閑話休題・黒田官兵衛


ことしのNHK大河ドラマの主人公は黒田官兵衛らしい。
まあそのドラマに対する興味もないのだが、あるブログで中世の時代模様や戦国時代の武将について語っている記事があり、そのどうしようもなくステレオタイプで下品な歴史認識にうんざりしてしまった。
そのブログ主によると、中世はもうだまし討ちとかなんでもありのマキュアベリズム(現実的功利主義)が沸騰していて、それが時代のダイナミズムになっていたのであり、そうでないと誰も生きられなかったのだとか。
というわけで、戦国時代の武将なんかみな獰猛な野獣みたいな面構えで、岡田君みたいな白面の美男子なんかいたはずがない、という。
そうだろうか。そのころの日本人はみな、まるでアラブの盗賊や悪徳商人のようなえげつなさで生きていたのだろうか。日本人がいざとなったらそんなことに徹することができる資質を持っていたら、この国の歴史はもっと違うものになっていたにちがいない。
たとえば、京都の加茂の河原には浮浪者があふれていた、という。野心満々のえげつない人間が河原乞食になんかならないだろう。現在のホームレスと同じように、どうしようもなく怠惰でだらしない人間がほとんどだったはずだ。そういう人間でもなんとか生きていられる時代だったということは、乞食どうしが助け合ったし、一般の民衆もそこそこの援助の手は差し伸べていたのだろう。そしてお祭りになれば河原乞食がどっと集まってきて、歌い踊ってその賑わいを盛り上げてくれたのである。
中世の人々のそのいいかげんさは、マキュアベリズムなどというものとは対極にあるものだった。すなわち、どうやって生き延びようかとあの手この手を弄して頑張るのではなく、いつ死んでもかまわないというやけっぱちの気分だったのであり、それが「無常」という世界観だった。そのいいかげんさから、豊かな思想や美意識の文化が花開いていった。
河原乞食は歌舞伎を生み出していったし、農民のお祭りの余興だった猿楽は能という芸術へと昇華していった。



平安後期の東国の武士の勃興は、裏切りなどなんでもありのマキュアベリズムによるものだったのかもしれない。このころこそまさに下克上の乱世で、京都からやってきた荘園領主が殺されるということなんか日常茶飯事だった。
しかしそこから武士は、公家をしのぐ武士独自の知性と美意識を培っていった。
戦国時代が下克上というのは、エリートの武士がマキュアベリズムだけではすまない存在になっていたからだろう。彼らは、その知性と美意識で、自分がトップに立つよりも側近になる道を選ぶようになっていった。諸葛孔明みたいに、ということだろうか。
権力の構造というのは政治オンチの僕にはよくわからないテーマなのだが、ちょっといわせていただくと……。
世界中どこでもいわゆる君主とか王といわれる存在になっていったのは、たいてい野心家のマキュアベリストだったのかもしれない。しかし、それだけではすまない。実際に軍隊や政治を動かす実務家としての側近は、野心だけでは務まらない。それなりの知性や美意識を加味した人間的な魅力をそなえていなければならない。ただの野心だけでは人は動かせない。
西洋では王や君主の上に神がいて、王や君主の下にその神の正義を実行する側近がいる。
それに対して日本列島の天下びとの上にいる天皇は、この世界をつくったわけでもないし正義(規範)も持たない「無為の人」である。その「無為の人」は何によって君臨していたのかというと、「あはれ」や「はかなし」といった伝統の美意識や世界観の上に君臨していた。そうして天下びとに仕える側近は、この美意識や世界観でまわりの尊敬を集める存在でなければならなかった。側近が尊敬されるから、天下びとも尊敬される。まわりのものたちは、側近の中に天下びとの美意識や世界観=知性を見ていった。
秀吉のまわりにはそういう当代きっての美意識や世界観=知性の体現者としての側近がたくさんいた。千利休黒田官兵衛のように。秀吉にも、「この人物はやがて当代随一になる」という目を持っていたのだろう。
とにかく、中世の日本列島では、神の正義よりも「無常の美意識」で社会が動き、それが権力の構造にもなっていた。
そのようにして時代が進むにつれて武士の社会にも知性と美意識の需要が生まれてきた。それがないと人を動かせない時代になっていた。ひとまずマキュアベりズムで頂点に上ってゆく人間がいるのだけれど、マキュアベリズムだけでは人は動かせないし、戦争も政治もできないのが日本的なところで、それはまた神の正義でもなかった。秀吉はそういうことを本能的に知っていたのかもしれない。まあ自分の生まれが卑しいから、エリートの武士を動かしてゆくことにはそうとうに苦心したのだろう。だから、積極的にそういう美意識や知性に抜きん出た人材をそばに置こうとしていった。千利休だって秀吉に付いて戦場に赴いていた。
たぶん、織田信長の家来であったときからすでに、秀吉が抱えている側近の方が優秀だったのだろう。黒田官兵衛だって、側近になる前から秀吉の側近を集めるセンスの良さには一目置いていたのかもしれない。だから、自分もあの大将の側近になりたいと思った。それは、自分の知性と美意識が認められることだった。
中世は、武士の戦いだろうと庶民の暮らしだろうと、「無常」の美意識と世界観で動いていた。そしてこの知性と感性は、縄文時代から現在まで続く日本列島の伝統なのだ。
すなわち、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を携えて世界や他者という問題に「寄り添ってゆく」という知性と感性。
日本列島の文化には、どうしようもなく「別れのかなしみ」がはたらいている。それが無常観になり、「いつ死んでもいい」という戦国乱世を生み出していった。そうしてそこから切腹とか特攻隊というメンタリティも生まれてきたわけで、千利休が壮絶な切腹を遂げて死んでいったのも、「いつ死んでもいい」というひとつの無常観なのだ。べつに野心家のマキュアベリストだったからではない。
この「日本的な」は、やっかいである。



中世の禅や能や茶の湯は、武士の後ろ盾を得て完成していった。そういう知性や美意識が花開いていった時代でもあった。戦場の武士だって、鎧の下は最高級の辻が花の衣装を着ていた。アルマーニのスーツみたいな、というとちょっと例えが古いけど。
知性と美意識を持った側近が号令するから兵士も動いたし、そういう知性と美意識を持ってしまったらもう、側近としてしか生きる道がなかった。
大将が兵士を動かしていたわけではない。大将は側近に命令するだけで、実際に動かしていたのは側近たちである。相手の城との和睦・終結の交渉だって、ほとんどは側近がやっていた。そしてそれに必要なのは、こわもての猛々しさではなく、相手を魅了する人格識見美意識である。そういう側近を持っていないと、共倒れになるまで戦わないといけない。相手の城主に対して「あなたが腹を切ってくれれば、残された家来も領民もわれわれが責任を持って面倒を見ます」というのが側近の仕事だった。そして「お任せします、お願いします」といわせなければならなかった。失敗して返り討ちにあったり牢に閉じ込められたりすることもあった。たしか黒田官兵衛も、一度失敗している。誰もがいつ死んでもいい生き方を模索していた……というのが中世なのだ。それが「無常」ということであり、そういう武士の知性や美意識が完成されていった時代でもあった。
戦国時代は、戦国乱世だったからこそ、知性と美意識の時代でもあった。現在の和風文化の基礎は、衣食住すべてこの時代につくられている。中世は、武士だけじゃなく、日本人全体が美意識に目覚めていったルネサンスの時代だった。日本人全体がマキュアベリストになっていった時代などない。誰もが明日も生きてあることの保証のない無常の世になれば、美しいものに対する思いも切実になってくる。
騙し合いばかりしていたら集団は混乱するだけで、集団のダイナミズムなんか生まれてこない。これは歴史の法則である。騙すことと残酷さだけの野獣みたいな武将の下で、誰が死に物狂いで戦おうという気になるものか。おまえひとりで戦っていろ、という話だ。頑張っても褒美がもらえるどうかわからないと思いながら戦うことができるか。べつに人を殺す楽しみだけで戦っているわけではない。あの人と一緒に戦えるのなら褒美なんかなくてもいい、と思わせることができる武将というのはどんな人物だったのだろうかと問うなら、ただの獰猛で残酷なマキュアベリストだったではすまない。われわれ現代人よりも中世の人々の方がずっと豊かな知性や美意識を持っていたのであり、中世とはそういう時代だったはずである。
まあ黒田官兵衛についての史実がどうであれ、彼を通して日本的な知性や美意識を描きたいという意図は制作側にあるのだろうし、そういうものを見直そうという時代になっているのだろう。信長・秀吉・家康よりも黒田官兵衛の方が兵法の見識においても人間性においてもずっと上だったといっている歴史家はいっぱいいるわけで。
関ヶ原で武勲を立てた息子の長政から「家康に手をとって感謝された」という報告を受けた官兵衛は「だったら空いているもう一方の手でどうして家康を刺してしまわなかったのか」と答えた。それは、世間でいっているような「おまえには天下を取ろうという気慨がないのか」という意味ではなく、官兵衛自身がそれくらいマキュアベリズムの権化のような家康が嫌いだったということだろう。「あんなゲス野郎におだてられたくらいで喜んでんじゃないよ」といいたかった。それでもまあ彼は、朝鮮戦役などでシッチャカメッチャカになっていた西軍の天下がこれ以上続けば日本は滅びると思ったから東軍についた。西軍はもう、抜け目がなく獰猛な野獣のような武将ばかりになっていた。知性や美意識の高い武将はたいてい東軍についた。東軍の方が不利だとわかっていても東軍についた。そのとき武将たちは、ただ「どちらにつけば有利か」という計算だけで動いていたのではない。どちらが有利かだけなら、西軍についた方がよかったのだ。それでも、官兵衛をはじめとする高い知性や美意識を持った武将たちが東軍に傾いてゆく流れが起きて、その流れに多くの武将たちが引き寄せられていった。
そういうエリートの武士による負けてもいいからおのれの知性や美意識に殉じようという日本的な流れがあったのだ。「散崋(さんげ)の美学」というのか、どうやって死んでゆこうかという問題は誰の中にもあった。そしてこれはもう、近代の日本が太平洋戦争に突入していった流れともリンクする問題のはずである。良い悪いじゃない。どうしようもない縄文以来の「日本的な」という問題がある。
ほんとに今どきの歴史家は縄文人がどんな思いで歴史を歩んでいたかということを何も考えていないし、あの黒田官兵衛のことを書いたブログ主は、戦国時代の武将がどんな思いで戦っていたのかということを何も想像することができていない。
官兵衛は、関ヶ原のあとに家康から厚遇の申し出を受けたが全部断って隠居してしまった。それもきっと、彼の知性と美意識だったのだろう。
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