人類の文化の起源と発展・ネアンデルタール人12


 クロマニヨンの洞窟壁画が生まれてくる基礎は、絵画技法の問題としてはネアンデルタール人のメンタリティや文化にあるのであって、アフリカのホモ・サピエンスの感性の延長上にあるのではない。
 絵を描いたり埋葬をしたりすることも「象徴化の知能」からうまれてきたと、ごく当然のように人類学の世界では語られているのだが、それはちょっと違う
 牛を牛のように描くことは、画面の図形を牛として象徴させることだ、と彼らはいいたいのだろうが、その絵が牛になっていることくらい猿でもわかるのです。そこにバナナの絵が描いてあれば、手を伸ばして取ってみようとするでしょう。
 描かれたそれが牛であることくらい、赤ん坊でもわかる。赤ん坊が牛の絵を描けないのは、手を上手に動かせないし、牛の輪郭のニュアンスをうまく把握できないからです。赤ん坊のレベルではたとえば牛の腰の丸みの「曲線」に対する感受性がまだ発達していないし、そういう感受性においてはアフリカのホモ・サピエンスよりもネアンデルタール人のほうがはるかに発達していた。
 不思議なことに、3万年前のアフリカ人は牛のフォルムのカーブが上手く描けなかった。それは、彼らの感性が直線志向で、曲線に対する感受性を欠いていたからでしょう。象徴化の思考を持てば牛の絵が上手に描けるというものではない。そんな思考など持っていなくても、その曲線(輪郭線)のニュアンスに対する敏感さがあれば上手に描けるし、そのことのほうがずっと重要な能力なのです。
 人が何かを思ったり感じたり考えたりすることの「切実さ」こそが文化を生み出す契機になるのであって、「象徴化の思考(知能)」という概念で説明がつくと思っているのだとしたら考えることが薄っぺら過ぎるし、人間をなめている。
 余談だが、英語は論理的な言葉で日本語は情緒的だとよくいわれるのだが、そうやって薄っぺらな概念をもてあそんでいれば一見論理的に思考しているように見えるが、そうした「概念=象徴」に収めてしまうことがひとつの思考停止の態度だともいえる。
 そうやって彼らは、原始人の思考や感性の「切実さ」に分け入ってゆくことを放棄してしまっている。人が絵を描くようになったことの契機は、その「切実さ」にこそある。「象徴化の思考」ではなく「ときめき」が絵を描かせるのです。
 論理的な言葉であればえらいというのでもない。
 まあ牛を描こうとすることは、子供でもするのであり、べつに「象徴思考」なんか必要ない。牛の輪郭・かたちのニュアンスがわかってくれば描きたくなるし、へたくそでも本人はちゃんと牛だと思っている。牛にときめけば描くようになるのです。そのときめきの深さが、人間と猿とを分けているのであって、「知能」ではない。知能なんか、猿だって人間と同じくらい持っているのです。
 人類が牛の絵を描けるようになったのは、牛が好きになって牛の形や量感に対する感動が深くなったからであって、その画面が牛であることがわかるようになったからではない。そんな知能は、猿でも持っている。まあ知能なんか発達しなくても、思いの丈があれば描こうとするようになる。



 多くの人類学者は、ネアンデルタールクロマニヨン人の洞窟壁画を、大人がその象徴的社会的な意味を込めて描いたように解釈しているが、無邪気な子供の絵だってたくさんある。小さくて目立たないが、むしろそちらの方が多いくらいです。
 問題は、言葉にしろ絵にしろ、猿にはなくて人間にはどうしてあるのか、ということでしょう。それは、人間の方が知能が発達しているからという以前に、人間のほうが生きにくい歴史を歩んできてたくさんの切実な思いを抱えて生きるようになったからということであり、そういうものが生まれてくるような社会の構造になっていったからでしょう。人間社会の構造が言葉や絵を生み出したのであって、人間の知能が生み出したのではない。
 知能は、言葉や絵などの文化が育っていった「結果」として発達していった。文化が知能を進化させたのであって、知能が文化を生み出したのではない。ここにおいて多くの人類学者は、考えることの後先がさかさまになっている。
 言葉でも絵でも同じです。それらは知能によって生まれ育ってきたのではない。言葉が生まれ育ってくるような暮らしや感慨の歴史があった。人類拡散の果ての地の、人間が生きられないような環境だった北ヨーロッパのほうが、その活きてあることの切実さにおいて、アフリカよりも最初から文化的に発展進化する契機が豊かにそなわっていたのです。
 それは知能の問題ではない。どちらの狩の技術や石器が発達していたかというような問題ではない。生きてあることの心模様の深さや豊かさは、そういう問題ではないのです。知能なんかなくても、その思いの丈さえあれば、自然に文化が生まれ育ってくる。ネアンデルタール人は、そういう心模様の深さや豊かさ(=切実さ)が生まれてくるような、生きにくさを生きる歴史を歩んできたのです。
 人類学者の多くは4万年前以降にヨーロッパに移住していったアフリカ人が文化を花開かせたクロマニヨン人だというが、そうじゃない、ネアンデルタール人がそのままクロマニヨン人になって花開いていっただけなのです。
 べつにそんなこともないと思えるが、たとえネアンデルタール人方が知能が劣っていたとしても、そのころのヨーロッパで花開いていったクロマニヨンの文化はネアンデルタール人の歴史が基礎になっているのです。
 ヨーロッパの文化は、ヨーロッパの歴史とともに生まれ育っていった。アフリカの文化がアフリカの歴史とともに生まれ育ってきたように。



 埋葬の起源も、とうぜん「象徴化の思考」によるといわれているのだが、これもおかしい。
 ここでは埋葬の章で、死に対する人の心模様は二種類あると書きました。
 ひとつは、他者の死を思うこと。
 そしてもうひとつは、自分が死んだらどうなるかを思う自意識。
 人類学者が埋葬の起源と象徴化の思考を結び付けて考えているのは、とうぜん後者の自意識を想定しているはずです。そこから霊魂や天国(死後の世界)という概念が生まれてくる。
 文明人の自意識は、人が死んだらどうなるのかということをとても気にするようになっていった。そうして「死にたくない」とか「死ぬのは怖い」というような気持ちとともに「天国・極楽浄土」や「死後の世界」や「生まれ変わり」の概念をつくり出していった。人類学者はそれをそのまま当てはめ、原始人は「象徴化の思考」でそういうことを思うようになって埋葬という習俗をはじめた、と考えている。
 しかし原始人、とくにネアンデルタール人は、そういう自意識は希薄な人たちだったはずです。彼らはあくまで目の前の「他者の死」を深く悲しんだことを契機にして埋葬をはじめただけなのです。
 彼らは「もういつ死んでもいい」と思い定めて生きていた。原始人にとっての氷河期の北ヨーロッパは、そう思い定めないと生きていられないほどに苛酷な環境だった。
 彼らにとって死は、「今ここ」のことで、「未来」のことではなかった。だからとうぜん、死んだあとの未来のことも思わなかった。彼らは「今ここ」に憑依してゆくことでしか生きていられなかったし、そういう思い方しかできない人たちであったのであれば、死もまたその方法で思うしかなかった。死は今ここにおいて消えてゆくこと、彼らはそう思っていた。
 自分という存在が今ここの世界に溶けて消えてゆくこと……そういう感覚は誰の中にもある。たとえば体を動かすことは、まさにそういう感覚です。上手に体を動かすことができる人ほどそうした自分の体が消えてゆく感覚を持っている。体がスムーズに動くとは、そういうことで、体が勝手に動いてしまって、体に対する意識は消えている。
 人間が二本の足で立って歩くとき、体のことを忘れてしまっている。そういう心地になれるのが直立二足歩行です。それはまさに「自分(=身体)がこの世界に溶けて消えてゆく」心地です。つまり、人間の生きるいとなみそのものがすでに「自分(=身体)がこの世界に溶けて消えてゆく」体験になっている。だから死だって、そのような体験だとイメージしてゆくのが自然です。自意識が希薄な原始人は、死をそのようにイメージしてゆくことができた。 
 自意識が肥大化した文明人ばかりが、「死後の世界」だの「生まれ変わり」だのと騒いでいる。われわれはもう、他者の死よりも、自分の死のほうが気になってしょうがない。
 しかし「もういつ死んでもいい」と思い定めていた原始人は、自分のことを忘れてひたすら他者の死を思った。他者の死を思いながら生きた。じっさいネアンデルタール人の暮らしでは、日常的に他者の死が起きていたから、他者の死を忘れるいとまがなかった。
 彼らの暮らしの基本的な作法は「他者を生かす」ということにあり、みんなで他者を生かし、みんなで他者の死を悲しんでいた。彼らは死者を思い、死者とともに生きていた。そうやって死者とともに生きる作法として、自分たちの暮らしの場である洞窟の土の下に死者を埋葬するという習俗が生まれてきた。
 洞窟の土の下に死者を埋葬していたということは、いつも死者のことを思いながら暮らしていた、ということです。
 彼らは、他者が死後の世界に行ってしまったとか、何かに生まれ変わったとは思わなかった。「今ここ」に自分たちと一緒にいる、と思っていた。その思いを深くするための埋葬だった。
 それはきっと、「象徴化の思考」ではなかったはずです。ひたすら事実をそのまま率直に受け入れてゆく思考です。あくまでリアルな現実的思考です。
 死者の霊魂が死後の世界に旅立っていったとか生まれ変わったと象徴化して考えてしまったら、埋葬は生まれてくるはずがない。そう思えるのなら、死体なんかどこかに捨ててしまえばいいだけです。



 人類の文化は「象徴化の思考」によって生まれ育ってきたのではないし、知能が生み出したのでもない。自分たちの生きてある状況を率直直截に受け入れてゆくとき、状況から文化が下りてくる。
「象徴化の思考」なんかしてしまったらだめなのです。原始人はあくまでリアルに率直直截に状況と向き合っていたのであり、そこから深く豊かな感慨が生まれてくるようになった。その感慨とともに文化が生まれ育ってきた。それはあくまで状況からもたらされるのであって、人間の知能が生み出すのではない。
 人の心は、この生からはぐれていってしまう。そうやって「もういつ死んでもいい」と思いながら、生きのびようとする能動性を失ってゆく。しかしそこから心は華やぎ、他者や世界に豊かに反応してゆく。もうリアルに率直直截に反応してゆく。おそらくそうやって言葉や絵や埋葬の文化が生まれ育ってきた。
 心がこの生からはぐれてゆくというところから人類の文化が生まれ育ってきたのであって、生きのびようとする能動性とともに紡ぎ出されてゆく「象徴化の思考」によってではない。「死後の世界」や「生まれ変わり」をイメージしてしまったら、埋葬なんか生まれてこなかった。
「象徴化の思考」もくそもない。ただもう他愛なく世界や他者にときめいていった。それが、文化の進化発展の契機です。言葉の起源における仲間との関係も、洞窟壁画の起源における動物との関係も、埋葬の起源における死者との関係も、すべてそういうことです。心がこの生からはぐれてゆくからこそ、そういう豊かなときめきが生まれる。
 人類は歴史は、生きのびることに邁進できるほどこの生の可能性が約束されているわけではなかった。むしろ、生きのびることの不可能性を背負って歴史を歩んできた。しかしだからこそ心は、そこから華やいでいった。人間は、「世界の終わり」から生きはじめる。
 ネアンデルタール人ほど生きのびることの不可能性を背負って生きていた人々もいなかった。そこではもう、人がかんたんに次々に死んでいった。心がこの生からはぐれてしまうという人間性の基礎がそこで極まった。そこから人類の文化の発展の歴史がはじまった。
 ネアンデルタール人からクロマニヨン人への連続性の証拠は、文化的にも生態的にも遺伝子的にもいくらでもある。ただ、それを認めたくない人類学者がまだまだたくさんいる、というだけのことです。
 理屈と膏薬はなんにでもくっつく。それが、先史時代を考察する学問を混乱させてしまっている。そうやって「集団的置換説」という倒錯した認識がいまだに幅をきかせている。とくにこの国ではそうです。みんなしてそんなおかしなことを合唱している。
 しかし先入観を捨てて率直直截に問うてゆけば、4万年前以降のアフリカ人がヨーロッパに移住していったということなどあるはずがないし、ネアンデルタール人が滅んだということもありえない。人間は根源的にどのようにして生きてある存在かという問いからはじめるなら、そんなことはありえないのです。
 そこのところで「集団的置換説」の研究者の考えていることは、ほんとに陳腐で倒錯的です。しかし現代社会は、陳腐で倒錯的な言説のほうが説得力があるという悲しい状況になっている。みんなが自意識に執着してそこに立って原始人という他者を裁定しようとするなら、下部構造決定論や労働史観になってゆくしかない。そうしてなんとも安直な「象徴化の知能」だの「アニミズム」だのという問題設定で原始人の生態とその心模様を決め付けてしまう。
 人間というのはそういう存在ではないだろう……ここではひとまずそういうスタンスに立って考えてきたわけです。
 人が生きてあることにうんざりしていたっていいではないか。それが人間の自然なんだもの。生き物がこの世に生まれ出てくることはひとつの過失です。人間は、二本の足で立ち上がって以来、そういう心模様を持ってしまうような歴史を歩んできたのです。心は、そこから華やいでゆく。そこから思考は深化してゆく。そこから行動はダイナミックになってゆく。
 人類の歴史を「集団的置換説」などという陳腐で愚劣な結論ですませていたら、われわれの思考や行動はますます痩せ細ってゆく。
 これはつまり、人と人はどのようにしてときめき合っているかという問題です。原初の人類はそういう体験として二本の足で立ち上がったのであり、人類の文化と発展だって、つまりそこのところが基礎になっている。われわれ現代人にしても、その体験さえあればなんとか生きていられるし、その体験を通過して死んでゆくのでしょう。



 人類は、たくさんの死者を見送りながら歴史を歩んできた。
 死者を見送ることが生きることだった。そんな生のかたちが、ネアンデルタール人のところで極まった。
 自分の死を思うことでなく、他者としての死者を思うことが人間性の基本です。そういう歴史の無意識がわれわれの感じ方考え方の基礎になっている。
 自分の死を思うのは「死にたい」とか「死にたくない」と思うことであり、それに対して「もう死んでもいい」というかたちで死を忘れているのが、ネアンデルタール人が用意してくれた人間性の基礎です。それは生きることも死ぬことも超越してゆく心模様です。人の心は、そういう「飛躍=ときめき=ひらめき」の動きを持っている。
 人間は、死者を思う。死者とともに生きている。そうやって死を忘れている。
 われわれは、死者に対して、生きていたときよりももっと深い親密な感慨を寄せてゆく。死者を思うことが、人類により深く豊かな「ときめき」の感慨をもたらした。他者に対するときめきはもちろん、知的な探究心や芸術的な感動にしても、死者を思う歴史とともに深まってきた。
 死者を思うことこそ、人類の文化の進化発展の契機になった。
 ただの思わず発してしまう音声だけではすまなくなってそれを言葉にしていったのは、ようするにその音声により親密になっていったからです。そういうより親密になってゆく心の動きが、死者を思う体験とともに深まっていった。
 ただのいたずら描きが洞窟壁画の牛の絵になっていったのは、牛に対しても描くことに対してにも、より親密になっていったからでしょう。
 火に対して親密になっていったのは、それが死者に対して親密になってゆく心の動きを反芻する体験だったからでしょう。人間がほかの動物と違って火に対して親密になれたのは生きてあることのいたたまれなさを抱えている存在だからであり、そうやってわれわれは火のゆらめきとともに自分が闇に溶けて消えてゆくような心地を体験している。そこには、このいたたまれない生からはぐれゆくカタルシスがある。それがまさに「死者を思う」という体験です。
 人は、死者を思いながらこの生からはぐれてゆく。この生からはぐれながら、死者を思ってゆく。べつに具体的に死者のことを思い浮かべなくても、人はすでにそういう心模様を歴史の無意識として持っている。人類は死者を思いながら歴史を歩んできた。
 人類の親密になってゆく心模様それ自体が、死者を思う意識として育ってきた。
 ネアンデルタール人にとって死者は、すでに天国に行ってしまったり生まれ変わったりしている不在の「象徴=記号」ではなく、「今ここ」のこの生に同行しているリアルな対象だった。人類は、死者を思うことによって、より深く豊かなときめきを獲得してきた。 
 べつに象徴思考などという知能が文化を生み出したのではない、人類のより深く豊かなときめきのもとに文化が下りてきただけです。
 死者のことを思いながらこの生からはぐれてゆけば、「もう死んでもいい」という感慨とともに心は受動的になってゆく。その受動性で世界や他者に深く豊かに反応してゆく。人類の文化は、「象徴思考」で能動的に生み出していったのではなく、この社会にすでに生成している現象に気づいていっただけです。この「気づく=ときめく」という受動的な心の動きが発達したことは、人と人が親密になってゆく集団性が発達したことと同義です。
 知性や感性が豊かだということは「ときめき」が豊かだということです。
 人は、ときめきを失って心が病んでゆく。



 ネアンデルタール人ほど深く豊かに世界や他者に気づいて(ときめいて)いった人びとはいなかった。その社会は、同時代のアフリカのホモ・サピエンスの社会よりもずっとダイナミックだった。知能以前の問題として、それはもう、そうだったのです。
 人類の知性や感性や社会性の基礎には、「死者を思う」という歴史が横たわっている。そしてそれをもっとも深く豊かに体験していったのがネアンデルタール人であり、彼らによってその後の人類の知性や感性や社会性の基礎がつくられた。
 なんといってもわれわれの現代社会だって、「ときめく」という心模様の上に動いている。「ときめく」という体験をしなければ人は生きられないし、「ときめく」という心模様こそが知性や感性や社会性を育てる。
「ときめく」とは、「気づく」ということ。人類の言葉の起源は、心の中に言葉が浮かんできたのではなく、「今ここ」の目の前に言葉が存在していることに気づいてときめいてゆく体験だった。それは、生きようとする能動的な体験ではなく、「もう死んでもいい」とこの生からはぐれてゆく体験だった。そうやってこの生の裂け目の向こうをのぞき込むようにして、言葉に気づいていった。
 文化という非日常性、人の心は、この生からはぐれ、この生の裂け目の向こうの非日常の世界に気づいてゆく。それが「死者を思う」という体験であり、「ときめく」という非日常性です。人類史においてそういう心模様がどんどん深く豊かになってゆき、この体験とともに文化が生まれ育ってきた。
 より深く豊かに気づき、より深く豊かにときめいてゆく。人類の「死者を思う」という歴史は、この生からはぐれながらより深く豊かに気づきときめいてゆくという心模様をもたらした。



 ネアンデルタール人の母親は、生涯に十人近くの子を産み、その半数以上は乳幼児の段階で死んでいった。またその死は、集団のみんなで弔い埋葬していた。そこはもう、大人も子供も、次々に人が死んでゆく社会だった。彼らの生は、そのようにして死者を思うこととともにあった。そこでは、死者を思いながら深く豊かに気づきときめいてゆく心が育っていった。いやもう人類は、直立二足歩行開始のときからすでに、たくさんの死者を見送りながら生きるという歴史を歩んできた。死者を見送り死者を思う体験が人類の歴史をつくってきた。
 人間の心模様の基礎には、「死者を思う」というかたちがある。そうやって心は非日常の世界で華やいでゆく。人類の歴史は「死者を思う」歴史だった。それはもう、現代社会を生きるわれわれの心の通奏低音でもあるはずです。心は、この生からはぐれて非日常の世界に入ってゆく。そうやって人は、言葉がこの社会で生成していることに気づいてゆく。赤ん坊はたぶん、そのようにして言葉を覚えてゆく。
 人の心は、「非日常」の世界に入ってゆくという「飛躍=ときめき=ひらめき」を体験する。それは、「象徴化」ということとは違う。
 言葉は、われわれの心の中で生成しているものではなく、この社会で生成しているのであり、われわれはただそれに気づいてゆくだけです。この気づいてゆく心の動きが、非日常の世界に入ってゆく「飛躍=ときめき=ひらめき」です。
 流行語は、まさに社会で生成している言葉です。人間社会が流行を生み出すということは、人間の心模様が「気づく」というはたらきの上に成り立っていることを意味する。
 ヨーロッパのネアンデルタール人とアフリカのホモ・サピエンスとどちらの言葉が発達していたかという問題は、どちらの知能が発達していたかという問題ではなく、どちらの社会がより豊かに言葉が生成する構造を持っていたかという問題です。社会が言葉を生み出したのであって、人間が生み出したのではない。つまりそれは、人間の知能が「象徴化」したのではなく、心が飛躍しときめきひらめいて気づいていったのです。
 豊かに言葉が生成している社会だから、人びとの「気づく=ときめく」という心のはたらきも深く豊かになってくる。そういう受動的な心のはたらきとともに、人類の文化が育ってきた。
 ネアンデルタール人が埋葬をはじめたのも洞窟壁画を描くようになったのも、彼らの社会で生成している現象に彼らが気づいてゆく体験だった。
 気づくとは、この生からはぐれて非日常の世界に入ってゆくこと。彼らの心はつねにこの生からはぐれていたし、つねに豊かに気づきときめいていた。
 しかしはたしてわれわれの現代社会および現代人は、そのようなダイナミズムを持っているだろうか。われわれだってそのようにして生きてあるはずだが、文明人の自意識という観念でその無意識のはたらきを封じ込めてしまってもいる場合も多い。
 人は、ときめく心を失って精神を病む。
 人の心が「飛躍=ときめく=ひらめく」というダイナミックな動きを持っているということは、人の心はこの生からはぐれてゆくということであり、そこで「非日常」の世界と出会う。人は、その喪失感から生きはじめる。心はそこから「気づく」というはたらきとともに華やいでゆく。ネアンデルタール人が教えてくれるのはそういうことで、われわれ現代人だって基本的にはそのようにして世界や他者に反応しながら生きているはずなのに、この生や自分に対する執着を手離そうとしないまま、豊かな反応や華やぎを失って心を病んだりしている。
 この社会では、自意識をたぎらせて出世してゆくし、自意識に縛られて心を病んでゆきもする。現代人は、そういうややこしさの中に置かれている。
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