人間的な飛躍の心模様・ネアンデルタール人論49

 なにはともあれネアンデルタール人が氷河期の北ヨーロッパというこの上なく苛酷な地に住み着いていったのは、人間的な「飛躍」の心模様があったからであり、その「飛躍」の心模様こそが人類史の文化の進化発展の契機になっている。
 そこは、彼らにとっての理想郷でもなんでもなかった。まあ、ろくな文明を持たない原始人にとっては最悪の環境だったはずです。それでも彼らはそこに住み着いていった。住み着いてしまう心の「飛躍」があった。
 理想郷ではなかったからこそ住み着いていった、ともいえる。そこは、つねに死と背中合わせの環境だった。だからこそ、心はそこから華やぎときめいていった。
 原始人は、理想郷を目指して地球の隅々まで拡散していったのではない。拡散すればするほど住みにくくなっていったのです。それでも拡散していったのは、人の心は死と背中合わせのところから華やぎときめいてゆくという傾向を人間性の自然として持っているからです。
 ネアンデルタール人に「理想郷」などという概念はなかった。そんなものは現代人の制度的な観念の中で成り立っているだけです。原始人はむしろ、「理想郷」に置かれてあることのまどろみからはぐれるようにして拡散していった。


人類は、その心模様の本質・根源において、生き延びることのできる「いい社会」を目指しているのではない。そんな「理想」など持っていない。この社会や自分の人生がよくなろうと悪くなろうと、その「なりゆき」を受け入れることのできる心模様を持っているのが人間性の自然であろうと思えます。詐欺師になろうと人殺しになろうとホームレスになろうと身体障害者になろうとメンヘラになろうと、みんな、それぞれの「こうしか生きられない」というところを精一杯生きている。そうしてその総和の「なりゆき」が人類の未来になってゆく。
人類の未来を決める資格なんか、誰にもない。
現在のアジテーター=オピニオンリーダーたちは「生き延びるための方法論」として人間性を語っているわけだが、人類学者の「起源論」もまったく同じレベルの思考に終始している。それが、現代社会の人間観であるらしい。ここでは、そんなパラダイムを「それは違う」と転倒しシフトしてゆこうと考えています。
生き延びるという理想を目指すことよりもそんな理想からはぐれてゆくことのほうがもっと人間的であり、そこにおいて人類史のイノベーションという進化発展が起きてきたのです。
人類史の言葉の起源は、その言葉という音声を「意味という理想」に「象徴化」して予定調和的につなげてゆくことではなく、意味からはぐれ「飛躍」してゆくところにあったわけで、そこにこそ人間的な知性や感性のはたらきがある。前者のような「有能」な文明社会的制度的な予定調和の思考よりも、後者の生きることに「無能」な無意識的他愛なさから人間的な「飛躍=ひらめき」の知性や感性が生まれ育ってくる。
生き延びるという理想からはぐれたくはないが、それでもはぐれていってしまうのが人間性の自然であり、そうやって現在のニートやフリーターというダメな若者群があらわれてきた。そのはぐれていってしまうところに人間性の豊かなニュアンスがある。


言葉の起源に科学的な証拠なんかない。
5万年前の北ヨーロッパネアンデルタール人と同じころのアフリカ中央部のホモ・サピエンスとどちらの言葉が発達していたかという問題は、けっきょくどちらのほうが人と人の語り合う関係が豊かに起きている社会だったかというその状況証拠を問うてゆくしかない。
 現在の人類学では発掘された骨の喉の構造からどの程度言葉が発達していたかを探ろうとしているのだが、それは科学的なようで少しも科学的ではない。言葉なんか、猿やオウムの喉でもしゃべることができる。どのような喉の構造をしていたかということは問題ではない。しゃべれる喉の構造を持っていても、語り合う文化や社会を持っていなければ言葉は生まれ育ってこない。
 現代人は誰もがしゃべることができる喉の構造を持っているが、それでも「失語症」になってしまう人がいるのです。語り合うことができる環境を持っていなければ、どんなに知能が発達した人でも失語症になってしまう。
 いってもわかってくれそうもなかったり、いったら相手が傷ついたり怒り出しそうならもう、黙っているしかない。
 高度な科学的知能を持った人が科学的知能を持たない人ばかりの環境に置かれたらもう、言葉少なになるしかない。無知なおばさんは無知なおばさんどうしならおおいに饒舌になれるが、一流の科学者を相手にしてはそうもいかないでしょう。
 言葉が生まれ育ってくる契機は、語り合うことができる環境が存在することにあるのであって、知能や喉の構造の問題ではない。
言い換えれば人類は、700万年前に二本の足で立ち上がったときから、すでにしゃべることのできる喉の構造を持っていた。この世界や他者に対するときめきがあれば、さまざまなニュアンスの音声が口の端からこぼれ出てくる。そういう環境が生まれてきたのが、人類史の言葉の起源です。
 5万年前の北ヨーロッパネアンデルタール人と同じころのアフリカ中央部のホモ・サピエンスと、はたしてどちらの社会に人と人が豊かにときめきあう関係があったか?
 アフリカはもともとミーイズムの土地柄で、人と人がダイナミックにときめきあうとか連携しあうというような歴史の伝統を持っていない。もしも5万年前にすでにそのような関係性や社会性があったら、その後の世界の歴史から取り残されるというようなことは起きていないはずです。
 それに対して氷河期の極北の地で暮らしていたネアンデルタール人はもう、人と人がときめきあい連携してゆく関係を持たなければ、誰も生きられなかった。なにはともあれそれが現在まで続くヨーロッパ社会の伝統であり、つまり、言葉が生まれ育ってくる状況はネアンデルタール人の社会にこそ色濃くあったということです。
 

 現在の言語学発達心理学の常識では、世界の細部がクリアに見えてくることによって言葉が生まれ育ってくる、ということになっています。たとえば、リンゴとミカンの違いが分かってそれらを区別するためにいろんな言葉が生まれてくる、といわれている。つまり彼らは、世界の細部にくまなく意識の焦点が合わさってその世界の調和=秩序を認識する道具として言葉が生まれてくる、といっているわけです。
 しかし、そうじゃない。世界がぼんやり見えていることの「印象」という「ときめき」から言葉が生まれてきたのです。人の心は、ただその対象をああ素敵だとか、ああ面白いとか、なんだか変だなあとか、怖いなあとか、かなしいなあとか、そういう「意味を超えた印象」を抱いてしまうわけで、その「ときめき=感動」とともにさまざまなニュアンスを持った人間的な音声が口の端からこぼれ出てきたのです。それが言葉の起源であり、本質であるはずです。
 原初の言葉は、意味を伝達する道具ではなかった。その機能はあとの時代の文明社会によって本格的に付与されていっただけであり、原初の言葉は「ときめき=感動」の表出だった。
 赤ん坊だって、その音声を聞くことのときめきを契機にして、やがてその音声を発することのときめきを体験してゆく。赤ん坊は自動車と出会うことのときめきから「ぶーぶー」といっているのであって、自動車の「意味」を自覚し表現しているのではない。そしてそれは、世界の細部がクリアに見えてきたからではなく、意識が一点に焦点を結んでまわりの世界がぼんやり見えているという体験をするようになってきたからです。
 世界が「見える」ということなど、言葉を覚える前からすでに体験しているし、それでは言葉が生まれてくる契機にはならない。自閉症スペクトラムの子供は、普通の子供よりもずっと世界の細部をくまなくクリアに見る能力を持っている。しかし言葉を覚えるのは、普通の子供よりも遅いのです。
 たとえば石原慎太郎という政治家は、しゃべっているときに頻繁に目をつぶる。それは、世界がクリアに見えていたら警戒心で心が固まってしまって言葉が出てこないからです。
 世界の細部がくまなくクリアに見えていれば、心は緊張が強くなるだけで、無防備にときめきめいてゆくという体験はできない。その体験ができなければ、言葉は覚えられない。
 そのとき赤ん坊の意識は、世界がぼやけて見えているという世界の混沌から世界がクリアに見えるという「世界の調和」に気づいてゆくのではなく、世界の一点に焦点を結んでときめいてゆく。それが、言葉を覚えるという体験の契機です。それはむしろ、世界がよりぼやけて見えるという体験なのです。
 言葉は人と人の関係の本質・自然から生まれてきた。そしてそれは「意味」を伝達することではなく、ときめきあうことにある。そんなことは当たり前のことだが、多くの人類学者や言語学者はそのパラダイムでは考えていない。


 言葉は、「世界の調和」を認識したり「世界の調和」を構築するための道具として生まれてきたのではない。
 原初の言葉は、意味を超越していたのです。
 言葉は、その本質において「意味の伝達」という機能を超越している。
 文字は、言葉の意味を記すものとして生まれてきた。それは、言葉の本質ではない。だから、文盲ということが起きてくる。字が覚えられないからといって、言葉に対して鈍感だというわけではない。むしろ敏感すぎて文字に対する違和感がぬぐえないという場合もある。
 日本列島では、言葉を本質的に扱う伝統が色濃くあったために、自前の文字を持つということがなく、大陸よりもずっと遅く大陸の文字を借りてようやく定着させていった。言葉における「意味の伝達」の機能は共同体(国家)の制度性とともに本格化していったわけで、言葉の本質に敏感だった日本列島では共同体(国家)の成立も文字の使用も、大陸よりも何千年も遅れて、ようやく1500年ほど前に起きてきた。
日本列島では、1000年前でもほとんどの人々が文盲だった。しかし、いったん覚えはじめたらたちまち誰もが字を読める社会になっていった。それは、「ひらがな」という「意味」ではなく「音声感覚」を表記できる文字を持ったからでしょう。漢字という意味表記の文字しかなかった古代は、ほとんどの日本人が文盲だった。そのかわり語り合う文化の豊かさは誰もが自覚していて、それを「大和はことだまの咲きはふ国」といった。
おしゃべりの楽しさは音声を発したり聞いたりすることのときめきにあるのであって、「意味の伝達」の機能など二次的なことにすぎない。
 言葉の本質は「音声」であることにある。それは「音声」のニュアンスに対するときめきとして生まれ育ってきた。「音声」のニュアンスは「意味」を伝えるのではなく、「音声」を発する「感慨」を伝える。まあ、そうやって人と人がときめきあっていることの形見として言葉が生まれ育ってきた。
 原始時代の集団は、「意味」を共有していることの上にではなく、人と人がときめきあっていることの上に成り立っていた。言い換えれば、「意味」なんか、言葉以前にすでに共有していた。リンゴが食べたらおいしい丸くて赤い果物であることはすでに誰もが知っていたのであり、そんな「意味」を伝達することなど言葉が生まれ育ってくる契機にはならない。
 赤ん坊は、まずはじめにお母さんの発する音声にときめくという体験をする。そこから言葉を覚えてゆく。自動車の「意味」を表現したくて「ぶーぶー」というのではない。自動車と出会ったことの「ときめき」を表出しているだけです。そのとき「意味」なんか自覚していない。「意味」は、発せられたあとから生まれてくる。
「ときめき」が音声になる。「意味」に気づいても音声にはならない。「意味」なんかとっくの前に誰もが気付いている。そういう状況から「意味を超越した音声」として言葉が生まれ育ってきた。原初の言葉は、そういう「印象」の表出だったのです。
「印象」という人間的な認識が言葉を生み出した。
 意識は一点に焦点を結んでそのまわりの世界はぼやけている、そういう体験から言葉が生まれてきた。そのとき人類は、「意味」を認識したのではない、「印象」を抱いたのです。「意味」なんかとっくに認識していて、その「意味」を超える「印象」という認識体験をしたのです。
 

 たとえば、そこにゴッホの作といわれている絵が百枚あるのだがじつは本物は一枚しかない、という状況があったとします。そしてそれは、誰も知らないゴッホの絵です。だったらそこではもう、ゴッホの絵に対する知識など役に立たない。そのとき鑑定人がこの一枚が本物だと認識する最終的な決め手は「印象」であり、それこそがもっとも高度な「目利き」の資質なのです。
 科学者の「研究=探究」だって、そのつどの「印象」を里程標にして実験を重ねながら本質に分け入ってゆく。それはもう、右に行けばいいのか左に行けばいいのかという分かれ道の連続で、どちらに行けばいいのかということなどわからないのです。
 人類の意識は「世界はぼやけて見えている」というところに立っているからこそ、「印象」という認識を持ったり「一点に焦点を結んでゆく」という体験ができるのです。そういう無防備なところに立てるのが人間的な資質であるというか、原初の人類が二本の足で立ち上がることは、そういう無防備なところに立つ体験だった。
「印象」という認識こそ、人類の文化の起源の契機になる体験だった。
 人類学者や言語学者の多くは、言葉に「意味」を付与してゆく「象徴化の知能」が言葉の起源の契機だったといっているのだが、そうではないのです。言葉はそうやって世界の意味体系(=調和・秩序)を構築する道具だったと彼らはいうのだが、そのような機能は共同体の制度性とともに本格化してきたのであって、起源としての言葉の本質ではない。
「世界の調和・秩序」を構築しようとするのは、ひとつの文明社会的な病理なのです。まあそれが共同体を成り立たせる制度性のコンセプトでもあるからそれによって社会的に成功することも多いが、それこそが人間性の自然をむしばんで精神を病む原因にもなっている。人間性の自然は世界がぼやけて見えていることにあり、そこから高度な知性や感性も生まれてくる。世界がぼやけて見えていることこそ、人類の文化の起源の契機になった。
ぼやけて見えているその状況から「印象」という超越的な認識を汲み上げてゆくことこそ、人間性の自然であり、人間的な知性や感性のはたらきなのです。
人類が火という生き物が怖がる対象と親密になってゆくことができたのも、それがぼやけて見えている対象だったからであり、それこそまさの超越的な「印象」という体験だった。火は、ゆらめきながら消えてゆく……そのことと人間的な命のはたらきに対する感慨がシンクロナイズしていった。そういう「印象」という超越的な認識体験だった。
 人類の「印象」という認識体験は、意味を付与する「象徴化」のはたらきではない。意味を超越してゆくはたらきであり、それが人間的な知性や感性になっている。
 単純にときめいたりかなしんだりすることは、超越的な「印象」という認識体験です。人は、その心の動きが猿よりもはるかに深く豊かなのです。その心の動きが知性や感性になり、人と人の関係をつくっている。
 人と人の関係の基礎と究極はときめきあうことにある。その関係がなければ、人は生きられない。そしてこの社会でその関係が機能するのに必要なことは、誰もがときめかれる魅力を持つことではなく、誰もがときめいてゆくことができる心を持つことにある。言い換えれば、ときめいてゆくことができる心を持っていないと嫌われる。どんなに自分の魅力をプレゼンテーションしても、ときめく心を持っていなければ嫌われる。人類社会の基礎は、誰もが他愛なく他者にときめいてゆくことの上に成り立っているのであって、誰もが魅力的になることによってではない。人は他者の存在そのものにときめいてゆく。他者が存在するということそれ自体にときめきがある。そのことの上に人間社会が成り立っている。だから、ときめく心を持っていないと嫌われる。自分をむやみにプレゼンテーションしたがるのは、他者に対する警戒と緊張が強いからであり、ときめく心を持っていないことの証しでもある。


「目の前の今ここ」という一点に焦点を結ぶということ。「ときめく」ということ。
 身体障害児の子供を持ったお母さんは、その子が生きているという「目の前の今ここ」だけでときめいている。生きているというその一点においてその子は輝いている。そこには「五体満足」という「世界の調和」などないが、それでも世界は輝いている。
 人が介護行為をするということは、根源的には生き延びる能力に対する信仰など持っていないことを意味する。その行為は、生き延びることに対する「無能・無防備」をひとつの尊厳として感じることの上に成り立っている。
 金があるとか頭がいいとか姿かたちが美しいとか、そんな「世界の調和」にまどろんでいられたら、それはきっと幸せでしょう。現代人はもう、なんだか強迫観念のようにそんなあれこれを欲しがる。そうして、そんな「世界の調和」を目指すいとなみが人類の歴史だったと人類学者たちは合唱している。そうやって人類の知能や文化が進化発展してきたと合唱している。
 彼ら人類学者たちが、「りんご」という言葉はりんごという物体そのものの意味を「象徴」し表現するために生まれてきたというとき、それはこの世界の調和=秩序をつくるいとなみだった、といっている。
 しかしその言葉を生み出した原始人は、りんごの意味なんか誰もがすでに知っていたのであり、いまさらそれに意味付与する必要など何もなかったのです。言葉は、そんな目的で生まれてきたのではない。
 言葉は語り合うための道具であり、それが人と人の関係から生まれてきたのは当然のことだが、その「関係」とは「説得する」とか「伝達する」とか、そうやって「世界の調和」をつくるためではなく、ただもう「ときめき合う」関係が深く豊かになる体験をもたらしていたからでしょう。
 したがってそれは、ときめきの表出として生まれてきた。りんごのことをいっていても、りんごの「意味」ではなく、りんごに対する「感慨=ときめき」を表出していた。原初の言葉はその「感慨=ときめき」を共有してゆく道具だった。つまり、そうやってりんごの「意味」を超えていった。そういう「飛躍」してゆく体験として言葉が生まれてきた。
「伝達」という目的だけで言葉が生まれてくることはありえない。そんなことは身振り手振りで間に合う。しかしそのとき人類は、伝達だけではすまない、ときめき合う人と人の関係に目覚めていった。そういう関係へと飛躍してゆく道具として言葉が生まれてきた。
 言葉の起源・発生の現場で起きた「ときめき」とは、意味を伝達しようとする「目的」ではなく、そうした「世界の調和」という「共生関係=一体感」からはぐれてゆく体験だった。人と人は「共生関係=一体感」からはぐれながらときめきあっている。そのはぐれてゆくことが、人類史の「イノベーション=飛躍」だった。原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、猿の生態からはぐれていった。
 人間は、「これは違う、何かの間違いだ」とこの生からはぐれていってしまう存在です。根源的には、この生を正当なものと認識し生きのびようとしている存在ではない。そんな「世界の調和=秩序=理想郷」を目指しているのでもまどろんでいるのでもない。だからこそ、知能が進化発展し、その歴史にさまざまなイノベーションが起きてきた。人類史の「起源論」は、人間を「この生を正当なものと認識し生きのびようとしている存在」として問題設定することによっては解き明かせない。
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