知能の問題で語るな・ネアンデルタール人論・13

 現在の人類学では、「アフリカのホモ・サピエンスの知能」という問題設定で人類の文化が生まれ育ってきた契機を語ろうとするが、そうじゃないのです。ヨーロッパのネアンデルタール人こそ、人類の文化が生まれ育ってきたことの基礎になっている人々なのです。そしてそれは「知能」の問題ではない。心のはたらきの非日常性、すなわち「ときめき親密になってゆく心模様」による「気づく」という体験とともに文化が生まれ育ってきた。北ヨーロッパの氷河期を生きたネアンデルタール人は、同時代の世界中のどこよりも深く豊かにそうした体験をしていたのです。
 人類の文化が生まれ育ってきた現象の契機や本質について考えることは、人類の知性や感性や社会性の基礎について考えることであり、われわれが生きてあることに対する心模様の基礎、すなわち無意識を問うことでもあります。
 われわれは、そういう知性や感性や社会性の基礎を、人間としての無意識のレベルでネアンデルタール人と共有している。
 われわれの無意識の本質的なはたらきは「死者を思う」ということにある、そういうことをネアンデルタール人は教えてくれる。
「死者を思う」無意識のはたらきとともに人類の文化が生まれ育ってきた。人類は、「死者を思う」という無意識を共有している。われわれの探究心も感動も、ここに基礎がある。 
 人間社会の動きそのものに、「死者を思う」という無意識がはたらいている。それは心がこの生からはぐれて「非日常」の世界に入ってゆくこと、すなわち「ときめく」という心の動きです。
 しかし現代社会の大人たちは、「生命の尊厳」などと合唱しながら「心がこの生からはぐれて非日常の世界に入ってゆく」という「ときめき」が希薄になっている。彼らの自意識は自分の生と死に関心があるだけで、他者としての死者に対する視線がない。彼らは、人を吟味・裁定しようとする意欲は旺盛だが、人にときめいてはいない。それに対して若者の「かわいい」という他愛ない「ときめき」がどんなに人間として本質的な心模様であるかということは、大人たちにはわからない。 
 

今どきのこの国の若者たちの「かわいい」という他愛ないときめきの基礎は、ネアンデルタール人のところにある。
 ネアンデルタール人ほど乳幼児という小さな命をけんめいに生かそうとした人々もいない。そこでは、半数以上の乳幼児が寒さに負けて死んでいった。「どうか生き残ってくれ」という思いは、そりゃあもう切実だった。乳幼児のその姿や表情に、誰もが一喜一憂していた。人類の乳幼児に対する「かわいい」とときめく心は、そこから生まれ育ってきた。ネアンデルタール人ほど深く切実で豊かな「ときめき」は、われわれにはない。ともあれわれわれだって赤ん坊を見て「かわいい」と思うわけで、その心模様は、人類の歴史の無意識として彼らから引き継いだものであるはずです。
 人間がなぜそんなにも深く豊かに「かわいい」とときめくかといえば、それほどに「死者を思う」という体験を無数に繰り返して歴史を歩んできた存在だからです。心がこの生からはぐれて「非日常」の世界に入り込んでしまうことが「死者を思う」ことであり、「かわいい」とときめくことです。人の心は、それほどに深く豊かに世界や他者に気づきときめいてゆく。人の心は、この生からはぐれながらときめいてゆく。
 人類の文化の基礎は、死者を思いながらこの生からはぐれてゆく「喪失感」にある。人間社会は無意識においてそうした「喪失感」を共有しているから「かわいい」とときめいたり死にそうな者をけんめいに生かそうとしたりする動きが起きてくるわけで、それがそのまま芸術的感動や学問的探究心になったりもしている。
 現代人はどうして自意識が人間性の基礎であるかのように考えたがるのだろう。そういう物差しで人類史の起源を語るから、あれこれつじつまが合わないことを隠して妙なこじ付けばかりしなければならなくなる。
 現代人は他者を説得し支配しようとする自意識が旺盛で、それを人間性の基礎だということにして、「言葉は伝播していった」という倒錯した論理を捏造している。そういう自意識が、現在の起源論をおかしなものにしている。
 人類社会から文化が生まれ育ってきたことは、「象徴化思考=知能」の問題ではない。人が「今ここ」に生きてあることのひりひりした感慨の問題です。人は「象徴」を生み出すのではなく、それに気づいてゆく存在なのです。心の中に言葉が浮かんでくるというようなことはない、心は、自分の外で生成している言葉に気づいてゆくことができるだけです。
 人類が言葉を話すことも絵を描くことも葬送儀礼をすることも、「知能による象徴化」ではなく、「象徴に気づいてゆく」ことであり、あくまで受動的な体験です。
 人間は、根源において生きてあることに対する「喪失感」を抱えて存在している。心はそこから華やいでゆく。


 生きてあることを嘆いている人は、心が華やいでゆく契機を持っている。嘆いている人に「生きようとする意欲を持て」といっても無理な話です。人は、生きようとする意欲によって生きているのではなく、心が華やいでゆく体験によって生かされている。
 氷河期の北ヨーロッパを生きたネアンデルタール人に、生きてあることの嘆きから逃れるすべはなかった。彼らは「もう死んでもいい」というところから生きはじめた。そこから心が華やいでゆき、生のいとなみになっていった。彼らほど深く嘆いている人々もいなかったし、彼らほど心が華やいでゆくカタルシスを知っている人々もいなかった。
 彼らは赤ん坊の死を深く嘆いて埋葬をはじめたわけだが、彼らほど赤ん坊の愛らしさにときめいていた人々もいなかった。半分以上の乳幼児が次々に死んでゆく環境で、それでもそれ以上に産み続けながら集団として生き残ってゆくことができたのは、それほど赤ん坊にときめいていたからであり、集団や人と人の関係にそれだけの華やいでゆくダイナミズムがあったからでしょう。彼らはもう、他愛なくときめき合って毎晩セックスしていた。相手を選ぶ自意識が希薄な人びとの乱婚社会だった。誰もが、「この生=自分」からはぐれてしまっていた。
 人類学者は、彼らの身体は極寒の環境に適応していたというのだが。白熊やアザラシではないのだから、人間の体がそうかんたんに適応していたはずがない。彼らは、適応できない「嘆き=喪失感」を生きていたのであり、そこから心が華やいでいった。誰もが適応できない体をを抱えて、個体としてのひりひりした「孤立感=疎外感」を生きていた。しかしそこから心は、世界や他者に深く豊かにときめき華やいでいった。われわれ現代人はもう、彼らほど本質的な生存のかたちであることなんかできないが、ここに人間存在の原点があるということは承知しておいてもよい。言葉や洞窟壁画や埋葬の起源や人類の文化の基礎は、ネアンデルタール人の生存のかたちに照らし合わせてはじめてつじつまが合う解釈ができる。
 それは、われわれ現代人の生きてあるかたちの基礎でもある。われわれがそれについて考えるとき、「自己意識」や「生命の尊厳」や「下部構造決定論」や「労働史観」などという概念を物差しにしていてはつじつまが合わなくなってしまう。そんなふうに歴史が流れてきたのではない。
 ネアンデルタール人はけっして弱い人々ではなかったが、人間が生きられるはずのない環境で「この世のもっとも弱い存在」として生きた。われわれが人間とは何かと問うなら、その基準は、上手に生きている幸せな人のもとにあるのではなく、「この世のもっとも弱い存在」として生きている人のもとにある。そこにこそ人間性の基礎・本質がある。
「象徴化の思考」だなんて、何をくだらないことをいっているのだろう。自意識を人間性の基礎とし、「上手に生きている幸せな人」を人間の基準に考えているからそういうことになる。
 しかしもう、今のところはそれが世の趨勢です。
 人の心の底には「死者を思う」無意識が息づいている。その心とともに人類の文化が生まれ育ってきた。たったこれだけのことをいうのにも、われわれは世界中を敵にしないといけない。
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