まだ見捨てられていない・ネアンデルタール人論53

 人は必ず死ぬ。われわれは、生きてあることが許されていない命を生きてしまっている。原始時代だろうと現在だろうと、人は、根源的にはそのことのいたたまれなさを共有している。まあ俗っぽい言い方をすれば、人と人の関係の豊かな味わいはそこにおいてこそ生まれてくる、ということです。人間集団のダイナミズムは、そこから生まれてくる。そうやって生きてあることのいたたまれなさを共有していることにこそ、人間的な連携の本質が宿っている。つまり、人間の集団には必ずそうやって生きてあることのいたたまれなさを抱えながら生きている無能なダメ人間が生まれてくる、ということです。無能なダメ人間であることこそ、人間性の自然・根源のかたちなのです。あるものは無能なダメ人間として優秀な学者や芸術家になったり、また、ほんとうにダメで無能なただのニートやフリーターになったりもしている。そして病人や老人や赤ん坊だって、本質的には無能なダメ人間です。無能なダメ人間は、人間性の自然・根源を生きている。まっとうな「市民」たちの世間だって、ときに彼らのことを「神に近い存在」だといったりしている。誰だって無能なダメ人間である部分は持っているし、こんな世の中であれば、誰だって人にやさしくなれるときもあればイライラしているときもある。そういうバイブレーションで生きていられればそれでオーケーだが、人や社会に対する恨みや憎しみばかり募らせながら精神を病んでゆく人もいるし、そういう気分がこの生の通奏低音になってしまうと人間的な魅力としてのセックスアピールを失って、けっきょく誰からも好かれなかったりする。
文明社会は、世界の調和を目指す。そういう状態の中に置かれてまどろんでいる自分に執着するなら、この世界の現実や目の前の他者の存在は耐え難いものになってゆく。人間は、そんな理想郷を目指す存在であるのではない。そんな理想郷を目指すなら人類拡散は起きなかったし、ネアンデルタール人は氷河期の北ヨーロッパというこの上なく苛酷な地に住み着いたりはしなかった。
世界の調和という理想郷を目指すなら、住み慣れた土地から出てゆくわけにはいかないのです。自分の世界に引きこもるしかないのです。この世界の現実も目の前の他者も、許すわけにはいかない。それらは、世界の調和という自分の中の世界とは異質な世界なのです。そうやって人や社会に対する恨みや憎しみが募ってゆく。そうやって世界の調和を夢見ながら世界や他者を見捨て世界や他者からも見捨てられている状態を「ひきこもり」というのだろうし、それはまた生き延びる能力を持って傍若無人唯我独尊で生き延びている状態でもあります。
 生き延びる能力を持っていたら傍若無人唯我独尊になってしまうし、その状態を目指して支配欲が生まれてくる。権力者の支配欲だろうと親の支配欲だろうと、そうやって生き延びることのできる「世界の調和」を目指している。ひきこもりは、支配欲でもある。支配することがかなわないのならもう、ひきこもるしかない。彼はたぶん、そうやって神になっている。あるいは神とともに存在している。
 人は、自然・根源において、けっして世界の調和や生き延びることを目指している存在ではない。原始人は生き延びることのできない「無能」を生きようとして地球の隅々まで拡散していったのであり、ネアンデルタール人は、生き延びることの「無能」を生きながら氷河期の北ヨーロッパに住み着いていった。人は、世界の調和からはぐれながら、目の前の世界や他者の存在のさまざまなニュアンスを察知し感じてゆく。そうやって人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。これが、人類史の「起源論」の問題です。
 人類史のイノベーションは、凡庸な人類学者たちがいうような「生き延びるための計画性」から生まれてきたのではない。この生もこの世界もうつろい変化し流れてゆく。その事態に「反応」しながら生きてゆくなら、「生き延びるための計画性」など持っていられない。人が生きることは、つねに「出たとこ勝負」なのです。
 生きることに無能な人間は、自分なんかこの世に生きていてはいけないのではないかと思う。その、生き延びる未来を失っている思いこそが、目の前の「今ここ」に対する反応を切実で豊かなものにしている。人間的な知性や感性はそういう「反応」であって、生き延びる未来に向かう欲望による「計画性」によって生まれ育ってくるのではない。「反応」という「出たとこ勝負」の「即興性=ひらめき」こそが人間的な知性や感性の本質のかたちであり、そこから人類史の文化のさまざまなイノベーションが生まれてきた。
 知識が豊富であれば一流の学者になれるというものではない。一流か否かは、「ひらめき」を持っているかどうかで決まる。知識が豊富な人間はいくらでもいるが、鮮やかな「ひらめき」を持っている人間はそうはいない。そしてそれはもう、学問の世界だけのことではない。芸術やスポーツだってそうだし、人が魅力的であるかどうかということだってそういうところにあったりする。
 つまり、人間的な知性や感性とは「ひらめき」のことだということ。誰だって、ふと何かがひらめくということはある。それは、それほどに人間は目の前の「今ここ」に対する切実な思いを持っているということです。自分なんか生きていてはいけないのではないかと思うなら、目の前の「今ここ」に切実になるほかない。人間は誰だってそういう存在の仕方をしている。
「ときめく」とは、「ひらめく」ということでもある。何かを察知し感じること。その美しさにときめくことは、その美しさを察知し感じることでしょう。そんな体験は誰だってしている。
 あの雲は空を飛ぶ龍のようなかたちをしている、とひらめく。ひらめき、ときめく。あれは龍だ!……そんな思い方感じ方は、人間にしかできない。猿にとっては、雲は雲にすぎない。


 今どきのギャルが他愛なく「かわいい」とときめいていることだって、そのかわいさを察知し感じてひらめいているからであり、そのかわいさがわからない大人たちが「知能が低い」といって批判するのはお門違いというものでしょう。大人たちには、それを察知し感じることができるだけの美意識=感性がない。
 大人たちがなぜそれを察知し感じることができないかというと、生き延びる能力と生き延びようとする欲望を持っているからであり、その感性は、生きられなさを生きているもの、すなわち「自分はこの世に生きていていてはいけないのではないか」というかたちでこの生からはぐれてしまっているもののもとに宿っている。
「かわいい」とは、生きられなさを生きていることです。生きられなさを生きているもののことを「かわいい」という。たとえば小さく弱いもの、そういう存在のはかなさを「かわいい」という。そのはかなさのニュアンスは、生き延びる能力と生き延びようとする欲望を持っているものたちにはわからない。
 そのかわいさは、今ここの「即興」として立ち現われてくる。生きられなさを生きているものには「今ここ」しかない。
「かわいい」のファッションには、着こなしや色の組み合わせに決まりはないし、アクセサリーはじゃらじゃらと無造作に飾り立ててゆく。そうして何が「かわいい」かはもう、なりゆきまかせで決定される。しかしそれでも、これがかわいい、これしかない、という「今ここ」の沸騰点がある。その沸騰点を察知し感じる彼女らならではの美意識がある。それは、無造作で無目的で他愛ないようでいて、とても高度な美意識の上に成り立っているのです。
そのはかなく危うい美が成り立つ「いまここ」を察知しひらめきときめいてゆく感性は、生き延びることをアイデンティティにしているものたちにはない。その感性=美意識は、「今ここ」の即興性の上に成り立っている。
現代のこの社会は生き延びる能力を持ったものたちによって動いているのだろうが、それでも人は、生きられなさを生きている存在により深く豊かにときめいてゆく。人と人がときめき合う関係は、人間が生きられなさを生きる存在であることを共有してゆくことの上に成り立っている。
意志でペニスを勃起させることができないように、ときめこうとしてときめくことなんかできない。生きられなさを生きることのいたたまれなさからせかされるようにときめいてゆく。
生きられなさを生きる存在である人間は、そのいたたまれなさとともに「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っている。心は、そこから華やぎときめいてゆく。
 人は、自分が生き延びることに役に立つ存在として他者を必要とし、他者にときめいてゆくのではない。自分が生きてあることを忘れてしまう体験として他者にときめいているのであり、自分を忘れてときめいてゆくのです。
人類史の文化の起源は、生き延びようとする自我のはたらきが契機になっているのではない。自分を忘れてときめきひらめいてゆく体験から起きてきた。その何かを察知し感じてゆくはたらきが、生き延びようとする自分に執着したところから生まれてくることは論理的にありえない。そんな自分に執着すれば、知性も感性も停滞し凡庸になってゆく。
生きられなさを生きることのいたたまれなさとともにある「もう死んでもいい」という無意識の感慨から人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。人間なら誰だってそういう無意識の感慨を持っている。そこから自分を忘れて何かにときめき夢中になってゆく体験が生まれてくる。
人は、自然・根源において、生き延びようとしている存在ではなく、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに生きてあることからはぐれてゆく存在であり、その「自分=生きてあること」を忘れてゆく体験として何かにときめいたり何かがひらめいたりしている。そのときめきやひらめきが人類史の文化の起源の契機になっている。


生きてあることの即興性。
この生もこの世界も、移ろい変化してゆく。そのことにそのつど反応してゆくのが「生きる」といういとなみでしょう。何もしないでじっとしていれば、息苦しくなってくるし腹も減ってくる。この体は成長し、やがて衰弱してゆく。季節も世の中も移ろい変化してゆくし、生きていればいろんな人やいろんな景色と出会う。
 意識のはたらきの根源・自然は、その変化にそのつど即興的に「反応」してゆくことにある。この生やこの世界が変化しなければ、命のはたらきも意識のはたらきも必要ない。じっとしていればいいだけです。また、その変化を既知の現象として処理してしまうのなら、鮮やかな「反応」も生まれてこない。生きてあることは、一瞬一瞬が未知との出会いであり、出たとこ勝負をしてゆくしかない。そして、生き延びる次の瞬間はもうないのかもしれない。
 生きてあるこの状態は、変化し、やがて消えてゆく。人間なら誰だってそのことを知っている。この命は、次の瞬間に消えてしまうかもしれない。今この命のはたらきが起きていると察知することは、次の瞬間には消えてしまうかもしれないと察知することでもある。すべての存在はもとのかたちを失い消えてゆく。「今ここ」を察知することは、一瞬前の「今ここ」が消えてしまったことを察知することです。春になるということは、冬が消えてゆくということです。
愛する人が目の前にいないということは、愛する人が消えているということです。そのとき人は、愛する人が永久に消えてしまったような心地になったりする。それが、「さびしい」という感情でしょう。
この生やこの世界が移ろい変化してゆくことに気づくということは、一瞬前のこの生やこの世界が消えてしまったことに気づくことであり、次の瞬間には「今ここ」のこの生やこの世界も消えてなくなると思うことです。そうやって人の心は「今ここ」に対する思いが切実になり、「今ここ」にひらめきときめいてゆく。
生き延びようとする未来に対する計画性から人間的な知性や感性が生まれ育ってくるわけではないのであり、そんな問題設定で人類史の起源論を説いてもだめなのです。そんな問題設定で人類の未来を語ってもだめなのです。人類の未来は、未来に対する計画性によってつくられるのではなく、人々の「今ここ」に対する思いや行動の結果として生まれてくるにすぎない。人類の歴史は、人類の計画通りに動いてきたわけではない。「今ここ」にときめきひらめいていったことの結果としての「なりゆき」があっただけです。
人は、根源・自然において、未来に対する計画性など持っていない。目の前の「今ここ」に豊かに切実に「反応」しているだけです。そういう未来に対する「無能」な心のはたらきこそが、人間的な知性や感性の源泉になっている。
たとえば、日本列島の縄文時代は1万年も続いた。それは、縄文人が未来に対する計画性においてまったく無能であったことを意味する。しかしそのことによって彼らの知性や感性が貧弱だったわけではなく、この国の文化の基礎は縄文時代につくられた。縄文時代初期の石器や土器の文化はその当時の世界でもっとも進んでいたし、彼らは、大陸から海流もしくは鳥の糞によって運ばれてきた種によって自生するようになった漆の木を見つけるやいなや、たちまちその精製の技術を自力で身につけていった。もしかしたら縄文人の知性や感性は、現代人よりもある意味でもっと高度で豊かだったのかもしれない。少なくとも彼らは、現代人のように死ぬことに悪あがきなどしなかった。それは知性や感性の問題であり、それほどに彼らは目の前の「今ここ」に深く豊かにときめきひらめいていた。だからこそ、世界で最先端の石器や土器を生み出し、漆の精製の技術をたちまち身につけていった。
現代社会は、生き延びようとする欲望や生き延びる能力が人間性の根拠であるかのように考えられているから、そのぶん死ぬことに悪あがきしなければならないし、ほんらいの人間的な知性や感性も停滞し衰弱してしまっている。それは、ときめいたりひらめいたりする心の動きが衰弱しているということです。その「未来に対する計画性」こそが、知性や感性を停滞させ、さまざまな社会病理を生み出している。
「未来に対する計画性」で人間性の本質を語り人類史の起源論を解こうなんて、まったく愚の骨頂です。
 未来に対する計画性を忘れて目の前の「今ここ」に「反応」しているところにこそ、人間的な知性や感性の基礎があり、究極のかたちがある。歴史は、人間の計画通りに動いてきたわけではない。われわれのこの社会の「未来に対する計画性」という制度的な観念は、つねに「目の前の今ここに反応してゆく人間性の自然」に乗り越えられてゆく。その「反応」することは、よいか悪いかと裁いてこうであらねばならないと決定してゆくことではない。人の心は、根源・自然において、目の前の今ここの世界や他者が存在することそれ自体にときめいている。つまり、どんな社会もどんな人間も見捨てられてはいないし、どんな社会やどんな人間が正しいと決定されているわけではない、ということです。


 人の心は、根源・自然において、未来に対する計画性を持っていない。目の前の「今ここ」の世界や他者の存在それ自体を許しときめいている。どんな社会もどんな人間も見捨てられてはいない。
 誰もが自分はこの世界に生きていてはいけないのではないかと思いつつ、誰に対しても見捨ててはいない。どんなに愚かな人間もどんなに弱い人間も、見捨てられてはいない。そういう人間こそ、ときに、より深く豊かなときめきの対象になったりする。
この世のもっとも愚かで弱い人間として生きるなら、世界はすべて輝いている。賢いとか愚かだとか正しいとか悪いとかと選別したがる現代社会でそんなふうに生きてゆくのはとても難しいことだが、多かれ少なかれ誰の中にもそういう心の位相はある。「ときめく」とは、そこから起きてくることなのだから。
あなたがどんなに愚かで弱い人間であっても、そのことを受け入れ、この世のもっとも愚かで弱い人間としてこの世のすべての人間を見捨てていないのなら、あなたもまた「自分はまだ見捨てられていない」と思うことができる。
言い換えれば、世界や他者を見捨てる心の動き(=憎しみや恨み)を持っているから、自分もまた世界や他者に見捨てられているという思いに浸され精神を病んでゆく。
 この生は目の前の「今ここ」しかないと思えるのなら、世界は輝いている。よりよい未来を思い描くから、そうではない「今ここ」の世界や他者を見捨てる。現代人は、目の前の「今ここ」の世界や他者を裁いて見捨てながら、よりよい未来を思い描いてゆく。それが、はたして人間の本性だといえるのか。そんな思考は、現代社会の制度によってもたらされたたんなる観念のはたらきにすぎない。その「未来に対する計画性」に原始人が人間的な文化を生み出してきた契機があるのではないし、そこに人間的な知性や感性の本質があるのでもない。
 人はあなたを見捨ててはいないし、あなたもまた、じつは誰も見捨ててはいない。この世のもっとも愚かで弱い存在になれるなら……。
 まあ、氷河期の極北の地に住み着いていたネアンデルタール人は誰もがこの世のもっとも愚かで弱いものとして生きていたし、じつはそこにこそ人間的な文化を花開かせる契機があった。
 人類の文化の起源の契機は「未来に対する計画性」にあったとか、そんなことではないのですよ。人間にとって生きてあることはつねに一瞬一瞬の出たとこ勝負であり、そうやって人類は住みにくさもいとわずに地球の隅々まだ拡散していった。どんなに住みにくくても、目の前の「今ここ」がこの生のすべてであり、この世界のすべてだった。
 この生の即興性。
 目の前のあなたが人間のすべてだと思えるのなら、誰もあなたを見捨てたりはしない。まあ現代人は、生き延びるための方法論として、他人を裁いたり選別したりしながら仲良くしたり見捨てたりしているわけだが、それでも人は根源・自然において目の前の他者を見捨てないという心の動きを誰もがどこかしらに持っている。
 ネアンデルタール人という原始人が氷河期の極北の地に住み着いていたということは、そういうことを意味している。そういう人と人の関係にならなければ住み着けるはずがない。彼らは、見知らぬものも、どんなに愚かで弱いものも見捨てなかった。そういうものこそ、けんめいに生かそうとした。そういうメンタリティで、その地での50万年の歴史を生きてきた。人は、どんなに愚かで弱いものも見捨てない。そうやって人間的な介護の文化が生まれ育ってきた。
 現代人は、人から見捨てられたくないという思いを強迫観念のように抱えている。それは、人を裁き選別し見捨てる社会だからであり、そういう社会に心が染められてしまっているからでしょう。
 では、そこで大切なことは、見捨てられない正しい市民になることか?自分が見捨てているから、見捨てられたくないという思いになる。
 しかし、誰も見捨てない人は、たとえ孤立無援になっても、見捨てられる心配なんかしていない。人間が人を見捨てる存在だとは思っていない。
 自分が人を見捨てて生きているから、見捨てられる心配をしないといけなくなる。見捨てられたら生き延びられない、と思う。生き延びようと思っていなければ、見捨てられる心配もしない。
 人間存在の孤立性。
 人は、誰もが見捨てられた存在として生きている。そして、見捨てられた存在は、誰も見捨てない。
 見捨てられるまいとがんばることなんか無用であり、不自然なことです。見捨てられた存在として生きることができればいいだけです。人と人は、そこでこそときめき合っている。見捨てられた存在になることによって「私はまだ見捨てられていない」という思いが湧いてくる。人と人の関係は、一方通行です。見捨てられないことを当てにしないでときめいてゆく。見捨てられた存在にならないと、ときめいてゆくことはできない。
 この生の即興性。この生には「今ここ」しかない。未来はない。
 見捨てられない存在になろうとする必要はない。われわれにそんな未来はない。「今ここ」において誰も見捨てないでときめいてゆくことができる存在になれば、自然に「私はまだ見捨てられていない」という思いが湧いてくる。誰も見捨てないことが見捨てられないことです。世界や他者に対するときめきを失って自分が見捨てているから、「見捨てられている」という思いにもなる。
 人は見捨てられた存在であり、それでもというか、だからこそ誰も見捨てない存在になることができる。見捨てられた存在のそのひりひりした孤立感から世界や他者に対するときめきが生まれてくる。見捨てられた存在であるときこそ、見捨てられていない。
 まあ、冬になれば寒いと思うし、日照りの夏になれば暑いと思う。そうやって世界に反応していることは、世界からまだ見捨てられていない、ということでしょう。
 ネアンデルタール人は、世界に反応して生きていたのであって、世界を裁いていたのではない。裁いていたのなら、そんな苛酷な土地などさっさと見捨ててもっと住みやすい土地に移住してゆく。
 他者に対する態度だって同じで、彼らは、他者を裁いて見捨てるということはしなかった。それはつまり、誰もが見捨てられていなかったということでしょう。
 原初の人類が二本の足で立ち上がることは、その密集状態の中で、誰も追い出さないで(=見捨てないで)その密集状態を受け入れてゆく体験だった。二本の足で立てば、ひとりひとりの占めるスペースが四本足のときより少なくてもすみ、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」を保っていられる。おそらくこれが、直立二足歩行の起源です。密集状態でくっつき合っていたたがいの身体が離れてゆき、それによって誰も見捨てない(=追い出さない)関係の集団になっていった。つまり、誰もが見捨てられた存在になりながら誰もがときめき合っていったのであり、そこから人類の歴史がはじまった。ネアンデルタール人がその苛酷な土地に住み着いていったことだって、人類史のそういう伝統の上に成り立っていることだった。
 現代人の「見捨てられた存在になりたくない」という強迫観念は、そうした人類史の伝統というか人間性の自然と矛盾している。見捨てられた存在のひりひりした孤立感こそ人の心の自然であり、われわれはそこから生きはじめ、世界や他者にときめいてゆく。
 ときめいていられるなら、まだ大丈夫なのでしょう。しかし現代人は、ときめきを失いながら、見捨てられない存在になろうとすることばかりしている。
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