の中ではときめきときめかれている存在だと認知されているが、その外側の第三者からはちっともそのように見えない。彼らは、合意し合っている集団の中でしかときめきときめかれている存在であることができない。
彼らは、ときめきとかめ枯れている存在であろうとして、そうした神だの霊魂だの死後の世界だの生まれ変わりだのという合意に執着してゆく。
人間は、神だの霊魂だの死後の世界だの生まれ変わりだのということなど信じてもいないのに、ずっと信じているかのようにして語り合ってきた。
神だの霊魂だの死後の世界だの生まれ変わりだのという共同幻想がある。われわれはもう、避けがたくそうした共同幻想を信じてしまう社会の中に投げ込まれてしまっている。それはもう、しょうがない。しかしその一方には信じられない気持ちもどこかしらで疼いている。そういうことを自覚できるかどうかが問題なのだ。その自覚をなぜもてなくなってしまうかということが問題なのだ。
人間なら誰だって、他者に排斥されたり無視されたりする体験は避けがたく持ってしまう。こんなにもたくさん人がいる世の中で、そこで暮らしているのだから、とうぜんのことだろう。
しかし、親しい相手からそんな振る舞いをされたら、深く傷ついてしまう。その傷が蓄積してそうした共同幻想を信じる観念性が培養されてゆくという例が、じつに多い。おそらく伊勢白山道も江原啓之も、そうやって傷ついてきた人生を抱えているのだろう。そしてこんな世の中なのだから、多くの人が、そのような人生を抱えてしまっている。
まあ、ときめきときめかれる関係を持つことに失敗すると、一方的に信じ込んでしまいやすい。こんな世の中に生まれてきたのだから信じてしまうのはしょうがないが、信じていない心もどこかに疼いているという自覚を喪失してしまうと、信じていない心もどこかに疼いていることを自覚している人たちとはうまくやってゆけなくなってしまう。
そんなことをいっても、この世の中は、たいていの人が信じていない心もどこかに疼かせているのだ。キリスト教徒やイスラム教徒だって、どこかに信じていない心が疼いているのだ。
人間なら誰にだって、誰とも合意できない裸一貫の存在として他者とときめき合ってゆくことのできる資質はどこかに持っているはずである。
この世界から置き去りにされて途方に暮れている心は、誰の中にもあるだろう。人と人はほんらい、そうした孤児の心を携えて寄り添い合ってゆくのだ。
人間が神や霊魂や死後の世界や生まれ変わりを信じてしまう心を持っているということはいえても、それがこの世界の真実だとはいえないのだ。誰もがどこかしらでそれを信じていない。
一方的に丸ごと信じてしまっているあなたがいちばんえらいわけでもいちばん賢いわけでもない。
まあ、他者との関係に失敗すると、丸ごと信じてしまうことになりやすい。



そんなことよりわれわれは、人間は寄り添い合っている存在だ、ということを信じる。おそらくネアンデルタール人縄文人も、そういうところで生きていた。それが人間の原始性であり究極のかたちだと思う。
彼らの社会では、他者との関係に失敗してルサンチマンをたぎらせるというような心は起きてこなかった。だから、戦争などなかったし、共同体をつくって結束してゆこうとする作為的な観念衝動も持たなかった。
それでも人と人は、ときめき合い、寄り添い合っていた。そこにユートピアがあったというのではない、そういう関係にならないと誰も生きられない環境の中に置かれていたというだけのことだ。
しかし、そういう環境ではない現代社会にもそういう関係が存在するのだとしたら、おそらくそのような原始性がはたらいている。
妙な憎悪や恐怖や怒りを持つのが人間の本性ではないし、神や霊魂や死後の世界や生まれ変わりの概念を信じるようにできているのでもない。日本列島で人間存在のかたちがそのようになってきたのは仏教伝来以後のことだし、神も霊魂も信じない原始性も「暗黙の了解」というか地下水脈としてめんめんと受け継がれてきた。
日本人はなぜ神や霊魂や死後の世界や生まれ変わりを信じきることができないのだろう、という問題は日本列島の伝統風土としてたしかにあるではないか。
それは、ネアンデルタール人以来の人類の原始性の問題であると同時に、日本列島の美意識の問題でもあり、もしかしたら天皇制の問題でもあるのかもしれない。
天皇は、本質的には、ただもう寄り添ってゆくだけの存在として機能してきた。
あの大震災に際して天皇が民衆に対して何をしてやったかといえば、ただ寄り添っていっただけであり、民衆はそれだけでうれしかった。
現在こそ、天皇という存在がもっとも本質的に機能している時代であるのかもしれない。
寄り添ってゆくことこそ、縄文時代以来の日本列島の伝統である。そしてそれは、ネアンデルタール人以来の人類の伝統でもある。
日本列島の住民は、神も霊魂も信じない心で天皇を神として祀り上げてきた。天皇が神として祀り上げられてきたということは、日本人は神なんか信じていないということなのだ。
神なんか、天皇でもイワシの頭でもいいのだ。神よりも天皇という「他者」の方がありがたいのだ。
天皇は戦後に人間宣言をしたことによって、さらに深く日本人から慕われていった。これはきっと、マッカーサーとしても誤算だったことだろう。彼らだって神よりもキリストの方を慕っているくせに、そこのところに気づかなかったらしい。
ヨーロッパ人だって、キリストは「神の子」であって「神」だとは思っていない。神なんか信じていないから、キリストが信じられているのだ。
神が存在するのではない。神の存在を信じる心が存在するだけのことだ。そうして、信じない心も存在する。
人間は、なぜ信じてしまうのだろう。そして、なぜ信じられないのだろう。信じているあなただって、信じられない心を持っているではないか。
人間にとっては、「信じる」心よりも「慕う」心の方が大切なのだ。なぜなら人間は寄り添い合っている存在であって、べつに信じ合っているわけではないからだ。
まあ、歴史家がいうほど原始人がかんたんに神や霊魂を信じてしまうことなどあり得ないのだ。「信じる」ということ自体が人間の本性¬=自然ではないのだから。
神や霊魂が信じられるのなら、介護なんかしなくてもよい。神や霊魂にまかせておけば、天国に連れて行ってもらえるにちがいない。
縄文人ネアンデルタール人がけんめいに介護していたのは、神も霊魂も知らなかったからだ。神も霊魂を知らなかったから埋葬をしていたのだ。知らないからこそより深いかなしみが生まれ、寄り添い合うという関係になってゆく。
人がやさしい心を持つことができるとしたら、神や霊魂を信じているからではなく、寄り添い合ってゆこうとする心を持っているからだろう。神も霊魂も知らない途方に暮れた心の方がずっとやさしいのだろうし、神や霊魂を信じ切っているえげつない人間はいくらでもいる。
ろくな薬も知識も信心もない縄文人ネアンデルタール人は、途方に暮れながら介護をしていたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ