子供だけの社会・ネアンデルタール人論54

 たとえば、子供の知性や感性の成長発達において、親が早くに死んでしまうことと親が長生きする場合とどちらがより有効かと考えたとき、少なくとも後者のほうが有効だともいえない。これだって、ネアンデルタール人論の問題です。
 ネアンデルタール人の親のほとんどは30代で死んでいった。つまり、たいていの子供は成人する前にすでに親は死んでしまっていたのです。そして、父親が誰であるかということなどわからない乱婚社会だったし、母親だって、乳児期を過ぎればあまりかまわなかった。子供は集団全体で育てていたし、大人たちとは別の子供たちだけの社会もつくられていた。
今どきの子供の集団のほとんどは、大人によって管理されている。学校だけでなく、野球やサッカーの遊びの集団だって、大人が管理・運営している。子供たちは、子供だけの社会をつくってゆく体験を奪われている。昔のほうが、子供だけの社会があった。隣近所や町内会などでの子供だけの集団の遊びがあったし、若衆宿という習俗もあった。子供や若者は、そういう体験を通して人間的な集団性の基礎を学んでいった。年長のものと年少のものが混じり合って集団をつくり、大人たちはいなかった。若衆宿の運営は、大人たちに介入させなかったし、祭りや災害のときには彼らが率先して動いていた。
今どきの子供や若者たちには、そういう体験がほとんどない。だから、集団性=社会性が育ちにくい。
 まあ昔は、親が今よりもずっと早くに死んでいった。江戸時代でも、ネアンデルタール人のように、成人する前に親が死んでいなくなる子供はいくらでもいた。だから、そういう「子供だけの社会」という文化が生まれ育ってきたのでしょう。
「親はなくても子は育つ」というように、かつて人類の社会性の基礎は「子供だけの社会」でつくられていた。誰もが、そこでそういう基礎を学んでから大人になっていった。
 子供には、子供だけの社会をつくろうとする衝動がある。現在の「ヤンキー文化」とか「かわいいの文化」にせよ、大人たちの生きる流儀とは違う子供だけの世界です。まあ言葉の世界だって、大人の社会と子供の社会では違う。そういう「ジェネレーションギャップ」というのは、じつはいつの時代にもどの社会にもある。


 ジェネレーションギャップはつねに存在するのだけれど、現在の子供たちは、大人の社会に適応してゆかないと生きられない。そういう世の中の仕組みになっている。大人が長く生きている時代になってきたからでしょうか。大人が生きるのに都合のいい社会の仕組みになっている。
 もともと子供は、大人の社会では生きられない存在だった。だから、子供だけの社会をつくっていった。
 大人の社会、すなわち文明社会。すなわち共同体の制度が機能している社会。それに対して子供は、人間としての自然を生きようとする存在です。そんな生き方をすれば大人の文明社会では「無能」であるほかないから、自然に子供だけの社会が生まれてくる。
 社会性(集団性)は人間性の自然であるが、それはむしろ共同体の制度性にはそぐわない。共同体の制度性は、人間性の自然としての社会性(集団性)を圧殺する。
 人は誰も共同体の制度性だけでは生きられない。だから、そこから離れたプライベートの時間を持とうとする。そうやって「家族」という空間が生まれてきたのだろうし、誰だって先験的に趣味や遊びの世界を持っている。そこでは、共同体の制度性の論理は成り立たない。そしてそれは、自分だけの自我の世界に閉じこもるというのではなく、人間性の自然としての社会性を生きるということです。子供時にのそういう体験をしておかないと、人間性の自然を残した魅力的な大人になれないし、死んでゆくときに悪あがきをしないといけなくなったりもする。つまり、上手に老いてゆくということができない。
 現在は老人社会だといわれ、老人の暮らしが華やかにもなってきているが、長生きしなかった昔の人やネアンデルタール人のほうがずっと上手に老いていた。
 アンチ・エイジングとか、老いてもなお若々しいといっても、それ自体が「死にたくない」というただの悪あがきだったりする。
 極寒の環境の下で暮らしていたネアンデルタール人の子供が大人になるまで生きてゆける確率は半分以下だった。多くの子供が、赤ん坊のときに死んでいった。ネアンデルタール人の子供たちは、いつ死んでもいい、という思いで生きてゆくしかなかった。彼らの身体は早く成長したが、心もまた子供のときからすでに生まれて死んでゆくというライフサイクルを意識しており、つねに「今ここ」でライフサイクルを完結しようとする心模様を持っていた。
 まあ、人の心模様は、そういうライフサイクルを自覚していることの上に生成している。子供が子供だけの社会をつくるというのはそういうことで、それが、猿よりも弱い猿だった人類史の伝統です。大人よりも生きることに無能である子供のほうがずっと率直に死と和解しているし、そう思い定めれば、自然に「今ここ」で子供だけの社会をつくってライフサイクルを完結させようとするようになってゆく。
 今どきの子供や若者たちは「大人になりたくない」という。そしてネアンデルタール人の子供たちは、「大人になるまで生きられないかもしれない」という状況を生きていた。そうやって意識が目の前の「今ここ」に集中してゆき、子供や若者だけの社会が生まれてくる。
 子供は、大人に比べれば生きることに無能な存在です。そしてその無能性には「もう死んでもいい」という無意識の感慨が棲みついており、その感慨とともに大人とはべつの子供だけの社会をつくってゆく。
 子供だけの社会は、大人の社会を手本にしていない。むしろ、逆立した仕組みを持っている。大人の社会が「労働」を基礎にして成り立っているとすれば、子供たちは「遊び」の社会をつくってゆくわけで、両者は人と人の関係も生き方の流儀もまるで違う。つまり、文明人と原始人くらいに違う。人の知性や感性の基礎は子供の社会でつくられ、それが一流の学者や芸術家がそなえている究極の知性や感性のかたちでもある。
 子供たちは、親や大人たちに教えられた流儀だけで生きているのではない。子供には子供の流儀がある。
作用には、反作用がある。人間社会のすべての文化(カルチャー)は、対抗文化(カウンターカルチャー)をともなっている。いろんな意味で人類史の進化発展は、対抗文化(カウンターカルチャ)としての「子供だけの社会」が変わってゆくことによって起きてきた。
猿の社会で、畑のサツマイモの泥を水で洗って食べはじめたのは子供たちだったのです。それが、文化のイノベーション(進化発展)というものでしょう。
 人間社会の文化の進化発展もまた、子供や若者たちだけの社会から起こってきた。子供や若者たちの社会が変わってゆくことによって、人間社会全体が変わってゆく。大人たちは変わりたがらないが、子供や若者たちは変わることに身をまかせることができる。それはつまり、大人たちは「死にたくない」という強迫観念とともに生き延びようとする欲望を募らせている存在であり、一方この社会で生き延びることに無能な若者や子供たちは「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに生きている存在だというこということです。人の心は、そこから華やいでゆく。その心こそが、変化に身をまかせることができる。子供や若者たちのその心こそが人類史の進化発展を担ってきた。
 子供とは生きられない存在であり、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに生きている存在です。心はそこから華やいでゆく。そこから人類史の進化発展が起きてきた。言い換えれば、子供は、人間存在の自然・本質である「生きられなさを生きる」という受苦的な生態をもっともラディカルに背負って生きている存在なのです。
 人間の赤ん坊ほど生きることに無能な存在もない。人類の歴史は、赤ん坊がどんどん無能になってゆく歴史でもあった。
 科学的にいうなら、進化論とは、どんな赤ん坊が生まれてくるかという問題なのです。どんな大人(成体)になってゆくかという問題ではない。赤ん坊として生まれてきたところが、生き物の進化史の勝負なのです。人類のその無能性こそが、人類史の進化発展をもたらした。
 人はもう、生涯、無能性とともに生きる生態を負ってしまっている。無能な存在として生まれてきて、無能な存在として死んでゆく。その無能性から文化の進化発展を生み出してきた。
 文明社会の大人たちが生き延びようあくせくしているのなら、とうぜん子供や若者たちのあいだから「もう死んでもいい」という無意識の感慨の上に立ったカウンターカルチャーは生まれてくる。
 健康志向の不健康……健康志向なんてただの「死にたくない」という強迫観念にすぎないというのは、今や哲学や社会学精神病理学の共通理解です。その健康志向にこそ、現代社会の病理的な傾向がある。その強迫観念で多くの老人がボケたり鬱病になったりしてゆく。
「死ぬ気でやってみろ」などともいうが、人の心は「もう死んでもいい」という感慨から華やぎ活発になってゆく。そこにこそ、人類史の文化の起源の契機を解き明かすカギが潜んでいる。そういう感慨=感動をもたらす人間存在の無能性こそ、文化の進化発展の契機になった。
「もう死んでもいい」と思えるほどの感動を持っていないから、「死にたくない」という健康志向になるのです。


 何度もいうが、大人社会の「生き延びるための未来に対する計画性」によって文化のイノベーションが起きてきたのではない、「もう死んでもいい」と思えるほどの感動がその進化発展の契機になった。そんなことはもう、考えるまでもない当たり前のことじゃないですか。
 そしてそれは、生き物としての意識のはたらきの普遍性の問題でもある。
 たとえば、生き物の視覚が一点に焦点を結んでゆくとき、そのまわりはぼやけて見えている。視覚とはただたんに物理的な網膜の作用というより、意識=脳のはたらきとともに起きていることです。
 何かに夢中になっていれば、ほかのことなんか忘れている。それと同じことです。
 何もかもがぼやけている意識のはたらきなんかない。死ぬときは意識がぼやけてゆくというが、ぼやけているぶん、何か一点に焦点を結んでいるのです。死ぬ間際の老人は遠い子供時代の細かなシーンを突然思い出したりする、などとよくいわれる。
哲学的な難しいことを一心に考えていると、よけいに眠たくなって寝てしまう。欲望にまかせてつまらない妄想をあれこれまさぐっていると、かえって眠れなくなる。これと同じで、死んでゆくときの意識は何か一点に焦点を結んでいるのであって、ただもう全体的にぼやけていっているのではない。
生き物の視覚であれ意識のはたらきであれ、鮮明かぼやけているかというような違いはないのです。一点に焦点を結んでいるか、焦点の結び方があれこれ細分化し拡散しているかの違いがあるだけです。
 高知能の自閉症スペクトラムの人は、たくさんのデータを一度に記憶してしまうことができる。それは、意識のはたらきが一度にたくさんの対象に向かって焦点を結んでゆく傾向を持っていることのあらわれで、それによって社会的に有能になってゆくこともあるが、同時に一点に焦点を結んでゆく感動を体験できない気質にもなっているし、さらには目の前の相手の心模様を察することができないで、人はこんなときにこんな心模様になるというデータばかりかき集めて世渡りしている人もいる。そういう「感動のない気質」のことを自閉種スペクトラムというし、その不自然な気質こそがこの社会で生きることのアドバンテージになったり病理にもなっている。
 まあいまどきの人類学者が規定している「知能」という概念も、そういう自閉症スペクトラム的な能力のことばかりいって、一点に焦点を結びながら感動してゆく、という人間性の自然・本質というか、人間的な知性や感性の基礎と究極のかたちを何も考えていない。
 人間的な、一点に焦点を結んでゆく意識のはたらきは、感動することができるし、目の前の相手の心を察することができる。そしてそういう能力を大人のほうが豊かにそなえていると考えるのは大きな間違いで、その能力はむしろ子供や若者たちの社会から育ってくる。彼らはそうやって他愛なく戯れ合ったりもらい泣きし合ったりしている。
 ぼんやりしている無能な人間は意識のはたらきも鈍いかといえば、そうではないないのです。そういう人間の意識こそ、目の前の一点に焦点を結びながら感動している。
 それに対して生きることに有能な大人たちの意識には、目の前の多くのことに意識の焦点が散乱し、感動することも人の心を察したり感じたりする能力もない。「生活者の思想」なんて、たんなる意識の焦点の散乱にすぎない。「健康志向」だって同じです。衣食住なんかどうでもいいと思えるときこそ、人の心は目の前の一点に焦点が結ばれ華やぎときめいている。
社会人になってからの交友関係よりも中学高校時代の友達こそ一生の付き合いになるとよくいわれるが、それは、そういう「子供だけの社会」の体験を共有しているからでしょう。
 子供は生きることに無能な存在であり、大人から生きることの知恵を学んだからといって、すぐに有能になれるわけではない。もう、体の組成そのものが無能であるほかないようにできている。無能であることそれ自体を生きるしかない。そのようにして、自然に大人の社会とは別の子供だけの社会ができてゆく。
 今どきの発達障害の多くは、早くから大人の精神世界に染められてしまったことによって起きてくるのです。そうしてそのことに対する後悔と怨念によって心を病んだり犯罪に走ったりするようになる。
秋葉原事件の加藤君をはじめとして近ごろの若者や少年の犯罪は、親や大人社会に対する悲鳴と抗議だといっても、それ以前に親をはじめとする大人社会の精神世界に早くから染められてしまったという発達過程を持っている。彼らは、そうやって成長しそこなったことの後悔と怨念によって犯罪に走った。彼らは、生きてあることの無能を許し許される体験を積んできていない。生き延びる能力が称揚される現在の文明社会は、そういう「子供だけの社会」の体験が希薄になってしまいがちな構造を持っている。
 子供の心が大人の精神世界の論理に染められてしまうのは、とても危険なことです。正しく立派な大人が染めてあげればいい、というような問題ではない。染めてしまうということそれ自体が危険なのです。生きる能力を持たせてあげようとすること自体が、人間性の自然に矛盾した倒錯的な思考であり危険なのです。
 人類史の文化が進化発展してきた契機としての知性や感性のはたらきは、生きることに無能であることが共有された「子供だけの社会」ではぐくまれてゆく心模様(=脳のはたらき)にある。
 人類史の文化のイノベーションは、「子供だけの社会」が担ってきた。たとえ大人になっても、人間なら誰だって「子供だけの社会」を生きた余韻を持っている。だからこの国の昔の人たちは「若衆宿」という「子供だけの社会」を尊重する社会をいとなんできた。
「負うた子に教えられ」ということわざもあるくらいで、正しい大人の正しい教育だけで子供の心の成長発達が実現するわけでもなく、それが子供を追い詰めてしまう場合も多い。
 良い大人の精神世界と悪い大人の精神世界があるのではない。生き延びることに有能な大人の精神世界そのものが、子供の知性や感性の発達を妨げ、その心模様をいびつなものにしてしまっていたりする。大人の精神世界に染まってしまうこと自体が、発達障害を生む。べつにその大人の精神世界がいいとか悪いという問題だけではすまない。子供には子供の世界観や生きる流儀があるということに気づけない大人が多すぎる。だって、人類の文化の進化発展の契機は生き延びるための未来に対する計画性にある、それが人間の知性や感性の本質だ、と合唱している世の中なのだもの。
 生き延びることに有能にしてやるということ自体が、子供にとってはいい迷惑なのです。
 子供は生きることに無能な存在であるほかないし、その無能性を生きることによってこそ本格的な知性や感性が育ってくる。そしてそれこそが、人の自然・本質の生きてあるかたちなのです。
 人類の進化発展は、人類の子供がどのように生きてきたかという問題であって、大人たちの生き延びようとする欲望によって実現してきたのではない。生き物の進化論も、人類の文化の起源論も、その問題設定で問い直す必要がある。
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