文化の起源の契機・ネアンデルタール人論57

 4〜3万年前の氷河期の北ヨーロッパクロマニヨン人が出現したことによって人類の文化が本格的に花開いてきた、ともいわれている。
 そのクロマニヨン人は、北ヨーロッパの先住民であるネアンデルタール人の末裔であるか、それともアフリカから移住してきたホモ・サピエンスか。この国の人類学フリークのあいだでは後者であると当たり前のように合意されているが、それは今なお世界中で議論されている問題であって、まだ結論が出ているわけではないのです。
 ここでは、そのころ北ヨーロッパに移住してきたアフリカ人などひとりもいない、という問題設定で考えを進めています。
 アフリカのホモ・サピエンスはアフリカが住みにくくなってヨーロッパにやってきただなんて、何をくだらないことをいっているのだろう。そのころの北ヨーロッパは地球上でもっとも住みにくい土地だったのであり、南ヨーロッパでさえ気候が乾燥寒冷化してアフリカよりももっと住みにくかった。そしてその比較的住みよかったはずの南ヨーロッパのほうが北ヨーロッパよりもクロマニヨン人になってゆくのが遅かったのです。このことが何を意味するのか。アフリカ人が住みよい土地を求めてやってきたのなら、まず南ヨーロッパが最初に席巻されたはずではないか。
 そのころ北ヨーロッパネアンデルタール人が、地球上で、もっとも生きにくさを生きる生態の文化を発達させていた。これはもう考えるまでもない当然のことで、彼らは氷河期の極北の地で50万年間生き残ってきたのです。それによってどんな生態の文化が発達してきたかということを今どきの世界の人類学者は何も考えていないし、その生態の文化は、現代を生きるわれわれの中にも歴史の無意識として残されている人類共有の遺産であるはずです。
 われわれ日本人が「寒い」という言葉を持っていることだって、それはそれで人類共有の歴史の無意識としてのネアンデルタール人の遺産なのです。
 人間は生きにくさを生きようとする生態の文化を持っている。<「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)>を汲み上げることのできる生態の文化を持っているのです。その生態の文化でネアンデルタール人は氷河期の極北の地に住み着いていったのであり、その生態の文化がわれわれ現代人の中にも歴史の無意識として残っているから「寒いね」というのです。


 4〜3万年前の北ヨーロッパネアンデルタール人は、生きにくさを生きる生態の文化を極限まで発達させていた。だからそのころ氷河期の寒さが一時的に緩んでくれば、いち早く寒さのために歪んでしまった体型や体質が修復されてくる。そうやって南ヨーロッパネアンデルタール人よりも早く体型や体質が修復されていったのであり、べつにアフリカ人がそこにやってきて住み着いたのではない。気候が緩んでくれば体型や体質の歪みが修復されてゆくということは、人類の歴史の事実です。
 20〜5万年前のヨーロッパとアフリカの中間の地域である中東の人類は、数万年ごとの氷河期と温暖期で体型や体質が繰り返し変化していた。これは、すでに考古学の発掘調査の結果として証明されていることです。彼らは、温暖期にはホモ・サピエンス的な体型や体質になり、氷河期になればネアンデルタール人的になっていった。
もっとも今どきの人類学者はこれを、温暖期にはアフリカからホモ・サピエンスがやってきて、寒冷期には北からネアンデルタール人が下りてきて先住民を追い払った、などと合唱している。
まったく、アホじゃないかと思う。中東には中東人がいただけでしょう。人類は200万年前からそこに住み着いていた。そしてそこは砂漠化した現代とは違って、もっとも緑豊かで食料資源に恵まれた土地だった。であれば、200万年前からそこに住み着いてきた人類がいなかったはずがないじゃないですか。
10万年前はひとつ前の温暖期で、そこの中東人はホモ・サピエンス的な体型になっていたのだが、ヨーロッパではまだネアンデルタール人的な体型のままだった。それは、彼らの生態の文化が、温暖期になってもまだその体型になってゆけるだけのレベルになっていなかったからでしょう。北アフリカ南ヨーロッパでは、温暖期であれ寒冷期であれ、地中海を挟んでかなり気候が違う。温暖期でもヨーロッパはまだ寒さを克服できるレベルの生態の文化になっていなかったし、それは北ヨーロッパネアンデルタール人によっていち早く獲得されていった。彼らはもう、極限までその生態の文化になっていた。その「生きにくさを生きる」生態とともに人類の文化が飛躍的に花開いていったのだし、彼ら自身の体型や体質もその歪みが修復されていった。。
ヨーロッパから中東・北アフリカにかけてのネアンデルタール人の世界では文化がたちまち伝播してゆく生態を持っていたが、アフリカは今でも隣り合った部族間で言葉が通じなかったり憎み合ったりする生態が色濃く残っている。まあ今でも世界中の人類がそんな生態を残しているのだが、アフリカほどではない。それなりに見知らぬものどうしでもときめき合う生態も兼ね備えているが、アフリカはもう、かんたんには遺伝子や文化が伝播してゆかない生態の歴史を極限まで生きてしまった。おそらくその生態は、アフリカ人どうしでは克服できない。アフリカ以外の異人種との交流によって克服されてゆくのでしょう。言い換えれば、彼らほど近親相姦的な憎悪が強い人々もいないと同時に、彼らほど異人種との出会いに驚きときめく人々もいないということかもしれない。
 世界中のどこにも、救世主待望の伝説は残っている。人類が定住をはじめると、その閉塞感から自然にそういう伝説を持つようになるのだが、アフリカはもう、歴史のはじめから拡散してゆかない定住のメンタリティで生きてきた。


ともあれクロマニヨン人の文化もまた、氷河期の極寒の環境から生まれてきたのであり、それは、どちらが上手にその環境を潜り抜けていったかという問題ではなく、どちらがその苛酷な環境を生きることの嘆きを深く知っていたかということであり、その嘆きから心が華やいでクロマニヨン文化として花開いていったのです。
その環境を上手に生きることによって洞窟壁画などのクロマニヨン文化が花開いてきたのではない。ヨーロッパのネアンデルタール人であれ、アフリカのホモ・サピエンスであれ、原始人が氷河期の北ヨーロッパを上手に生きてゆけるはずがない。クロマニヨン人だって、その厳しい寒さにほんろうされて生きていたのです。彼らは、氷河期の寒さがいったん緩んですらりとした体型になっていったが、そのあと厳しい寒さがやってくれば、またもとのネアンデルタール人のずんぐりした体型に戻っていったのです。彼らもまた、それほどにその厳しい寒さに四苦八苦して生きていた。そしてその生きてあることのいたたまれなさからクロマニヨン文化が花開いてきた。
いったんすらりとした体型になってしまったクロマニヨン人は、かつてのネアンデルタール人のときのような寒さに対する耐久力はなかった。その体型で最終氷期の激烈な寒さに襲われれば、上手に生きるどころではなくなってしまう。
クロマニヨン文化の開花は、ネアンデルタール人よりも上手に生きていたからではなく、もっと四苦八苦して生きていたところから起きてきたのです。ネアンデルタール人のときよりももっとかんたんに人が死んでしまう状況になってゆき、そこから「埋葬の文化」がさらに充実していった。
クロマニヨン人のほうが、ネアンデルタール人よりももっと「滅亡の危機」は深刻だったのです。置換説の研究者のいう「ネアンデルタール人よりも寒さの中を生きる能力においてまさっていた」だなんて、きっと大嘘です。そうやってネアンデルタール人が落伍していったのではなく、ネアンデルタール人がもっと寒さに弱いクロマニヨン人になっていっただけです。そうしていっそう四苦八苦したから文化が花開いてきた。クロマニヨン人によって人類の文化が本格的に花開いてきたということは、そういうことを意味する。その「生きられない」という状況から人の心は華やぎときめきながら、知性や感性が生まれ育ってゆく。


 もともとアフリカの熱帯種であった人類が寒さの中で生きてゆくのに必要であったものは、寒さに耐えられる体ではなく、寒さに四苦八苦しながらそこから華やぎときめいてゆく心だった。その「無能性」こそが、人類の文化が花開いてゆく契機になった。
 人類史において、寒さに耐えられる体を獲得した人類などいない。ネアンデルタール人だって、寒さに震えながら体型や体質が歪んでいったのです。彼らは、寒さに震えながらそこから心が華やぎときめいてゆく生態の文化を持っていただけです。誰もが生きられなさに身を置きながら、誰もが生きられない他者を生かそうとしていった。それは、たんなる倫理道徳の問題ではない。たとえば人類が持っている高度な連携プレーだって、そういう他者を生かそうとする心の動きの上に成り立っているのであり、それは寒さに震えながら生きたネアンデルタール人の遺産なのです。なにはともあれそれによって人類は、猿のレベルを超えた大きな集団を持つことができるようになっていった。人類は50万年前に北ヨーロッパという氷河期の極北の地に住み着いてゆき、そういう生態の文化を育ててきたのであって、ネアンデルタール人といえども寒さが平気な体であったのではない。
 人類は50万年前に氷河期の北ヨーロッパに住み着いていった。そこは彼らが生きられる環境ではなかったのに、それでもさらに、寒さから身を守るための体毛が抜け落ちていった。それによって、さらに寒さの中で生きられない体になっていったはずです。生きられなさを生きようとするのが人類の生態で、心はそこから華やぎときめいてゆく。
 まあネアンデルタール人クロマニヨン人になっていったことは、氷河期の極北の地を生きる身でありながら体毛が抜け落ちていったことと同じような歴史体験だったのかもしれない。
 人類は、極寒の地まで拡散してゆくことによって、ますます寒さに耐えられない体になってきた。人類にとって寒い地域で生きることは、寒さに耐えられないことを生きることだった。そうやって人類は、生きられなさを生きながら歴史を歩んできた。人の心はそこから華やぎときめいてゆく。
 ネアンデルタール人クロマニヨン人という寒さに耐えられない体になってゆくことはもう、歴史の必然だったのかもしれない。


 人の生の無能性、人の心は「生きられない」と嘆きながら華やいでゆく。
 人は、みずからの現在を「これじゃあだめだ」と否定しながら、より高度な知性や感性や技術や体力を獲得してゆく。学問であれ芸術であれ職人技であれスポーツの能力であれ、そうやってより高度になってゆく。大人はそこのところの自己評価が甘く、それはもう知性や感性や技能の停滞そのものであり、一方、子供や若者は避けがたくみずからの無能性を嘆きながら生きている。
 自己評価が甘くて自分が有能なつもりの親に育てられたら、子供だって自己評価が甘くなって中途半端な知性や感性や技能しか得られなくなってゆく。いいかえれば、親に中途半端な知性や感性や技能でえらそうにされたら、子供だって「へえ、人間なんてその程度でいいのかねえ」と思ってしまう。また、「ほめて育てる」などといっても、それによって自己評価の甘い子供になってします危険もある。そうして広い世間に出たときに「上には上がある」と思い知らされて挫折感に打ちひしがれてしまったりする。
「これじゃあだめだ」と認識できる知性や感性はどのようにして育ってゆくのか。それが問題です。「無能性」を生きることによって知性や感性や技能が育ってゆく。それが人間性の基礎であり究極のかたちでもある。
 ネアンデルタール人クロマニヨン人も、寒さに耐えられなかったのです。その耐えられなさ(=生きられなさ)を生きることのその「無能性」こそが、人類の文化が花開いてゆく契機になった。
 この生は、「無能性」すなわち死と生のはざまで、もっともいきいきとはたらく。その死に対する親密な感慨が人類史に「埋葬」という習俗が生まれてきたことの契機であり、現在のニートやフリーターなどの無能な若者たちだって、人間性の普遍・自然としての死に対する親密な感慨を持ってしまったからそういう生き方をするほかないのかもしれない。彼らが好きな「かわいい」ものもまた、死と生のはざまに存在する生きられなさを生きる小さくて弱いものものです。人の心はそういう対象に癒され、そこから華やぎときめいてゆきもする。
 人の心は、生き延びることのできない無能性を生きようとする。人間の本能(のようなもの)すなわち人間性は、生き延びようとすることではなく、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに死と生のはざまに立とうとすることにある。ここでは、その問題設定で人類史の文化の起源を問い直してみたいわけで、それによってネアンデルタール人がいかに文化的な存在であったかということも浮かび上がってくるはずです。
 集団的置換説のストリンガーなどは「ネアンデルタール人は筋肉の力だけで寒さを生きていた」などといっていて、そういう薄っぺらな思考はうんざりです。ほんとにアホだと思う。
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