生きにくさを生きる・ネアンデルタール人論50

 氷河期の北の果てを生きたネアンデルタール人は、人類史上もっとも生きてあることが許されない環境を生きた人々だった。彼らその地が気に入ってそこで生きようとしたのではない。気がついたらそこで生きてしまっていた。だったらもう、そこで生きてゆくしかない。生きていられないほどの苛酷な環境だったのに、そこで生きてあることには、どこで暮らすよりも豊かなときめきがあった。どんなに生きにくくても、心は華やいでいた。それが、彼らを生かしていた。
 原初の人類は、住みよい土地を求めて地球の隅々まで拡散していったのではない。もとの土地やこの生からはぐれてゆきながら心が華やいでいったからです。
 旅をすると、心が華やいでゆく。そうなればもう、どんな生きにくさもいとわなくなる。
 べつに具体的な旅をしようとするまいと、人は住みにくさや生きにくさをいとわない心模様を持っている。生きにくさをいとわないから、今どきの若者はダメ人間としてのニートやフリーターになってしまう。彼らの心は、この生からはぐれてしまっている。人の心は、この生からはぐれながら華やいでゆく。旅人であろうと定住民であろうと、人の心は漂泊している。つまり、生きようとなんかしていないのに、すでに生きてしまっている。それが、「漂泊」ということです。人間にとっては、生きてあること自体がすでに漂泊の旅になっている。
 ネアンデルタール人があんなにも過酷な地に住み着いていたのは、心がすでにこの生からはぐれていたからであって、この生に執着していたからではない。執着していたら、もっと住みよい地に移住してゆく。


 そこは、身体の形質が変わってしまうくらい過酷な環境だった。アフリカのホモ・サピエンスがすらりとした長身だったのに対して、彼らはずんぐりとした頑丈な体型をしていた。寒い土地で暮らす生き物はそういう体型になってゆく。
 進化論ではよく「適者生存」という概念が使われる。ネアンデルタール人のことでいえば、環境に適したずんぐりした体型のものばかり生き残っていったからそうなったということ。
しかし、これはちょっと違う。
 環境に適さない体型のものは生き残れなかったかというと、そんなはずがない。成人した男よりはずっとひ弱な体型の女や子供だって、とうぜん生きていた。
 たとえば、キリンの首が長くなっていった歴史を数学的にシュミレーションして計算すると、最初のころは首の短いキリンのほうが多く生き残っていったのだとか。
 これはたぶん、進化論の大問題です。適者生存という法則が成り立たない。
 生きることに有利な首の長いキリンは子孫を残せなかった。
 生きることに有利で有能であれば、基本的に他の個体は自分が生きることの足手まといだから生殖しようとする行動が起きてこない。
生きることに無能で無防備な個体のほうが、その欠損を埋めようとするかのように生殖してゆく。
 生き物が生殖するのは基本的に「今ここ」の欠損を埋めようとする行為であり、有利な個体の子孫を残そうとすることではない。
 人間だって、男でも女でも「生きられない気配」というか、そんな「危うい気配」こそがセックスアピールになっている。生きられないものどうしが生殖していったのが生き物の雌雄のはじまりであるはずで、生きられない気配を持った相手に寄ってゆくのが生殖行為です。しかも人間は、そうやって介護という行為までしている。
 まあ現代社会ではお金を持っていないと生殖の機会を持てないといわれているが、それが人間としての自然だというわけでもないでしょう。それは、文明社会の付随的な条件であって、男と女がセックスをすることの本質の問題ではない。お金があっても女に逃げられる男もいれば、勃起不全になってしまったりもする。
「貧乏人の子沢山」というのは、生殖行為の普遍的な一面の真実をいいあらわしている。
 生きにくさを生きている気配を持っていないと女にはもてない。その危うさがセックスアピールになる。
 キリンの首が長くなっていったのは、長いキリンが「適者生存」で子孫を増やしていったのではなく、短いキリンの首が長くなっていったのです。その「短い」という生きにくさにこそ、長くなってゆく契機がある。長いキリンの子孫はそれ以上長くならないが、短い首で苦労してきた歴史を持っているキリンのほうがさらに長くなってゆく契機を持っている。
 ネアンデルタール人の場合でも、頑丈な体型の個体ばかりが生き残っていったのではなく、誰もがその過酷な環境にほんろうされながら頑丈な体型になっていった。頑丈な体型の個体しか生き残れないのなら、女や子供がいない集団になってしまう。彼らはもう、誰もが生きにくさを生きていたのであり、その頑丈さの最低値が上がっていっただけでしょう。
 身体能力の劣った女や子供が生き残れないことには種の存続は成り立たない。単純に「適者生存」の法則で進化するわけではない。生きにくさを共有してゆくところで進化が起きてくる。弱いもののほうがたくさん生殖するのであり、弱いものが生き残ってゆかないことには進化は起きない。むしろ「適者」を淘汰しながら進化してゆく、というパラドックスがある。
生物の世界において、生きることに有能な「適者」の繁殖能力はけっして強いわけではない。


 雌雄を持った生き物の世界においては、個体としての生きる能力が欠損したものたちが、その欠損を埋めるようにして繁殖してゆく。だから人間の世界では、冒険家に代表されるような「生きられない危うさ」がセックスアピールになる。
 原始人は、「生きられない危うさ」を生きるように地球の隅々まで拡散していった。人間はみな「冒険家」なのです。それが人間性の自然であり、生き物の自然でもある。
「生きられない危うさ」を生きることによって「進化」が起きてくる。キリンの首の進化史においては、「生きられない危うさ」を生きる首の短いキリンのほうが繁殖力も首が長くなってゆく契機もそなえていた。
 男であれ女であれ、生き延びることにあくせくしている人間は、セックスアピールが足りないからあまり異性に好かれない。生き延びようとする自意識が過剰で、他者に対するときめきを持っていないということを悟られてしまう。心が貧しい、つまらない人間だ、と感じられてしまう。
 ホリエモンのように「金があれば何でも手に入る」ということは、金の力でしか手に入れることができない、ということでしょう。セックスアピールすなわち人間としての魅力や男としての魅力で惚れられたという経験を持っていないらしい。彼には「生きられない危うさ」の気配が決定的に欠落している。
「世の中、金さ」、「女なんかけっきょく金で動く」などといっても、それが普遍的な女の心模様を言い当てているのではない。この世のどこかには、清い恋もあれば、熱い恋もある。自分のところにはないだけのこと。自分にそういう恋ができるだけのセックスアピールがないのをさらしているだけのこと。金のために動く女だって、人間なんだもの、ちゃんとそういうことを見ているし感じてもいる。金があるから女をものにしたとか、金がないから女が逃げていったとか、とどのつまりセックスアピールという人間的な魅力のない男のいうセリフで、女を人間として見ていないし、女から人間として見られていることに気づいていない。
 それはまあ、男と女の関係だけでなく、人と人の関係そのものの基礎の問題であろうと思えます。


 雌雄を持った生き物の繁殖行動は、生きられない危うさの上に成り立っている。そこから「進化」が生まれてくる。そしてそれは、人と人が関係するときの心の動きでもある。人間はことにそういう存在であり、原初の二本の足で立ち上がったときに、そういう存在になったのです。
 生きられない危うさを持ったものは、自意識が薄く、自分を忘れて他愛なく世界や他者にときめいてゆく。赤ん坊はみなそうやって存在している。したがって人間なら誰だってそういう部分を持っているはずだが、現代社会には、そういう部分を封じ込めて生き延びようとあくせくする自意識を肥大化させてしまう構造がある。
 生きる能力対する信仰、現代人はそういう自意識によって社会的に成功したり心を病んだりしているのだが、人間性の自然はあくまで「生きられない危うさ」にあり、魅力的な人はそのタッチをセックスアピールとして持っている。また、それによってほんらいの人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。
 なのに現代人は、生きる能力に対する信仰によってボケ老人になったり鬱病になったりしている。生きる能力の喪失を嘆いて鬱病になり、ボケ老人は生きる能力を主張してまわりに迷惑を振りまいている。そうしてそれらの問題の解決を「生きる能力の回復」にあるとする現代社会の倒錯した状況があり、なかなか治癒の道すじが見えてこない。お金の世の中で、お金は生きる能力の根拠として機能している。だから、どうしてもそういう思考・発想になってしまう。人の脳のはたらきが金に支配されてしまっている。そうやって現代人は「生きる能力」を信仰し、あれこれのやっかいな社会病理を引き起こしている。不自然なことだから精神を病む。
社会で成功して「リア充」に浸っている人たちの心が精神を病んでいるものたちの心と異質かといえば、そんなことはない、同じなのです。どちらも生きる能力に対する信仰に浸されている。違うのは、社会的な成功を持っているか否かということであって、心模様が違うのではない。その「リア充」は、きっかけがあればたちまち「メンヘラ」に反転する。歳をとるとか病気になるとか仕事がうまくいかないとか、人間関係が不調だとか、きっかけはいくらでもある。彼らはみな、社会的な成功がなければ精神を病んでしまう人たちなのです。というか、社会的な成功がその不自然を覆い隠しているだけのこと。
「生きる能力」に対する信仰に浸された社会そのものがすでに病んでいる。そんな文明社会の制度的で通俗的・倒錯的な問題意識では、「起源論」の主題である人間性の自然も人間的な知性や感性の本質も見えてこない。
「生きられない危うさ」を生きることこそ人間性の自然であり、人間的な知性や感性が生まれ育ってくる契機になっている。つまり、人間的なそんな生き方や心模様から人類史の文化のさまざまな「起源」が起きてきたということ。
 人は、「世界がぼやけて見えている」という、生きることに「無能」で「無防備」な知覚を持っている。そしてその「生きられない危うさ」こそが生き物の自然であり、同時に人間社会の高度な知性や感性やセックスアピールという人間的魅力が生まれてくる契機になっている。心はそこから一点に焦点を結んで華やぎときめいてゆく。この心模様から人類史の文化の進化発展が生まれてきたのであって、「生き延びるための計画性」とか「象徴化の知能」とか、起源論を語るときの多くの人類学者のそんな通俗的で程度の低い問題設定はいいかげんやめてくれよと思う。
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