進化論としての文化の起源・ネアンデルタール人論51

 集団的置換説の学者たちは、氷河期の北ヨーロッパに住み着いていたネアンデルタール人の思考や行動はアフリカのホモ・サピエンスに比べて愚鈍だった、という。
 そんなはずがないじゃないですか。何を幼稚なことをいっているのだろう。
 人は、寒ければいろんなことを思うし、ましてやネアンデルタール人はいつも体を動かしていないと凍え死んでしまうような環境で暮らしていたのです。
逆に、アフリカの赤道直下のようにくそ暑ければじっとしていたいし、頭のはたらきもぼんやりしてくる。だからそんな停滞した意識や体を覚醒させるような激しいリズムの音楽やダンスの文化が生まれてくる。それに対して極寒の地である北ヨーロッパでは、寒さを忘れようとしてせわしなく動き回る興奮した心や体の血を鎮める芸術文化が生まれ育ってきた。そんな地で50万年の歴史を歩んできたネアンデルタール人の心や行動が愚鈍だったはずがないじゃないですか。
 人の思考や行動は、生き延びようとして活発になってゆくのではなく、生きてあることのいたたまれなさにせかされながら活発になってゆく。そのいたたまれなさは、ネアンデルタール人のほうがずっとよく知っていたのです。


 なのにストリンガーをはじめとする置換説の学者たちは、ネアンデルタール人は頑丈な体型だけで寒さに適応していた、という。ほんとに考えることが薄っぺらなのだからいやになってしまう。これが、世界を代表する高名な人類学者のいうことか。中学生並みの想像力や思考力しか持っていない。
 人間の体が氷河期の極北の地の寒さに適応できるはずがないじゃないですか。シロクマやアザラシじゃあるまいし。体型や体質が変わってしまうくらい寒さに適応できなかったのですよ。変わってしまってもまだ適応できなかったが、それを補うだけの生活の文化というか生態を、そこに住み着いて以来の50万年かけた歴史の伝統として身につけていったのです。そしてそれでも次々に人が死んでゆく社会で、半数以上の子供が大人になるまで生きられなかった。大人になっても、30数年の平均寿命しかなかった。彼らの生はそれほどに苛酷だったが、その生を生ききる文化=メンタリティを持っていた。
 まあそんなところに体型も体質も違うアフリカ人がいきなりやってきたら、さらに悲惨なことになっていたことでしょう。クロマニヨン人が登場してきた4〜3万年前ころにアフリカからやってきた人間などひとりもいない。ネアンデルタール人クロマニヨン人に進化=変化していっただけです。そのころはいったん気候がやや温暖化した間氷期で、彼らの体型や体質もそれにともなって、その頑丈になってしまうほかない変型の圧力から解放されていった。まあ文化=生態によって耐えてきたネアンデルタール人だからこそ体型が解放されていったのであり、いくらいくぶん温暖になった間氷期とはいえアフリカよりはずっと寒い土地なのだから、寒さを知らないアフリカ人が住み着けば逆に頑丈な体型になっていったことでしょう。
 言い換えれば、ネアンデルタール人にとっては、現在のスウェーデンノルウェーのようなレベルの寒さでも解放的な温暖な気候だった、ということで、それほどに彼らが潜り抜けてきた氷河期の歴史は苛酷だった。
 寒さに適応したから頑丈な体型になっていったのであって、最初から頑丈な体型だったのではない。頑丈な体型だけでその苛酷な寒さに適応していたのなら、頑丈な体型になる前に滅んでしまっている。その理屈が、なぜわからないのか。ストリンガーは、進化論のことが何もわかっていない。ネアンデルタール人の女や子供が、アフリカのホモ・サピエンスの男よりも頑丈な体力を持っていたはずもないでしょう。
 ネアンデルタール人は寒さに適応した思考や行動を持ってそこに住み着いていったから体型が頑丈になっていったのであって、体型が頑丈だったからそこに住み着いていったのではない。それは住み着いた「結果」としてもたらされたことであって、住み着いてゆくことができる「原因」だったのではない。
あたりまえじゃないですか。住み着く前から頑丈だったはずがない。50万年前の住み着いたばかりのネアンデルタール人の先祖と5万年前のネアンデルタール人と、どちらが頑丈な体型をしていたかといえば、進化の結果としての後者に決まっている。そして住み着いたばかりのときはまだ住み着くことのできる生態も体型も未発達なのだから、とうぜん50万年後のネアンデルタール人よりもはるかに苛酷な条件だったはずです。いや、そのときの遺伝子の内容も骨格もアフリカ人とほとんど同じだったということはちゃんと考古学や分子生物学の証拠として提出されているわけで、それでもそこに住み着いていったのであり、頑丈な体型を持っていないのに住み着いていったのです。
頑丈な体型だけをよりどころにして住み着いていた、などということは論理の筋道として成り立たない。しかしストリンガーとクライヴ・ギャンブルの共著である『ネアンデルタール人とは誰か』という本には自信満々ではっきりそう書いてある。ほんとに、進化論のことが何もわかっていないというか、どうしようもなく短絡的で底の浅い思考しかできない人たちだ。
 頑丈な体型でもないのに住み着いていったから、頑丈な体型になっていったのです。
 最新の生物学では、キリンの首が長くなる進化史のはじめには首が短い個体のほうが多く生き残っていった、といわれています。それはきっとそうでしょう。生きられない首の短い個体のほうが熱心に繁殖するし、首の長さが足りない子供でも生きられる環境が整っていなければ種の存続はかなわない。そうやって底辺が底上げされていって、はじめて首が長くなるという進化が起きてくる。首の長い個体ばかりが生き残っていったのではない。事実はその逆なのです。まあ、それと同じことで、頑丈な体型でなくても住み着くことができなければ、頑丈な体型になってゆくことはできないのです。ストリンガーは、そういうことが何もわかっていない。そしてそのような苛酷な地に住み着くことができる能力というか生態がどのようにして生まれてきたかといえば、人類発祥以来数百万年の拡散の歴史によってもたらされた「理想郷(=世界の調和)からはぐれて生きにくさを生きる」というメンタリティがあったからで、そういう人間性の自然の集大成として氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が登場してきたのです。
 その「はぐれてゆく」メンタリティや生態は、拡散の歴史を持たないアフリカのサバンナの民は希薄だった。
 ネアンデルタール人は、体型の頑丈さだけでそこに住み着いていたのではない。その苛酷な環境に適応した思考や行動という生態を持っていたからであり、そういう生態を進化させる50万年の歴史を持っていたのです。
 それは、ストリンガーのごとき凡庸な人類学者が説く「知能」の問題ではない。思考や行動という歴史的な生態の問題です。まあ、人と人がときめきあい連携してゆく生態は、アフリカのホモ・サピエンスよりも北ヨーロッパネアンデルタール人のほうがはるかに豊かにそなえていた。それこそが、人類拡散の歴史によって育ってきたメンタリティであり生態だった。
 もちろん、ネアンデルタール人の知能が劣っていたという考古学の証拠もない。そんなことは、置換説の論者たちがそう思いたくてそう思いこんでいるだけです。
 人の心は、思いたいように思い込んでゆくことができる。だからどんな観念世界もつくることができる。俺はキリストの生まれ変わりだといっても、狂っているともいえない。そう思いたければ、そう思い込むことができる。ネアンデルタール人の知能は愚鈍だっただなんてほんとにアホかというレベルの理屈なのだけれど、この国では、もっとも権威を持った研究者たちでさえ、そろいもそろってそう思い込んでいる。だから、この「バカの壁」は厚い。
 

 人の思考や行動を活発にさせるのは、生き延びようとする欲望ではなく、生きてあることのいたたまれなさにある。生きてあることに対する幻滅、と言い換えてもよい。そういう「もう死んでもいい」というところから人の心は華やいでゆく。
 氷河期の北ヨーロッパという苛酷な環境のもとに置かれていたネアンデルタール人には、そういういたたまれなさがあった。そういう思考や行動が華やいでゆく契機を持っていた。
 もちろんアフリカにはアフリカのいたたまれなさがあるわけだが、それによってはぐくまれていった思考や行動すなわち文化のかたちは、ヨーロッパのクロマニヨンのそれとはまた異質のものです。したがって集団的置換説の学者たちのいう、数万年前のアフリカ人がヨーロッパに移住していったということなどありない。
クロマニヨン人の文化はネアンデルタール人との連続性で考えるべきであって、アフリカの文化との連続性はないのです。それは、生き延びる技術としての知能が高いか低いかというような問題ではない。思考や行動の質が、暑いアフリカと寒い北ヨーロッパでは決定的に違う。そして暑いアフリカでは一か所にじっとしていたいのであって、よその土地に移住してゆこうという志向性は生まれてこない。彼らがその停滞した思考や行動から解き放たれる体験として激しいリズムの音楽やダンスの文化を持ったということは、よその土地に移住してゆこうとする志向性が希薄だったことを意味する。それは、よその土地に移住してゆかなくてもその場でその停滞のいたたまれなさから解放されてゆく文化であり、もともと彼らはよその土地に移住してゆかない思考と行動の文化を進化発展させながら人類発祥のその地に住み着いてきた人々だった。彼らが移動生活をしているといっても、同じ地域の中をぐるぐる回っているだけで、それもまた、見知らぬ土地には移住してゆかない文化であると同時に、じっとしていることの停滞から逃れる文化だといえる。知らない遠い土地に移住してゆかないために、同じ地域をぐるぐる回っている。それが、アフリカの文化です。だから彼らは部族意識が強く、他の部族との関係は持たない歴史を歩んできた。そのために現在の彼らが国家という枠組みの中で他の部族と共存してゆくことには、さまざまな困難や軋轢が横たわっている。


一方、北ヨーロッパネアンデルタール人は、地球の隅々まで拡散していった歴史を背負って登場してきた人々だった。つまり、見知らぬものどうしがときめきあい連携しながら困難な土地に住み着いてゆくという歴史の伝統を持っていた。そういう生態を持っていなければ、原始人が氷河期の北ヨーロッパに住み着いてゆけるはずがない。
 まあ、いきなりアフリカからやってきた旅人がその地に50万年住み着いてきた伝統を持っているネアンデルタール人よりも住み着く能力が優っていただなんて、どうしてそんなとんちんかんなことが考えられるのか。この国の人類学フリークなんて、ほとんどがそう信じている。どいつもこいつもそんなレベルの人類学談義しかできない。
 まあ、読んだ本の受け売りしかできない脳味噌なら、とうぜんそういう話のなりゆきになってゆく。この国には、そういう話の本しか本屋にないのだもの。
 それぞれの地域に住み着いていたものたちが遺伝子の交換をしながら進化していったのだ、という「多地域進化説」を本格的に論じた本など、僕はまだ一冊も読むことができていない。そういう説を唱えている研究者は、アメリカのミルフォード・ウォルボフ御大をはじめとして世界中 にはいくらでもいるはずなのに。
 ストリンガーたちが「あいつらのいっていることは全然だめだ」という話を読んで、僕は、冗談じゃない、「あいつら(多地域進化説)」のほうがずっとまともなことをいっているじゃないか、と思った。
 そこに住み着く能力は、そこに住み着いてきた歴史と伝統によって育ってくるのです。
 原始人の知能なんか、どこでもたいして違いありませんよ。
 現在のアフリカのブッシュマンやマサイ族のような原住民がもしも3万年前の世界にタイムスリップして氷河期の北ヨーロッパに移住していったとしたら、彼らはネアンデルタール人以上のそこに住み着く能力を発揮できるでしょうか。それとも3万年前のアフリカのホモ・サピエンスは、現在のブッシュマンやマサイ族よりもはるかに知能が進んでいたのでしょうか。
 それは、凡庸な人類学者たちがいい気になってあれこれ語り合っている石器づくりの知能がどうとかというような問題ではない。ネアンデルタール人は、そこに住み着くことのできる思考や行動による生態をそこに住み着いてきた50万年の歴史の伝統として持っていたのです。
 ブッシュマンやマサイ族がいきなりそこに行っても、どこに狩場があるかとかどんな草食獣がいてどんな狩りの仕方をすればいいのかということを全部ネアンデルタール人に教えてもらうしかないのです。寒さの冬は大勢が洞窟の中に集まって焚き火を囲んで語り合うということだって、そんな習俗の歴史を持っていなければ、そうそう盛り上がらない。
原始時代においては、旅人が先住民よりもそこに住み着く能力に勝っている、などということはないのです。いや現代でも、ほとんどの場合はそうです。その土地の流儀を学んでゆかないことには住み着けない。
そこは、アフリカでの流儀がそのまま通用するような、そんな生やさしい土地ではなかった。アフリカよりももっと苛酷な土地だったのです。
 そんな苛酷な土地に、どうしてアフリカ人が好き好んで移住してゆこうとなんかするものか。そこでは、日陰でじっとしていることが休息にはならない。そんなことをしていたらたちまち凍え死んでしまう。激しいリズムの音楽やダンスが娯楽にはならない。そんなことをしていたら気が狂ってしまう。そういう土地だったのです。
 ネアンデルタール人は、その厳しい寒さに耐えるために一日中体も心も熱く沸騰させていた。だから、現在でいえば、たとえばエンヤという北アイルランド出身の歌手の声や曲調のような「癒し」の文化が必要だった。そうやってネアンデルタール人のところで、洞窟の中で焚き火を囲みながら人と人が親密になってゆく文化や、語り合いときめき合ってゆく言葉の文化が発達していったのです。
 北ヨーロッパとアフリカ中央部では、文化の伝統がまるで正反対だともいえる。したがって、3万年前のアフリカ人が北ヨーロッパのクロマニヨンの文化を生み出すということなどありえない。
そのころヨーロッパに移住していったアフリカ人などひとりもいない。
クロマニヨンの文化は、ネアンデルタール人の歴史の伝統から生まれてきた。
 べつにアフリカの文化が劣っているというつもりもないが、両者の思考や行動は、まるで異質だった。
 いずれにせよ人類の文化は生きてあることのいたたまれなさからの解放として生まれ育ってきたわけで、それが生き物の命のはたらきの根源・自然のかたちであり、進化論の問題もそこにこそある。
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