墓に葬るということ・ネアンデルタール人と日本人・47


縄文人は埋葬することをどのように考えていたのか。
考古学者は、なんだか当然のように「生まれ変わりを願って」などと説明してくれる。
「生まれ変わり」なんて、今どき流行りのスピリチュアルで騒いでいることじゃないか。それは氷河期明けの共同体の文明社会から地球の隅々まで伝播していった概念であり、現在の未開の民の精霊譚だってそのようにして生まれてきたにすぎない。べつに原始社会から引き継いできたものではない。
そして、東の果ての絶海の孤島であった日本列島には、1500年前の仏教伝来までそうした観念操作は入ってこなかった。
そのとき日本列島の住民がそれを受け入れるのにどれほど四苦八苦したかということの表れとして古事記の奇想天外な物語があるのだし、ただのお祭りの行事にすぎなかった神道だって、宗教らしい体裁にしようと、そうとう変則的なつじつま合わせをしている。日本古来の、といったって、神社の祭神などはすべて奈良時代以降に無理やりくっつけていっただけである。伊勢神宮のアマテラスなんか平安時代以降らしく、そのときもとの神を変えさせたといっているが、もとの神があったのかどうか怪しいし、いいかえれば祭神なんてかんたんに変更できるほど安直な間に合わせのものにすぎなかったのだ。
この島国は、もともと神も霊魂もない風土だった。人類の原始性は、絶海の孤島であったこの島国で引き継がれてきた。
人類は、神も霊魂も知らないところから埋葬という習俗を生み出してきた。
縄文時代に神や霊魂などなかった。そんな制度的な概念などなくとも、人間によって死者を埋葬するという行為が生まれてくる必然的な契機はある。他者の死に悔やみきれない思いが胸に満ちてくれば避けがたくそういう行為になる、ということは前回書いた。埋葬の理由なんか、それだけで十分なのだ。
初期の埋葬は、アニミズムではなかった。
後世の葬式になって死者の霊魂を前提にしたさまざまな形式作法が生まれてきたが、それが起源のかたちであったのではあるまい。
とにかく縄文人がどんな思いで埋葬していたかということを考古学者に聞いても、「死者の霊魂を弔うため」とか「生まれ変わりを願って」とか、そんなアニミズムありきの答えしか返ってこない。そしてそれは考古学の資料に決定的な証拠があるのではなく、研究者が勝手な憶測でそういっているだけなのだ。
たとえば縄文人は「屈葬」をしていたということを、「生まれ変わり」のために胎児の格好をさせた、などと解釈されたりしているのだが、べつに縄文人から直接聞いたわけではないし、もっと違う解釈だってできる。
たとえば、死者はもう立って歩いてゆくことをやめた存在で、そのうずくまった姿勢こそ死者にもっともふさわしく安らいでいるかたちだと縄文人は考えたのかもしれない。考古学者のその推測はいかにも現代的通俗的で、原始的な感性がそういうところにあったとは思えない。
考古学者の推測とわれわれのそれとどちらが正しいかはもう縄文人に聞いてみないことにはわからないのだが、あなたは、彼らのあの安っぽいこじつけのへりくつを支持するのか。



われわれが縄文人の心模様を想像する手だては、考古学の証拠だけがすべてでもあるまい。
そこでここでは、やまとことばの語源について考えてみたい。そこに、縄文人の心模様が潜んでいるのではないだろうか。
語源といっても、最初に文献にあらわれた証拠のことではない。もっと遠い昔の、文字も共同体も存在もしなかった時代の人々はどのように言葉を扱っていたかと問うてゆかねばならない。
僕はこのことを「一音一義」という方法で考えているのだが、語源の研究者たちは、母音は最初「あ・い・う」の三つしかなく「え・お」はあとから生まれてきたなどといったりしている。
しかしこれは、いい過ぎだろう。「え・お」は、「あ・い・う」に比べて発音しにくい音声かといえばそうでもあるまい。思わず「おお」といってしまうことは、もっとも原始的な発声のひとつだろう。「え?」という問いかけは、あとから作為的につくったのか。言葉が出ないときにとりあえず出てくるのは「えー」という音声である。
「まぶた」「まなこ」「まつげ」「まゆ」「まなじり」という言葉があり「まの当たり」などというし、「目」は最初「ま」といっていて、あとから「め」になった……といっている学者がいる。
そうだろうか。最初に「め」という言葉があったのではないか。「め」から派生して「まぶた」とか「まなこ」というようになっていっただけだろう。まあ日本人は「あ」という母音がことに好きだから、いつのまにか自然にそういう言い方になっていったのだろう。美意識の問題だろうか。「めぶた」というより「まぶた」といった方が美しい。それは「目(め)」そのものではないから少しくらいデフォルメしても許されるし、デフォルメした方がおしゃれである。
また、「藍(あい)」の「い」の母音が「青(あを)」の「を」という母音に変わったともいう。学者ともあろう人が、どうしてこんな他愛ないこじつけをするのだろう。「藍」は、もともと染料となる植物の名称だったはずである。色の名称ではなかった。そして、「あを」だって、もともとの語源は「はるかな遠い物に対するあこがれやかなしみ」の感慨をあらわす言葉だったのであり、青い海や空を眺めているとそんな気分になるから後世になって青い色彩のことを「あを」というようになってきたのだ。「藍(あい)」という染料は中国から輸入したのだとしたら、そのずっと前から「あを」という言葉はあったのだし、「あを」のデフォルメというかバリエーションとして「あい」というようになっていったのだろう。
母音は三つしかなかった、などということは人間の自然としてあり得ない。
そして平安時代の母音は八つあったなどといわれているが、やまとことばは同音異義の言葉が多いから、ひとつの意味に限定しようとするとどうしてもそういう言い回しの違いが生まれてくるのだろう。やまとことばも、共同体の制度の確立とともに、どんどん意味が限定されてゆくようになった。たぶん文字がつかわれるようになって、限定された意味にこだわりはじめたのだろう。
しかしわれわれが考える語源は、言葉がそんな意味に限定された機能ではなく、もっとおおらかな感慨の表出として機能していた時代のことであり、目くそ鼻くその違いにはこだわらない。あくまでも生き物としての実存的な契機というかその音声が発せられる心模様についてこだわる。
その「一音一義」における母音に対する基本的な解釈はこうなる。
「あ」……大きく口を開けて発声し、高く大きいニュアンスの表出になっている。
「い」……あまり口を開けないで、細く鋭い感じで音声が出てゆく。だから「いのいちばん」などという。
「う」……音声が口の中にこもって、暗いとか鈍いとか苦しいというニュアンスがある。
「え」……何も考えなくても思わず出てくる音声で、率直で明るく平明なニュアンスがある。
「お」……これは、「おお」と驚いたりしたときの大きく重いニュアンスの「を」と、「おや?」という感じで発せられる小さいとかさりげないというニュアンスの「お」とがある。
このように発声をできるだけプリミティブなかたちに還元して考えてゆくのがわれわれの「一音一義」の手法である。
まあ、最初は母音だけだったのかもしれない。それによって原初の人類は「感慨」を表出していた。



というわけで、やまとことばの音声のニュアンスから縄文人の心模様が探れるのではないだろうか。
たとえば「墓(はか)」、この言葉はもう、かなり遠い昔からあったはずである。
「はか」は「はかない」の「はか」。いや、「い」はいらない。「はかな」が古いかたちだろう。そしてこのときの「な」は、「大きな」とか「きれいな」というように、形容詞に常套的につけられる語尾だと考えることができるから、これもひとまず除外できる。
「はかな」という言葉の正味は「はか」にある。
「はか」という音声にこめられた感慨がある。「意味」ではない。むかしの人は、おもに「感慨」を込めて言葉=音声を発していたのであり、だから、「はか」といひとつの音声をいろんなかたちに転用することができた。「バカ」とか「はかばかしくない」とか「はからずも」とか、それらの「はか」も、基本的にはすべて同じニュアンスのはずである。
「はあ……」とため息をついたりいぶかったりする。「は」は、たよりない感慨からこぼれ出る音声。
「か」は、「かっとなる」の「か」、怒りの気分が湧き起こって外に飛び出てゆくこと。そこから、離れることを「離(か)る」というようにもなっていった。
すなわち、喪失感で心がうつろになっている状態のことを「はか」といったのであり、縄文人にとっての「墓(はか)」は、そういう感慨とともにある場所のことだった。
死者の霊が旅立ってゆくための基地だとか、生まれ変わりを願って葬ったとか、そういうことではないのだ。
死者はもう動かないし、言葉も発しない。もう二度と関係を結ぶことができない。「はか=はかな」は、喪失感が胸に満ちてくるときに発せられる。
縄文人にとっての墓は、あくまで死者のことを切なく思い出す場所だった。それが正味の原始的な感性というものであり、アニミズムなど関係ない。
「バカ」は文字通り「中身が何もない」こと。「はかばかしくない」とは「まるでなっていない」ということ。「はからずも」は。「何も期待していなかったのだけれど」ということ。すべて「空虚・喪失」のニュアンスの「はか」である。
やまとことばの「はか」には、「死者と対話する」とか「生まれ変わりを願う」とか、そのようなニュアンスはいっさいなく、ただもうどうしようもない「喪失感=別れのかなしみ」がこめられているだけである。



では「葬(ほうむ)る」という言葉には、どういう死生感や感慨がこめられているのだろうか。
「る」は、動詞の常套的な語尾だから、ひとまず除外する。
「ほうむ」すなわち「ほむ」という音声がこぼれ出る感慨がある。
「屠(ほふ)る」とは、殺してしまうこと。ないものにしてしまうこと。「ほふる」の「ふ」は「踏む」「振る」「降る」「伏す」「拭く」の「ふ」、覆いかぶさって消してしまうことを「ふ」という。音声が息に覆いかぶさられて出てゆくような発声。音声に息を被せるように口をほとんど開けないで発声する。長い時間に覆いかぶさられて新しさが消えてしまっている状態を「古(ふる)い」という。
消えてしまってせいせいする心地から「ふ」という音声がこぼれ出る。
それにたいして「ほうむる」の「む」は、「無理」「向く」「剥く」「蒸す」の「む」で、閉じ込められてある状態や感慨をあらわす音声である。閉じ込められてあるものをあらわしてゆく行為を「剥く」といい、閉じ込められてあるものをのぞきこむことを「向く」という。
閉じ込められているような閉塞感が「む」という音声になる。
その「閉じ込める」に「ほ」を被せて「ほうむる」という。
「ほっとする」の「ほ」、「ほか」「掘る」「干す」の「ほ」、唇を丸めて「ほ」と発声する。まあ、息を口の中に残しておいて音声だけを吐き出すような発声である。余分なものを取り除いて正味・本質を取り出すことを「ほ」という。そういう感触から「ほ」という音声がこぼれ出るわけで、だから「ほっとする」という。
とすれば、「ほうむる=葬る」とは、正味・本質を閉じ込める行為のことだといえる。おそらく縄文人は、そういう感慨というか意図で埋葬を行っていた。
「屠る」ことが邪魔なものに覆いかぶさり消してしまってせいせいすることだとすれば、「葬る」は、大切なものを土の中にしまってひとまず安心することだ、となる。
「ほうむる」の語源のかたちは「ほむる」で、それが「ほうむる」になってきたのは、「ほ」という感慨が強調されていった結果であろう。
日本列島ではやがて、死体が骨になるまで待ってからあらためて骨を洗って埋葬する「もがり」という習俗が生まれてきた。そうなればもう、「これでやっと死者を土の中におさめることができる」という「ほっとする」気持ちが胸に満ちてきたはずである。そうして「ほうむる」というようになっていったのかもしれない。
なんにせよ「ほうむる=葬る」とは土の中に大切なものをおさめることだったのであり、それ以上でも以下でも以外でもなかった。


まあそこに、アニミズムがどうのというような問題は存在しない。
霊魂を土の中に閉じ込めてしまったらどこにも行けないではないか。霊魂は四次元の世界をワープして天国に行くのだというのは現代人文明人の理屈で、原始人はもっと直截に事実そのままを感じて生きていたのだ。
四次元の世界に天国に向かう階段があらわれて……だなんて、笑わせてくれる。階段なんか三次元のものではないか。文明人のそうした無理なこじつけやつじつま合わせを無限に重ねて現在のスピリチュアルブームになっている。
原始人には、そんな通俗的な知性や感性はなかった。もっと純粋で高度な知性や感性を持っていた。もっとも原始的な、ということは、もっとも高度な、ということでもある。たとえば、「火事場の馬鹿力」は、もっとも原始的であると同時にもっとも高度な力のはたらきでもある。現在のもっとも高度な知性や感性をそなえた学者や芸術家だって、もっとも原始的な人々でもあるのだ。
それはともかくとして、縄文人は、もっとも大切なものをそこにしまっておくような気分で死者を土に埋めたのであり、もっとも大切な人を思い出すような懐かしさとやり切れなさが胸にこみ上げてくるような心地で墓に立っていたのだ。それが、「はか」という言葉と「ほうむる」という言葉が示しているところである。
彼らは、ただそれだけのことをとても豊かに体験しながら埋葬を行っていた。
「死後の世界」や「生まれ変わり」を素直に信じることが原始的な知性や感性だったのではない。そんなことは現代の文明人のどうしようもない俗物根性であり、現代社会のどうしようもない不安と混乱と閉塞感のなせるわざなのだ。
縄文人の死生観を考えることは、日本人の死生観の深層を問うことであり、それはそのまま人間の普遍的本性的な死生観でもある。
もちろんネアンデルタール人だって、おそらくそのようにして埋葬という行為をはじめたのだろう。
原始的な埋葬はアニミズムだったのではない。たったこれだけのことをいうのに、どうしてわれわれがこんなにも四苦八苦しないといけないのか。それほどに誰もが原初の埋葬はアニミズムだったと決めつけているし、今どきは寄ってたかってスピリチュアルがどうのと合唱している世の中だ。
こんなことをいっても誰も検討してくれないのだろうな、と情けなくなってくる。
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