埋葬の起源・ネアンデルタール人と日本人・46


「別れのかなしみ」は、人間とは何かということを考える上でも、日本列島の伝統文化を考える上でも、とても大切な問題だろうと思える。
まあ人間のというか、生き物の存在そのものが「別れのかなしみ」の上に成り立っているともいえる。
生き物の身体は、たがいに離れてそれぞれが孤立した「個体」として存在している。離れているから、身体が「動く」という現象が起きる。「動く」ということは、世界との関係に異変が生じている現象である。たとえば、身体に苦痛が生じていること。そして苦痛が生じれば「もがく」という現象が起きる。苦痛とは、身体が死んでゆこうとしている状態である。そうして「もがく」というかたちで身体の「動き」が起きる。これが、身体が動くことの起源のかたちだ。身体が動くことは、「死んでゆく」現象なのだ。そしてその「死んでゆく=動く」という現象が、生き物の「生きる」という命のはたらきになっている。命のはたらきとは、死んでゆくはたらきなのだ。死んでゆくことは「別れる」こと、すなわち生き物の命のはたらきそのものに「別れのかなしみ」が生じる契機が潜んでいる、ということだ。
命のはたらきにおいて生じる身体の苦痛、それが、「別れのかなしみ」という観念作用に昇華されてゆく。
この世に生きてあること自体が身体の苦痛をともなったいたたまれないことであり、その「いたたまれなさ」が「かなしみ」として昇華されてゆくところに人間の心の動きの基本的なかたちがある。
まあ、身体の苦痛などさっさと忘れてしまいたいのが人情である。忘れてゆくことがわれわれの生きるいとなみになっている。だから人は、身体の苦痛とは何だろうと正面きって向き合う思考がなかなかできない。
身体の苦痛を忘れている「幸せ」を欲しがるのが人間であるというなら、まあそうだろう。
しかし身体の苦痛がともなわない生などというものもない。
身体の苦痛は、「自分はこの世界から置き去りにされてある」という自覚を生む。病気になれば、自分ひとりがその不幸を背負っているような気になるのが人情である。貧乏をすれば、この世で自分ひとりだけが貧乏であるような気になってしまう。
苦痛は、「別れる」という体験として自覚される。
基本的には、身体の苦痛とともにこの世界との「別れ」を深く身にしみて自覚してゆくのが人間であり、そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。
身体の苦痛を体験しないですむ人間などひとりもいない。生きていれば腹が減るし、息をしないと息苦しくなるし、怪我をすれば痛いし、暑いとか寒いとか熱いとか冷たいと感じることも身体の苦痛である。身体の苦痛を感じることができなければ、われわれは生きられない。感じることができるのが意識であり心であり、人間的な知性であり感性である。
身体の苦痛を忘れたいのが人情であるなら、身体の苦痛と向き合うのも人間の意識であり心であり知性であり感性である。人間の知性や感性は、苦痛=いたたまれなさが「別れる」という体験であることに気づいている。
身体の苦痛こそが、意識のはたらきの根源的なかたちである。そしてその苦痛と向き合い観念的に昇華していったところで「かなしみ」が起きている。
幸せを欲しがるのが人間だといっているだけではすまないのであり、幸せだというだけでは自慢にならないのである。身体の苦痛を通して自分がこの世界から置き去りにされた存在であることに気づいてゆくのが人間の知性であり感性である。
その人の知性や感性は、生き物としての身体の苦痛とどれだけ深く向き合っているかというかたちで生まれ育ってくる。その苦痛を「かなしみ」というレベルまで昇華できているかというところで、人の知性や感性が試されている。
苦痛こそが最高の快感だという人もいるし、人間の心模様は、身体の苦痛や生きてあることのいたたまれなさから生まれてくる。
「別れる」とは、置き去りにされること。生き物は存在そのものにおいてこの世界から置き去りにされている。それを自覚するのが人間であり「かなしみ」である。
ほかの動物は、人間ほどには他者の死を「別れ」の体験として自覚しないし、「かなしむ」ということもしない。人間は、かなしむことによってしかその体験は収拾できない。ミミズやクラゲのように何も自覚しないですむというわけにはいかない。
生きてあることの自覚は、この世界から置き去りにされてあることのいたたまれなさを生む。人間はそのいたたまれなさを「かなしみ」によって収拾してゆく。かなしみはひとつのカタルシスである。泣いて泣いて泣ききれば、心もさっぱりする。「かなしみ」に浸されながらさっぱりしている。
人間は「別れる」という体験を苦痛とともに自覚し、「かなしみ」として収拾してゆく。
基本的に「別れる」という体験がうれしいはずもないのだが、人間の心模様や人間社会から「別れる」という現象がなくなることはない。「別れる」という現象が人間を生かしているともいえる。
まあ「かなしみ」は、人間の文化なのだ。その「かなしみ」から、火に対する親しみや、死者を埋葬することや、旅をすることや、言葉という音声を交歓することや、さまざまな人間ならではの文化が生まれてきた。
苦痛やいたたまれなさを忘れてしまえば幸せだが、苦痛やいたまれなさという命のはたらきと向き合いながら「かなしみ」を汲み上げてゆくのも人間の心模様であるし、そこからしか豊かな知性や感性は生まれ育ってこない。
病弱だとか健康だとか貧乏だとか裕福だということ以前に、われわれの意識のはたらきや心模様は、生き物としての身体の苦痛や生きてあることに対するいたたまれなさの上に起きている。もちろん病弱な人や貧しい人の方がそのことをずっとよく知っているということもまあ当然であるわけだが。
ネアンデルタール人は、だれもが「生き物として弱い存在である」という自覚のもとに氷河期の極寒の地で暮らしていたし、日本列島の古代人は「みんなで貧乏しよう」というコンセプトで生きていた。どちらも、生きてあることのいたたまれなさを「かなしみ」にまで昇華してゆく知性や感性を持っていた。それが、ここでの「ネアンデルタール人と日本人」という主題である。
幸せだといっていい気になっている人たちにはわかるまいが、ネアンデルタール人も古代の日本人も、生きてあることの「いたたまれなさ」や「かなしみ」をわれわれよりずっと深く豊かに体験できる知性や感性を持っていたのである。
現代の凡庸な俗物どもが自分の幸せな生や知性や感性を正当化するために人間の本性を語っても、レベルが低すぎるし、ぜんぜんそこには届いていない。
人間であることの真実は「他者」のもとにある。そしてそれは、自分のこの生を肯定したり賛美したりすることはできない、ということである。われわれは、その不可能性を生きている。その不可能性の上で人と人はときめき合い、連携し合っている。そこにこそ、人間の集団性の根源のかたちが合う。ネアンデルタール人も日本列島の古代人も、「生きられない」という不可能性を生きていた。誰もが「生きられない」存在だから、誰もが「他者を生かす」という心の動きや行動をしていた。これが、人間的な連携の基本のかたちなのだ。
まあこの主題は、わかる人だけわかってくれればいい、と勘念して書き進めてゆくしかないのだが……。



僕は今ここで、日本文化論をネアンデルタール人との連続性で語れないものかと試行錯誤している。
それはたぶん、語れるはずなのだ。ネアンデルタール人どころか、直立二足歩行の起源との連続性でだって日本文化論を語れるにちがいないと思っている。
人間なんかみな、もともとはアフリカのサバンナ近くの森に生息していた猿の一集団だったのだ。ホモ・サピエンスの遺伝子は最強であるとかなんとかしゃらくさいことを言っても、そういう起源の事実の方がずっと重く根源的本質的なのだ。
まあ、人類はもともと熱帯種の猿だったのだから、そのアフリカで進化してきたホモ・サピエンスの遺伝子が人類の身体の基本的な組成にもっともフィットしているのだろう。それに対してネアンデルタール人は熱帯種である人類の生きられるはずがないところでぎくしゃくしながら進化してきた遺伝子なのだから、両者の遺伝子が混じり合いながらさらに楽に生きられるようになってくれば、とうぜんホモ・サピエンスの遺伝子の混合率の方が高くなってゆくだろう。それはべつに、たくさんのホモ・サピエンスと少数のネアンデルタール人が交配していったということではない。ホモ・サピエンスの遺伝子がちょっとだけ混入したネアンデルタール人どうしが何代にもわたって交配していっても、きっとホモ・サピエンスの遺伝子の混合率が高くなってゆく。
3万年前のヨーロッパに出現したクロマニヨン人は、べつにアフリカからやってきた人たちだったのではなく、ホモ・サピエンスの遺伝子が混入してしまったネアンデルタール人だっただけである。
そのころからサバンナのアフリカ人はどこにも行きたがらない習性を持ち、たとえ隣り合った部族どうしでも混じり合うことなく、ひたすら純粋ホモ・サピエンスとしての歴史を今日まで生きてきた。
人間の文化=メンタリティは、基本的には遺伝子の問題ではない。人々がそこでどのように生きてきたかという「歴史」の問題なのだ。
人類は、二本の足で立ち上がる遺伝子を持ったから立ち上がったのではない。立ち上がったからそういう遺伝子になっていっただけのこと。
そういう「歴史」を考察する能力のない思考停止した凡庸な連中が、遺伝子という概念で文化や知能やメンタリティを語ろうとする。
氷河期の北ヨーロッパクロマニヨン人が当時の人類社会でもっとも高度な文化をそなえていたとすれば、それは、ホモ・サピエンスの遺伝子が混入していたからということではなく、その地に50万年住み着いてきたという「歴史」の結果なのだ。
もちろん、ネアンデルタール人があまり寒さに強くないホモ・サピエンスの遺伝子を持ってしまってより生きるのが困難になったから急激な文化の開花が起こったという歴史の状況はあるわけだが、まあ世界の古人類学も、いずれはネアンデルタール人クロマニヨン人という結論に落ち着くことだろう。50年後か100年後か知らないが。
あなたたちが「集団的置換説」を声高に叫べるのは仲間がたくさんいるからというだけのことであって、そこに真実が証明されているからでも、あなたたちの思考がわれわれよりも深く根源的であるからでもない。
ほんとにわれわれよりも深く根源的に考えているという自信があるのなら、誰でもいいからどうかいってきていただきたい。



「別れのかなしみ」という問題に戻ろう。
とりあえず、埋葬の起源から考えてみようか。
ネアンデルタール人は30万年前ころかすでに洞窟の土の下に遺体を埋めていた、という発掘結果もある。
ただほったらかしにしておいただけだ、という説もあるらしいが、そんなことをしたら腐臭がひどくて洞窟が使えなくなってしまう。洞窟の中は、氷河期の冬でも、10度以上の室温があったし、人間が集まってきて火を炊けば、20度近くにもなったことだろう。そのころ、洞窟以外に人間が寝られる場所などなかった。それでどうして死体をほったらかしにして積み上げておいたりするものか。
まあ、洞窟が自分たちの暮らしている場所だから、その下に埋めたのだ。
かなしくてすぐには忘れられなかったから、そうやって「別れ」をはたす猶予期間をつくっていったのだろう。
そのとき人類は、「別れのかなしみ」を深く体験するようになっていた。
誰もが生きられない生を生きていたネアンデルタール人は、「他者を生かす」というコンセプトで集団をいとなんでいた。だから、他者の死を大いに悔やみかなしんだ。
死んでしまったからといって、さっさと近くの谷底に捨てにゆくということはできなかった。
縄文人の集落では、ゴミの捨て場所つまり貝塚と死体の埋葬場所が重なっている例があったりする。それは、ゴミと死体の区別がなかったということではなく、食べたあとのそれらの貝殻や魚とか動物の骨も「供養」しなければならないと思って遠くに捨てにゆくことはしなかった、ということである。彼らもまた生きられない生を生きていたから、自分たちの生を支えてくれたそれらのゴミも、あだやおろそかにはできなかった。肉だけちょうだいして貝殻や骨は捨てるということが後ろめたかったのだ。
遠くに捨てに行った方がずっと集落を清潔に保てるはずなのに、それでもしなかった。これを縄文学者たちは、「再生の祈りを込めてそうした」といっているのだが、うず高く積まれたそれらの貝殻が中身の詰まっている貝に戻るわけでもなし、何が「再生」か。彼ら歴史家は、すぐこんなこじつけをしてくる。
貝塚は、いわば廃墟である。人間は、そんなものに「再生」とか「豊饒」というようなものは見ない。
そんなものは見ないが、しかし、そこは貝の墓場だ、という見方はできる。
おそらく縄文人にとっては、貝殻を捨てることも人間を埋葬することも、どちらも「供養」という行為だった。そしてこの伝統から、修行者の食べ物も「供養」というようになっていったし、日本人は祭壇に食べ物を供えることが好きである。
仏教の供養は死者を極楽浄土に送ってやることだが、極楽浄土など知らない日本列島の供養の作法は、死者との別れをかなしむことにある。
日本列島には、「別れる」ことを祀り上げてゆく文化の伝統がある。縄文人には、「別れる」ということに対する深く豊かな思いがあった。肉と別れて貝殻になる。その「別れる」という事態に対して何か心に引っかかるところがあって、遠くに捨ててしまうということができなかった。まあ貝の肉はそのまま人間の肉になったのだから、そういう愛着や感謝の気持ちもあったのだろうか。
食べることは、その食物との「別れ」でもある。食べるにつれて皿の上のものがなくなってゆく。日本人にとって「別れ」は、人生の大切な儀礼である。だから縄文人は、男と女がいつも出会いと別れを繰り返している社会をつくっていた。
そして人間の死体だってやがては肉がなくなって骨だけになるのだから、そこに埋葬することに抵抗はなかったのかもしれない。
「再生の祈りを込めて」だなんて、やめてくれよと思う。そういうことは、素直に事実のままを解釈してゆかなきゃあ。


人類は、「別れのかなしみ」が極まって埋葬ということをはじめた。
一緒に暮らしたから死者との別れがつらくなるということではない。そんな別れは、人類は最初からしていたし、猿の集団でも同じだろう。
猿社会の順位性は、他者を押しのけて自分の生を優先させようとするコンセプトだろう。その必然的な帰結としてボスが君臨するようになる。
それに対して人類は、生きられるはずがない地球の果てまで拡散していったことによって、他者を生かすことが自分の生きるいとなみになっていった。そうやって猿としての限度を超えた大きな集団になってゆき、他者との別れをかなしむようになっていった。
いや、二本の足で立っているという姿勢そのものが、他者を生かそうとするコンセプトの上に成り立っている。最初からそうやって「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を汲み上げながら拡散してゆく契機を持っていた。
で、氷河期の北の果てに移住していったネアンデルタール人の時代になってそうした「別れのかなしみ」が極まって埋葬という行為が生まれてきた。
それは、「他者を生かそうとする心」の挫折感である。その感慨とともに人類は埋葬をはじめた。そうやって自分たちが暮らす洞窟の土に下に埋めて、挫折感を収拾してゆく猶予期間をつくろうとしていった。すぐには心の整理がつかなかった。まあこれは、縄文人が貝殻を遠くに捨てにゆくことができなかったのと同じ心の動きなのだろう。
考古学で発掘されるネアンデルタール人の骨の半分は子供のものである。子供の骨は土に溶けてしまいやすい。それでも半分も出てくるということは、おそろしくたくさんの子供が死んでいったということであり、子供の死体は必ずといってもいいくらいに洞窟に埋めたということを意味する。
子供は、彼らにとってもっとも深く豊かに「他者を生かそうとする心」を向けてゆく対象である。子供に死なれるほどつらいことはない。なのに、たくさんの子供を生んでたくさんの子供が死んでゆく社会だったのだ。
まあその「別れのかなしみ」は、新しい命が誕生することの「出会いのときめき」によって上書きされていった、ということもあるのだろうか。
その極寒の地で誰もが生きられない生を生きていたから「埋葬」という行為が生まれてきたのだ。
「死後の世界」という概念を持ったからとか、そんなことでは断じてない。彼らは、埋葬することによって死者と語り合っていたのではない。ひたすら「別れのかなしみ」をかみしめていた。そうして男たちは、そんな母親をひたすら慰めた。ここから、ヨーロッパの「レディファースト」の習俗が生まれてきたのだろう。彼らは、ひたすら他者を生かそうとした。生きられない他者を生かそうとしていった。
生きられない生を生きることは、それ自体生から置き去りにされて生と別れている状態である。彼らは、深く「別れ」をかみしめて生きていた。
しかしだから誰も旅立ってゆくことをしなかったかというと、そうではない。「別れ」を知っている人たちだったからこそ、「別れ」を受け入れることができた。あんなにも人がたくさん死んでゆく社会だったのだから、「別れ」を受け入れるということができなければ、誰も生きられなかった。
「別れ」のない豊かで平和な社会だからこそ、「別れ」が受け入れられなくなってしまう。
ネアンデルタール人は、男も女も、日常的に異性のパートナーを取り替えていた。「別れ」を受け入れる社会だったからだ。別れることが生きることだった。
そして、たえず他の集落がら人がやってきて「出会いのときめき」が起きていた。「出会いのときめき」があるから「別れのかなしみ」を受け入れることができるし、「別れのかなしみ」があるから「出会いのときめき」を豊かに体験できる。
ネアンデルタール人の社会は、「出会い」と「別れ」が豊かに生成している社会だった。
彼らは、100キロくらいの行動半径を持っていたといわれている。しかし原始人がろくな道もない原野を100キロも旅をしたら、もうもとの集落に戻ることはできない。半分の50キロでも戻れない。彼らは、戻ることのない旅をしていた。しかしどこに行っても、一夜の宿を借りたりそのまま住み着いていったりすることのできる「出会いのときめき」があったのだろう。そういう人と人の関係性は、現代人の物差しでは測れない。しかし、移民を受け入れたり異人種の子供をよろこんで養子にしたりする現代ヨーロッパの習俗は、まあそうしたネアンデルタール人以来の伝統なのだろう。そしてそんな人懐っこいヨーロッパ人がなぜあんなにもユダヤ人を嫌ったのか、ほんとうに不思議である。また、そのことに思いをいたさず、いつまでも被害者・受難者ぶっているユダヤ人の心もよくわからない。
ともあれネアンデルタール人は、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を深く豊かに体験しながら生きていたわけで、そこから埋葬の習俗が生まれてきた。



ネアンデルタール人は、頭蓋骨に対する親密な感慨があったらしい。
埋葬するときに頭部の肉と皮を剥いで頭蓋骨だけにだけにするということをしていたのだとか。それもひとつの「別れ」の儀式だったのだろう。そうして、まわりに大きな石を置いて位置を固定したりした。で、みんなで歌い踊ったりしたのだろうか。ひたすら泣き続けたのだろうか。
死者との「別れ」を果たすためには通夜は必要だ。
頭蓋骨だけになっていれば、いやでもその人がすでに死者であることを納得するしかない。そして石で囲んで固定したのも、動かない死者であることを深く思い知るためだったのかもしれない。それほどに彼らは、死者が死者であることに受け入れ難い痛切な思いがあったのだろう。そこまでしないと受け入れられなかったし、それほどに他者を生かそうとする思いとともに生きている人々だった。
縄文人が死者の体をうずくまったかたちに折り曲げて屈葬にしたのも、もう立って歩き出す存在ではないということを深く思い知るためだったにちがいない。日本列島では、そうやって甕に入れて埋葬する習俗は農村の一部で近代まで続いた。
ネアンデルタール人にせよ縄文人にせよ、死者が死んでどこか別の世界に旅立ってゆくなどとは思っていなかった。死者がすでに死者であることを深く思い知ることの方がずっと重く切実な問題だった。それほどに彼らは他者を生かそうとしながら生きていたし、他者を生かそうとすることを第一義にしていないと誰も生きられない社会だった。
人類は、生きられない存在になったことによって飛躍的に知性や感性を発展させていった。
少なくとも原始人の知性や感性は、それによって花開いていった。このことは、おそらく文明人の物差しでは測れない。
彼らが埋葬という習俗をはじめたのも、火に対して親密になっていったのも、言葉という音声を交歓するようになっていったのも、猿の限度を超えて大きな集団になっていったのも、生きられない生の中で他者を生かそうとしていったからにほかならない。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、猿であることからも生きる能力からも別れて生きられない身になることであり、誰もが他者との出会いにときめきながら他者を生かそうとしてゆく体験だった。
誰もが生きられない存在である社会では、誰もが他者を生かそうとする。この衝動なしに人類が二本の足で立ち上がるということは実現しなかった。立ち上がったら生きる能力を失うのに、みんなが立ち上がっていったのである。みんなが、他者を生かそうとする衝動とともに立ち上がっていったのだ。



「別れる」という事態は、生き物が生きてあることの根源のかたちである。
原初の生命は、世界から置き去りにされることによって生命になった。「別れのかなしみ」は「置き去りにされることのかなしみ」である。
原始人の埋葬は、置き去りにされたもののかなしみとともに生まれてきた。親しい人に死なれると、生きられない身でありながら生きてあることの心細さがひとしお身にしみる。命のはかなさをあらためて思い知らされる。生きてあることの根拠を失った思いに浸される。
チベットの鳥葬は残酷だという人もいるが、基本的に人間には死んだ人がかわいそうだという思いはあまりないのだろう。むしろ死んでしまった人であることを敬っている。死んでしまった人は身体にとらわれていない。だからといって霊魂だけの存在になったというのではなく、「思う」ということからも解放されている。「思う」ことは生きてあるものが背負っている刑罰のようなものだ。
死者の死者たるゆえんは「身体の苦痛=生きてあることのいたたまれなさ」から解放されていることにある。生き残ったものは、死者の身体を処分することによって、死者がすでに死者であることを納得してゆく。身体を処分されてもなにも思わないことが、死者の死者たるゆえんである。チベットの鳥葬は、ネアンデルタール人が死者の頭の皮や肉を剥ぐのと同じことなのだろう。そういうことに何も思わないところに死者の尊厳があり、それはむしろ、死者の尊厳を祀り上げる行為なのだ。現代人がそれを野蛮だと思うのは、死者には霊魂があって「思う」ことを残していると決めてかかっているからだろう。現代人の感覚の方が野蛮で野暮ったいのかもしれない。というか、生きてあることに居座って死者の尊厳をちゃんと認識していない。頭の皮を剥いだり鳥葬にしたりすることは、死者の尊厳を敬う心がなければできない。彼らはそうやって、「何も思わないし、どこにも動いてゆかない」という死者の尊厳を確認しているのだ。
生きて思ったり動いたりすることは、生きてあることの刑罰なのだ。少なくとも原始人はそう思っていた。
生きてあることは死者から置き去りにされてあることで、その心細さといたたまれなさを胸に溢れさせながら人は、埋葬という行為をはじめた。
原始人は、死者とは「何も思わないしどこにも動いてゆかない」存在だと認識していた。これこそ人が死ぬという事実の正味だろう。まともな知性や感性の持ち主なら、これ以上のことは認識しようがない。そして彼らは、その事実に死者の尊厳を見ていた。
平和で豊かな社会に生きて退屈している現代人ばかりが、あれこれよけいな意味をまとわりつかせている。
「何も思わないしどこにも動いてゆかない」ということの尊厳がある。生きている人間は、その尊厳から置き去りにされている。人間にとって生きてあることは生きられない状況に放り出されることであり、われわれはそこで右往左往して生きている。
よけいなことは思わないで物事の正味を正確に認識する、ということは原始人の方がずっとできていた。現代人は、よけいなことを思って物事の正味を見失っている。
原始人は、よけいなことを思うことに対する羞恥心があった。だからこそ死者の頭の皮を剥ぐことができた。人が死ぬということを正確に見ていた。暇な現代人のような神だの霊魂だの死後の世界だのという水増しした視線は持たなかった。
これは、現代の庶民と知識人の思考の違いの問題でもあるのだろう。この世界から置き去りにされてあるものの思考と、この世界の中心に居座るものの思考の違いがある。
死者から置き去りにされて途方に暮れている原始人が埋葬という行為をはじめた。彼らは死者の霊魂だの死者との対話などというよけいなことを考えなかった。死者から決定的に置き去りにされてしまったという絶望を受け入れてゆく行為として埋葬をはじめた。洞窟の下に埋めたからといって、死者と対話していたのではない。そうやって対話できないという事実と向き合い、ひたすらかなしみながら思い出していたのだ。
現代人なら対話してしまって気味悪がったりよろこんだりするのだろうが、彼らは、その絶望がフェードアウトしてゆくことを体験していただけである。死者のことを思い出すことはしても対話などしなかった。だから、気味悪がりもよろこびもしなかった。ただもう、そのかなしみを味わいつくしていっただけである。味わいつくすことによって、絶望がフェードアウトしていった。かなしみが絶望をフェードアウトさせてくれる。そうして、生き残ることはかなしみに浸されることだと納得していった。
死体を遠いところに捨ててしまったら、ますます絶望が膨らんでくる。
彼らの埋葬は、死者に置き去りにされたという事実と和解してゆくための作法だった。



かなしみは、怒りとか憎しみとか絶望とか、そのような「よけいな思い」をフェードアウトさせてくれる。かなしみが、この生のいたたまれなさをなだめてくれる。
心は、かなしみに浸されてあるとき、よけいなことをあれこれ思うことから解放されている。この生やこの世界をシンプルに眺めている。かなしみは、そういう状態になってゆくひとつのカタルシスでもある。
かなしみとは死と和解している心であり、死と和解することは、この生やこの世界をシンプルに眺めていることだ。死とは、何も思わないことでありどこにも動いてゆかないこと、そうやって世界と調和してゆくこと、世界から置き去りにされながらそういう事態を思うことを「かなしみ」という。
かなしみを知っている人は、この生やこの世界をシンプルに眺めている。人を憎むとか死後の世界を夢見るとか、そういうややこしくよけいなことは思っていない。
原始人にとって他者の死と出会うことは、とてもシンプルな体験だった。よけいなことを思わないで、心がかなしみ一色に染め上げられてゆく体験だった。
かなしみとはいわば「小さな死」であり、この生やこの世界がフェードアウトしてゆく体験である。かなしみに浸されれば、生きてあることのいたたまれなさも忘れてゆく。
なんのかのといって人間にとっての生きてあることはいたたまれないことであり、そこから憎しみだの怒りだの恐怖だの絶望だのというよけいな想念が起きてくる。他者の死に対するかなしみは、それらのよけいな想念がフェードアウトしてゆく体験になる。
いいかえれば、他者の死はいたたまれない絶望を引き起す。その絶望をフェードアウトしてゆく体験として「埋葬」という行為がはじまった。原始人は、その埋葬という行為によって、他者の死をシンプルなものとして受け止めていった。そうしてひたすらかなしみに浸されていった。死者は何も思わないし、どこにも動いてゆかない。そのシンプルな事実を深くかなしみ、そのシンプルな事実にこそ他者の死の尊厳があった。それは、この生のいたたまれなさの対極にある状態だった。
人は死んだら天国や極楽浄土に行くとか、死者と対話するなどということは、この生に居座っているものたちの勝手な妄想であり、純粋に死者を思うということをしていない。
少なくともネアンデルタール人は、居座ることのできるような恵まれた生の環境には置かれていなかった。彼らは、ひたすら死者のことを思った。よけいなことは思わなかった。そうして、ひたすらかなしみに浸されていった。かなしみに浸ることしかそのいたたまれなさをフェードアウトしてゆくすべはなかった。
人類は、埋葬することを思い立ってそれをはじめたのではない。埋葬を知らないものが埋葬を想起できるはずがない。埋葬という自覚がないまま埋葬という行為をしていたのがその起源なのだ。それが、歴史というものだ。
まず、遠くに捨てにゆくことができなくなってしまった、ということがあるわけで、それだけのことだともいえる。しかしその遠くに捨てにゆくことができないという思いがどんなにくるおしいものであったかということを想像してみる必要がある。
それは「他者を生かそうとする衝動」の挫折感だった。ネアンデルタール人は、その衝動によって集団をいとなんでいた。埋葬というか葬送儀礼が本質的には個人的なものではなく集団の行為であるということは起源のときからすでにそうだったのであり、みんなで悔やんだから、みんなで暮らしている洞窟の土の下に埋めたのだ。みんなで死者を取り囲んでおいおい泣いたのだ。そうして遠くに捨てにゆくことができなくなってしまった。
まあ、とりあえずそこに埋めてみんなでその死について考えてみようではないか、ということになったわけだが、そこにどれほど深い嘆きが共有されていたかということについては、神だの霊魂だの死後の世界だのというよけいな想念を持ってしまったわれわれ現代人はもううまく推し量ることができない。
ほとんどの人類学者は、霊魂や死後の世界のイメージとともに埋葬の習俗が生まれてきたと、当たり前のように思っているらしい。
人が死者のことを思い弔うことの根源の心の動きは、そういうことではないのだ。
おそらく縄文人でさえ、霊魂や死後の世界のイメージで埋葬をしていたのではない。まあこういっても誰もうなずいてくれはしないだろうが、そんなややこしい問題ではないだろう。人間なら他者に死なれることのどうしようもない無念やいたたまれなさというものがあるではないか。どうしてそこから考えてゆくということができないのか。
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