起源論と進化論・ネアンデルタール人論52

 人が必ず死ぬということは、「生きてあることが許されない存在」だということです。それなのにわれわれは、すでに生きてしまっている。すでに生きて、すでに目の前の世界にときめいてしまっている。
 人は死ぬことを自覚している存在であるということは、生きてあることが許されていないことを自覚している、ということです。自覚しつつ、すでに生きてしまっている。生きようとして生きているのではない、世界が輝いていることに誘惑されるように、すでに生きてしまっている。人は、そうやって許されないこの生を受け入れてゆく。
 生きてあることはいたたまれないことだが、世界や他者は輝いている。いたたまれないことだからこそ、そこからの解放として輝いて見えてしまう。人は「もう死んでもいい」という感慨を胸の底に抱いている存在だが、そこから心が華やぎ、まさにその感慨こそが人を生かしている。その感慨から、人間的な知性や感性やセックスアピールが生まれてくる。
 生きてあることはしんどくていたたまれないことであり、そこから生まれてくる「もう死んでもいい」という感慨は、哲学的な思考でもある。人は、哲学的な思考を無意識の感慨として持っている。
 誰だって哲学をして生きている。
 それは、生きようとする欲望による生きるための思考ではなく、「もう死んでもいい」という無意識の感慨から生まれてくる思考です。哲学的な思考は、人を生きることに無能なダメ人間にしてしまうのだが、じつはそこからこそ人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。
 今どきの大人たちは、今どきのダメな若者たちがいかに哲学的な存在であるかということが何もわかっていない。
 ダメになってゆくことができるということは、心の底に「もう死んでもいい」という感慨を持っているということであり、それこそが哲学的な思考の根源のかたちなのです。べつにカントやヘーゲルばかりが偉いのではない。誰だって哲学して生きている。
 そして生きることに有能になってゆくということは、哲学的な思考を失ってゆくということであり、知性や感性が貧しくなってゆくということなのです。


 哲学は、生き延びるための知恵を考える学問ではない。
 人間はもともと猿よりも弱い無能で無防備な猿であったのであり、それこそが人間的な究極の知性や感性のかたちでもある。
生きることに無能でも、しかし人はすでに生きてしまっている。
「すでに生きてしまっている」ということは、生き延びるためにはどうすればいいかというような問題など存在しない、ということです。そうやって人は生きることに無能なダメ人間になってゆく。
 人は、生き延びるためにはどうすればいいかと問うている存在ではなく、「生きることは何か?」と問うている。哲学とは、ほんらいそういう学問でしょう。生きることに無能なダメ人間は、生き延びるためにはどうすればいいかという問いを持たないまま「生きるとは何か?」と問うている。
 哲学とは生き延びるための方法論を探求する学問ではなく、「生きるとは何か?」という幼児のような直截な問いに立ち止まって探求してゆく学問です。
 言い換えれば、生き延びるための方法論ばかり問うているのは、「生きるとは何か?」という直截な問いをすでに喪失している、ということです。そんな問題などすでに解決しているつもりでいるから、生き延びるための方法論を問うてゆくことができる。
 生き延びるための方法論を問うのは、哲学ではなく、宗教です。死後の世界があるとか、生まれ変わりとか、死んだら天国や極楽浄土に行くというのは、究極の生き延びるための方法論です。
 人は、大人になると「生きるとは何か?」とか「死ぬとは何か?」という直截な問いを放棄して生き延びるための方法論ばかり問うようになってゆく。そんな「なに・なぜ?」という子供じみた問いはすでに解決しているつもりになってゆく。まあ、中途半端な思考の人間ほど、何もかもわかったつもりになっている。そうやって知ったかぶりをしたがる。彼らは生き延びることに有能だが、哲学的な問いをすでに喪失している。
 無能なダメ人間や幼児こそ哲学的な思考を持っている。それはつまり、ほんらい人間なら誰でも哲学的な思考を持っているということです。
 あなたは、三歳の幼児に「愛って何?」と問われて答えることができるか。
 まあ科学の世界でも、実用的な分野よりも直接的には何の役にも立たない基礎科学のほうが高度な思考を必要とする。哲学や基礎科学は、「なに・なぜ?」と問う「わからない」という思考が深く豊かにはたらいていないと成り立たない。
 生きることに有能な「大人」という人種ほど思考が中途半端で知ったかぶりをしたがる。
 そして今どきの若者たちは、そういう「大人」にはなりたくないといいながら、ダメ人間のニートやフリーターになってゆく。
 まあネアンデルタール人だって、現代社会に生きていればただのダメ人間になってしまっていることでしょう。彼らこそ、人類史上もっとも深く豊かに人間性の本質・自然を生きた人々であるのだが。


 人は、生きることに「無能」という水準を生きている。どんなに能力に優れていても、みずからのその能力を最低値としたところから生きはじめる存在なのです。だからこそ「進化」が起きるわけで、そうやって個人の人生においても知性や感性や身体能力や技術がレベルアップしてゆく。そしてそれは、生き物の普遍的な生のかたちだともいえる。生き物の歴史に「進化」が起きるということは、そういうかたちの「生きられない弱いもの」として生きている存在だからです。
 すべての生き物は死ぬ。すべての生き物は「生きられない弱いもの」として存在している。
 生き物が生きることは、生きることからはぐれてゆく現象です。息をすれば、息苦しいという「身体=生きること」を忘れている状態になる。腹が減れば飯を食ってその「身体=生きること」の鬱陶しさを忘れてしまう。生きることは、生きることを忘れてしまういとなみです。
 生き物は生きることが許されていない存在であり、そうやって生きることからはぐれてゆく。生き物は、生きることからはぐれながら生きることに「無能」になってゆく。それはたぶん「生命」のはたらきの本質の問題です。
「無能」という存在にならなければ、進化は起きない。進化論に「適者生存」という概念はなじまない。まあたんなる言葉の問題かもしれないが、「適者」だから生き残るのではなく「無能」だから生き残るのです。だから生き残るものを「適者」というのだといわれれば、まあそういうことなのだが、その言葉を使うことによって問題の本質を見失ってしまうこともあろうかと思えます。
 キリンの首が長くなってゆく進化のはじめにおいては、「適者」であるはずの首の長いキリンは淘汰されて生き残れなかったのです。それが何を意味するのかということを考えるなら、われわれは「適者生存」などという言葉を安直に使いたくない。
 原初の人類が二本の足で立ち上がったことも、地球の隅々まで拡散していったことも、<ひとまず生きることに「無能」な存在として生きはじめる>現象として起きてきたことです。
 生きることに有能な「適者」は、命のはたらきの本質に矛盾している存在なのです。だから現代の人間社会では、生きることに有能たらんとして生きてきたものたちが次々に精神を病んで、最後には鬱病になったりボケ老人になったりしてゆく。彼らは「生きられない」という「無能」の状態を生きることができない。それこそが命のはたらきの本質・自然だというのに、心の動きとしてそういうタッチを持っていない。


 死ぬのが怖いといって悪あがきすることだって、生きることに有能たらんとして生きてきたことのツケが回ってきた心的現象なのでしょう。吉本隆明は「死ぬのが怖くてもいいんだよ」とカッコつけた訳知り顔でいっていたが、それが人間性の普遍的な自然だとはいえない。生き延びることにあくせくしている現代人がそういう心模様になってしまうことはなかばしょうがないことだとしても、怖がらないことが不自然だとはいえない。怖がらない人はいくらでもいるし、怖がりながらボケ老人になってゆくケースも多い。
 吉本は宮澤賢治を高く評価していたが、その宮澤賢治は「怖がらなくてもいいんだよ(『雨ニモ負ケズ』より)」といった。その違いに、宮沢賢治の自然と吉本隆明の不自然があるのかもしれない。
「無能」のタッチを持っている人はむやみに死を怖がったりしない。そういうことを宮澤賢治はよく知っていた。だから「(みんなからデクノボウといわれている)そういう人に私はなりたい」といってこの詩を結んでいる。
「無能」のタッチこそ、人間的な知性や感性の本質・自然なのです。
 

ここではネアンデルタール人の心模様を表現するのに何度も「他愛なく(ときめく)」といってきたのもそういうことで、今ふうにいえば「ハイパー・イージー・モード」となるのでしょうか。人は無意識のところにそういうタッチを持っているし、ネアンデルタール人はそういうタッチで氷河期の北ヨーロッパという苛酷な環境を生きていた。そこは、死ぬのを怖がっていたら生きていられない環境だった。
 人の心や行動は、生きてあることのいたたまれなさからせかされるように活発になってゆく。生き物は、息苦しいことのいたたまれなさからせかされながら息をしてゆく。空腹のいたたまれなさからせかされながらものを食う。人の心や行動の基礎になっているのも、そういうことのはずです。
 生きてあることのいたたまれなさを知っている人はむやみに死を怖がらないし、そこから人間的な知性や感性やセックスアピールが生まれ育ってくる。そしてそこにこそ「起源論」や「進化論」を解くカギがある。
「もう死んでもいい」と思ってしまえば生きることに有能になれるはずもないが、人の心はそこから華やぎときめいてゆき、人間的な知性や感性やセックスアピールが生まれ育ってくる。
 人は、生きることに有能であろうとして、知性や感性やセックスアピールが凡庸になってゆく。言葉の起源をはじめとする人類史のイノベーションは、生き延びようとがんばることによって生まれてきたのではない。そんながんばりは、人を通俗的で凡庸にするだけです。
言い換えれば、社会的な成功は、通俗的で凡庸になることによってもたらされる。まあいまどき隆盛のハウツー本や自己啓発本のたぐいは、人の知性や感性を通俗的で凡庸にしている。人は、生きることに有能であろうとして、知性や感性が凡庸で通俗的になってゆく。
人間的な知性や感性やセックスアピールは、生きることからはぐれて「無能」になってゆくところから生まれ育ってくる。人類史のイノベーションは、そこから起きてきた。「もう死んでもいい」という無意識の感慨は、人を生きることに「無能」にさせると同時に、そこから心が華やいでゆき、知性や感性の源泉にもなっている。高度な知性や感性は、生きることの「無能」の上に成り立っている。
たとえばこの国の文化の歴史においては、際立った知性や感性の持ち主のほとんどは、西行でも親鸞でも良寛でも芭蕉でも、みずからをこの社会の「無用」の存在と思い定めて生きていた。宮沢賢治夏目漱石小林秀雄にだってそういう気分はあったはずです。
政治経済などのこの社会の有用な存在になっているものほど知性や感性は凡庸なくせに知性や感性が豊かだとうぬぼれている。それはもう、庶民の一般社会においてもそうでしょう。そして今どきの社会のオピニオンリーダー的な存在になっている内田樹上野千鶴子はそれだけ生き延びることに有能であることを証明しているわけだが、しかしその知性や感性などほんとにどうしようもなく凡庸だし、彼らほど知性や感性が豊かなふりをしたがるものもいない。まあ、その自分を見せびらかしたがるパフォーマンスによってオピニオンリーダーたり得ている。そうやって彼らは他人を自分の世界に引きずり込むことに熱心で有能だが、そのぶん他人に対する感受性は希薄です。彼らには、自分を捨てて(忘れて)他人の世界を感じたり察したりしてゆく知性や感性はない。
 人間的な知性や感性とは、自分を表現する(見せびらかす)能力のことではなく、自分を忘れて自分の外のこの世界や他者に反応してゆく脳のはたらきのことです。そしてそれは、本格的=究極の知性や感性だけのことではなく、人間性の基礎として誰の中にもある無意識的本能的な心のはたらきでもある。
 自分を忘れてときめいてゆく知性や感性が、言葉の起源をはじめとする人類史の文化のイノベーションを生み出してきた。
 学問や芸術やスポーツに熱中するとは、それらに他愛なくときめいているということでしょう。その無目的な他愛ないときめきから人類史の文化が生まれ発展してきた。その他愛ないときめきこそ、人間的な知性や感性の基礎であると同時に究極のかたちでもある。
 生き延びようとする欲望が人間的な知性や感性の基礎になっているのではない。つまり、どんなに生き延びる能力に優れていても、そこに豊かな知性や感性がはたらいているとはかぎらない。それらはまた別の問題であり、人類は生き延びようとして文化を進化発展させてきたのではないのです。


 直立二足歩行の起源から共同体や宗教や貨幣や歌や踊りの起源まで、「起源論」を問うことは、「進化論」を問うことでもある。進化論を問うことは、現代の文明社会の不自然な病理を抽出することでもある。
 まあ、人類は生き延びるためのいとなみとして文化のイノベーションを生み出してきたという「起源論」は、「適者生存」という「進化論」であり、そんな安直な図式では「起源論」も「進化論」も成り立たない。その「生き延びるためのいとなみ」に躍起になっていることこそ、現代の文明社会の停滞であり不自然な病理なのです。そんなところから進化が起きてくるのではない。キリンの進化史においては、首の短い個体のほうがたくさん生き残ってきたのです。そのとき、生き延びる能力を持っていることの「リア充」に浸っていたものよりも、生き延びることに「無能」であることのいたたまれなさにせかされながら生きていたものたちが生き残ってきたのです。
 その生きてあることのいたたまれなさが人類史の文化のイノベーションを生み出してきた。
 本格的な科学者や芸術家ほど「わからない」ということのいたたまれなさをよく知っている。わかっているつもりになりたがる凡庸な俗物根性から文化のイノベーションが起きてくるのではない。
 心は、生きてあることのいたたまれなさにせかされながら華やぎときめいてゆく。
「リンゴ」という言葉は、リンゴの意味を象徴化して生まれてきたのか?もしそうであるなら、そこで一件落着の「リア充」に浸ってゆくことができる。そうやって世界の調和=秩序を構築してゆくのが人間の知性や感性であるのか?冗談じゃない、本格的な知性や感性は「わからない」という混沌のいたたまれなさを生き続けている。そしてそれが、人間性の基礎でもある。「リア充」という思考停止に向かうのが知性や感性のはたらきであるのではない。「わからない」という知性や感性のはたらきは、さらなる「わからない」という知性や感性のはたらきになってゆくだけであり、それが「探究」という学問や芸術のいとなみの自然・根源のかたちでしょう。
 本格的な科学者や芸術家は、文明社会に心をむしばまれているわれわれよりももっと原始的な存在であり、そういう原始性は歴史の無意識としてじつは誰の中にも息づいている。
「わからない」という「無能」であることのいたたまれなさ、そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。
 人は、生きることの「無能」を生きようとする。言い換えれば、人は「この世のもっとも弱いもの」であろうとする、ということ。これが、このブログにおける人類史の「起源論」を問うときの問題設定です。
 みずからが生きることに有能であることに満足しながら何もかもわかったつもりになっている思考の、なんと凡庸なことか。彼らのいう「象徴化の知能」とは、そうやってつじつま合わせをしながら生き延びるための世界の調和・秩序を構築してゆこうとする思考のことであり、現在の世界の人類学における「起源論」はそういう問題設定で議論されている。しかし、それでは起源の現場に推参することはできない。人は根源・自然において生き延びようとしている存在ではない。人間的な知性や感性は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨から生まれ育ってくる。人間はそういう無意識を持っている存在であるということを、氷河期の北ヨーロッパを生きたネアンデルタール人が教えてくれている。
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