死んでゆく人と生き残る人・ネアンデルタール人と日本人・48


縄文人の死生観を問うことは、現在の日本列島のターミナルケアの問題とも通じている。
日本的な死の受け入れ方というのはあるにちがいない。
誰だって、できるだけ悪あがきしないで最後の時間を過ごしたいと思うだろう。
俺はもうそんな問題はとっくに解決している、と自慢している人間がいざとなって妙な混乱をさらしてしまうこともよくある。
あまりかんたんに「俺はわかっている」などと思ったり言ったりしない方がいい。その過剰な自意識によって混乱するのだし、その過剰な自意識のせいでときめきの薄い人生になる。そういう自己満足をため込んで生きていければそりゃあ不幸ではないだろうが、最後の時間もまた幸せだとはかぎらない。
たくさん金があってたくさんの人間に囲まれて生きていれば、そりゃあ「自分」という意識は満足するにちがいない。しかしそれは、この生の正味を味わいつくしていることとはまた別の問題だ。
自分にとって死とは何かということではない、人間にとって死とは何か、という問題がある。われわれは今それを、縄文人ネアンデルタール人という他者に問うている。
答えは、自分の中にあるのではない。縄文人ネアンデルタール人という他者の中にある。そしてそれは、われわれの心の底に流れている歴史の無意識を問うことでもある。
「私は死後の世界のことを知っている」とえらそうにのたまう人がいる。そんなことはあなたが勝手にそう思い込んでいるだけのことだ。そう思い込みたい人はこの世にたくさんいるが、それはこの社会がそういう人をたくさん生みだすような構造になっているからであり、それでも人は死後の世界どころではない「今ここ」を生きている。それでも死んでゆく人はみな、死後の世界よりも「今ここ」のこの世界の方がいいのである。死にそうになればなるほど、この世界の一木一草がよりいとおしくなる。そんな人たちに向かって死後の世界など説いたってせんないだけではないか。
「今ここ」のこの世界の方がよくても、それでも人は死んでゆかねばならない。つまり、「今ここ」を死んでゆかねばならない、ということだ。
特攻隊の兵士は、恋人の名や母親のことを叫んで死んでいったという。それは「今ここ」のこの世界との関係を死んでいったということであり、「今ここ」の「別れのかなしみ」とともに死んでいったということだ。その「かなしみ」が彼の悲劇を支えていたのであって、死後の世界のイメージだったのではない。死後の世界がどうのこうのという人間は、そういう人間性の自然を冒涜している。というか、人間性の自然に対して鈍感なのだろう。
べつに死後の世界があるからといって、安心して死ねるわけでもすぐに死にたいわけでもない。
べつに、死後の世界のイメージに救われるのが人間の自然であるのではない。そんななものを押しつけて安心立命を約束するなんて、説得する側の勝手な自己満足に過ぎない。そうではなく、今まさに死んでゆこうとしているその人が何を問うているのかを見い出し、その心に寄り添ってゆこうとするのがターミナルケアというものだろう。
たとえばその人が奥さんや子供との関係をもっとも大切に思っているなら、その関係の中に消えてゆく心の作法を持つしかないのだろう。その「別れのかなしみ」の中に。
まあ僕は、神や霊魂がどうのという彼らの自己満足の世界なんぞに興味はない。きっと、「別れのかなしみ」が希薄な人たちだから、そんな愚にもつかない世界観をまさぐっていられるのだろう。まったく、不潔で下品な俗物根性だ。



「別れのかなしみ」は、人間の心の通奏低音である。それは、死んでゆく人間にも見送る人間の心の底にも流れている。またそれは、原始的な起源の文化の基礎的なかたちであると同時に、日本列島の文化の底流にもなっている。
縄文人は、自分が死んでしまうことに対するいたたまれなさを「別れのかなしみ」に昇華しながら死んでいったのだろう。つまり、自分を思うことから、自分を忘れて他者を思うことへと昇華していったのだ。
縄文社会の男たちは、山道を旅しながら女子供だけの集落を訪ね歩くという暮らしをしていた。彼らは、死者との別れだけでなく、男と女の出会いと別れも絶えず繰り返していたわけで、その多くは二度と巡り合うことのない別れだった。彼らは、そういう「別れ=死」に対して親密なメンタリティや習俗を持っていた。
そこでもし、男たちの旅の一団に衰弱して死にそうなものが出てくれば、女たちの集落に立ち寄って看病してもらうことになる。そうして女たちも、その病人を生かすことはそれだけ男たちを長く引き留めておくことになるのだからけんめいに看病をする。
まあ、原始人の看病なんか、たかが知れている。一度衰弱しきってしまえば、たいていはやがて死んでゆく。
それでも、けんめいに看病する。
彼らにとって看病することは、「別れのかなしみ」を生きることだった。
現代人の感覚からすれば、縄文人だって男と女が一緒に暮らし家族をつくっていたということにしたいだろう。
しかし、おそらくそうではなかった。彼らは、一緒に暮らして家族をつくることよりも「別れのかなしみ」を生きていた。別れることが人生だった。
日本的な「おもてなし」の作法の伝統は、「別れのかなしみ」の上に成り立っている。「別れのかなしみ」を心の底に潜ませながら目の前の客のことを熱くせつなく思ってゆく。そうやって縄文社会の女たちは、旅に疲れた男たちをもてなし看病していたのだ。「別れのかなしみ」を潜ませているからそのもてなしや看病がこまやかで行き届いたものになる。
日本的なおもてなしの基本は、死にそうなものを看病することにある。そして医療が未熟だった縄文社会においては、死にそうなものは必ず死んでいった。
縄文社会は「別れる」ということを受け入れている社会だった。彼らは、一緒に暮らして家族をつくることの利益よりも、「別れのかなしみ」を胸に秘めながらときめき合ってゆく関係の醍醐味を深く知っていた。
女たちのおもてなしの基本は、男たちに旅をする元気を取り戻させてやることにあった。そして男たちも、その献身的な世話を受け続けることに対する心苦しさがあり、女たちを解放してやりたかった。彼らは、ずっと一緒に暮らしたいという欲望は希薄だった。
「亭主元気で留守がいい」というのは、縄文以来の伝統かもしれない。
「別れのかなしみ」があるから、豊かな「出会いのときめき」を体験することができる。まあ原初の人類はそうやって二本の足で立ち上がっていったのだ。それは、他者と体をぶつけ合っている関係と決別し、たがいの体のあいだに「すきま=空間」をつくって「出会いのときめき」を体験してゆく姿勢だった。
縄文社会のそうした関係だってそのような人間であることの根源の体験の上に成り立っていたわけで、彼らは男と女の関係に「すきま=空間」をつくり合っていたのであり、だからこそ豊かにときめき合う関係にもなっていた。
家族をつくることが人間の本性だと決めつけるべきではない。
人間は、存在そのものにおいてすでに「別れのかなしみ」を心の底に潜ませている。だから、縄文人のように人間性の自然にしたがおうとする原始的な傾向が強ければ、自然に「別れのかなしみ」が豊かに生成する社会になってゆく。
ネアンデルタール人だって、家族をつくらないで当たり前のように毎晩パートナーを取り替えてセックスしていたのであり、それはただ節操がなかったということではなく「別れのかなしみ」が豊かに生成している社会だったことを意味する。
「別れのかなしみ」によって人類は地球の隅々まで拡散していった。そうして氷河期明けに文明社会が到来し、共同体の制度性が発展してゆくとともに、人の心からしだいに「別れのかなしみ」が希薄になっていった。
しかし縄文社会は、原始的な「別れのかなしみ」の生成を豊かに引き継いでいる社会だった。そうしてそれが、その後の日本列島の伝統文化として洗練発達していった。
なんのかのといっても日本人は神も霊魂も死後の世界も知らない民族であり、「別れのかなしみ」という原始性を生きている民族なのだ。
まあ縄文人は神も霊魂も死後の世界も生まれ変わりも知らない人々だったからこそ、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を豊かに体験することができていた。
過ぎ去った時間はもう戻らない。人間が豊かな記憶力を持っているということは、それだけ深く「別れのかなしみ」に浸されている存在であるということだ。
縄文人の埋葬の作法は、「別れのかなしみ」の上に成り立っていた。それが彼らの死生観だった。
けんめいに看病して見送る。そして、死者はもう永久に戻らないと、深くかなしんでいった。いいかえればそれは、きわめて単純で原始的な「過ぎ去った時間はもう戻らない」という認識であり、その率直で深いかなしみとともに埋葬することを「葬(ほうむ)る」といい、その「死者はもう戻らない」という深いかなしみとともに死者を思い出す場所を「墓(はか)」といった。
目の前にいない人は「いない」のだ。その「ない」ものを「ない」と思い定めてゆく直截な心の動きが「別れのかなしみ」という原始性だった。
現代人は、霊魂や死後の世界という概念によって、そうした「別れ」を永久にデフォルトしてゆこうとする。まあ、デフォルトしてゆくことによって文明が生まれてきたのであり、そういうデフォルトの観念操作に勤勉な人間が神だの霊魂だの死後の世界だの生まれ変わりだのとわめいている。


死んでしまった人が霊魂とともにまだ生きているかのように思って対話している気分になれるのなら、「かなしみ」もくそもないだろう。そうやって文明社会は「別れのかなしみ」をどんどん希薄に(デフォルト)していった。
現代のようにほとんどの病気が治ってしまう環境になると、看病をすることにも病人になることにも、そういう「別れのかなしみ」という切実さが薄れてくる。しかし老人や癌患者を看護することは、どうしてもそんなわけにはいかない。生き残るものも死んでゆくものも、「別れのかなしみ」から逃れようと、悪あがきする。
神という概念を持っているから、神が助けてくれるのではないかと病人もまわりも期待する。霊魂という概念を持っているから、病人は死後の世界を生きている自分を想像して恐怖や絶望が渦巻いてしまうし、まわりのものだってそういう死生観で病人を見ている。
霊魂があると思ったらもう、天国や極楽浄土という概念でごまかしてしまうしかない。
しかし日本人はどんなにがんばっても神も霊魂のことも半信半疑だから、そこのところで混乱してしまう。進退きわまって、ようやく信じる。しかしそれは、必ず進退きわまるところまで行かねばならないということを意味する。きわまる前に死んでしまう人もいるし、きわまるまでの過程で精神を病んでしまう人も多い。
人間は、死にそうになると、なお深くせつなく「いまここ」の世界や他者のことを思うようになってゆく。霊魂や死後の世界を信じてへらへら笑っているだけではすまないのである。



けっきょく人類は、追い詰められて、神や霊魂という概念を見い出していった。氷河期が明けて人口が増えたり行動範囲が広がってゆくとともに集団どうしの戦争が起きてきて、その心的外傷から、世界やこの生をつかさどるそれらのものをイメージしようとする欲望がふくらんできた。
目の前にない見えないものを「ある」ようにイメージしてゆくこと、それが神であり霊魂だった。
彼らは、人と人が離れていることや「別れる」ことを否定して、大きな強い集団として結束してゆくことを目指していった。人と人の関係がくっついて支配し合っていることによって、もっとも強い結束が生まれる。そうやって「支配する」ということを知ってしまった結果として、この世界やこの生を支配している神や霊魂というイメージが生まれてきた。
主体性とか能動性などという。それらの言葉には、作為的な支配衝動がしみ込んでいる。
それに対して「別れのかなしみ」は、あくまで受動的な体験である。
だんだん見えなくなってゆくこと、それが「別れのかなしみ」であり、やがてすっかり見えなくなってしまう。その見えないものを「ない」と感じるのは受動的な体験であり、それでもそこに「ある」と感じてゆくのが能動性・主体性である。
あの山の向こうに敵がいると感じて憎悪や恐怖をふくらませる。こうして戦争が起きるし、これが死の恐怖の感性になる。
「ない」ものを「ある」と感じてゆく能動性・主体性によって文明が生まれ、戦争が起き、死の恐怖が肥大化していった。
「ない」ものを「ない」と感じるのは受動性であり、この直截な感性こそが原始性であると同時に究極のというかもっとも高度な知性・感性でもある。高度な知性や感性においては「わからない」という課題が次々に生まれてくる。「わかった=ある」と安心するのは半端で凡庸な知性・感性なのだ。
「ない」ものを「ない」と感じるのが「別れのかなしみ」である。
「ない」はずの死後の世界を「ある」と感じてしまえばもう、そこに天国や極楽浄土を設定するしかない。これが文明の歴史である。
死後の世界を「ある」ということにして安心立命を企ててゆくこともけっこうだが、それでは根本的な解決にはならない。そんなものはただの間に合わせの対症療法であり、「ある」と信じ込むことは、さんざん怖がったその体験の蓄積の果てにようやくたどり着く境地なのだ。
伊勢白山道とか江原啓之とかをはじめとする神だの霊魂だの死後の世界だの生まれ変わりだのということを声高に叫ぶ人たちは、そういう人間に対する恨みつらみや恐怖をさんざん体験してきた人たちなのだろう。僕みたいな苦労知らず(?)ののうてんきな人間には、そういうおぞましい観念世界のことはよくわからないのですよ。
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