世界はぼやけている・ネアンデルタール人論48

 ネアンデルタール人は、50万年前から北ヨーロッパという氷河期の極北の地に住み着いていた。ろくな文明を持たない歴史段階の人類が、なぜそんな生きられるはずもない地に住み着くということができたのか。
 原始人は、住みよい地を求めて地球の隅々まで拡散していったのではない。その現象を促したのは、そんな欲望ではない。いつの時代も、住み慣れた土地が一番住みよいに決まっている。そういう住み慣れた住みよい環境からはぐれてゆくようにして拡散していったのです。
 人間性の自然は、「世界の調和」を求めているのではない。人の心は「世界の調和」からはぐれてゆく。はぐれてゆけば、世界はぼやけて見えている。そこから「印象」という認識を汲み上げてゆく。不安定な二本の足で立つ姿勢を常態にしている人類にとって世界がまるごとクリアに見えていることは命の危機であり、世界すなわちいつ外敵に襲われるかということに対する不安や恐怖ばかりになっている状態であることを意味する。
弱い生き物であればこそ、世界がクリアに見えていたら生きられない。とくに二本の足で立ち上がった直後の原初の人類は、敵と戦うことも敵から逃げることもできない猿だった。
人は、根源において、敵と戦ったり敵から逃げたりするメンタリティを持っていない。だから、東日本大震災のときの津波で、あんなにも大きな被害になってしまったのでしょう。そしてそれは、どんなに住みにくくてもその条件を受け入れることができるということであり、そうやって地球の隅々まで拡散していったわけだが、それは、住みにくさと戦うのではない、受け入れるのです。また、住みにくさから逃げてほかの地に移住してゆくということもしない。
 人間ほど無防備な猿もいない。そういう生態がきわまって、氷河期の極北の地に住み着いていった。彼らには、その過酷な環境と戦う能力はなかったし、逃げようとする意識もなかった。ただもう受け入れて住み着いていった。
 人類史上、ネアンデルタール人ほど無防備な人類もいなかった。彼らの目の前に広がる極北の原野はぼやけて見えていた。そしてその中の一点である動物や他者に対してはくっきりと焦点が結ばれ、ときめいていた。
 彼らは、洞窟の壁にたくさんの動物の絵を描いた。そして人と人は他愛なくときめきあい、男と女は毎晩のように抱き合いセックスをしていた。そういう「一点に焦点を結んでゆく」意識のはたらき(=ときめき)こそ、人類の文化の起源の契機だった。
その無防備な知覚が、人類の文化の進化発展を促した。


シマウマは、ライオンのすぐそばで暮らしている。いざとなったら逃げることができる脚力を持っているからです。ライオンにつかまるのは子供か体力の衰弱した個体だけです。まあそれは自然淘汰の範疇で、それによって群れの個体数が増えすぎないように調節されている。
天敵のいない孤島のシカなどは、群れが増えすぎて草を食べ尽くして全滅してしまうこともある。
外敵がいなければ種は存続しない。それはつまり、外敵に対して無防備になっている心模様がなければ種は存続しないということを意味する。シマウマがライオンのいない孤島の楽園で暮らせば、かえって全滅してしまうのです。そして無防備な世界がぼやけている視覚だからこそ、こちらに向かって動き出したライオン、という一点に焦点を結んでゆくことができるのです。まわりの世界が細部までクリアに見えていたら、こちらに向かって動き出しているという気配=印象を察知することができない。動き出した瞬間、それはぼやけてしまう。なぜなら、もとのクリアな画像がそのまま頭に刷り込まれているから、その画像が動き出せばぼやけてしまうのはとうぜんです。
草を食んでいるシマウマのまわりの世界はぼやけている。だからこそ動き出したライオンに気づくことができる。
自閉症スペクトラムの人は、世界がくまなくクリアに見えているからこそ、相手の心の変化に気づくことができない。変化したらもうぼやけてしまう。しかし人の心はたえず動いて変化してゆくものです。その変化を察知することができないから、対人関係に失敗することが多い。こんなことをいえば相手が傷つくとか怒るとか悲しむという経験知を持っていない。そうやって現場で察知した経験を持っていない。いっていいことといけないことをあらかじめの知識として用意しておくのが彼らの処世術です。まあ、心のやり取りがうまくできない。だから表情が乏しいとか逆にわざとらしく大げさだという人が多い。
人は、表情を豊かに持っている。心の動きが表情にあらわれる。猿と違って人類の表情が豊かになったのは、表情によって心の動きを察知し合う歴史を歩んできたからでしょう。
人は、表情という気配を察知することができる。世界がぼやけて見えているからこそ、そういう変化を察知することができるのです。そうやって人と人はときめきあい、関係を結んでゆく。
 原初の人類は猿よりも弱い猿で、生きることに無能で無防備な存在だった。それが二本の足で立ち上がったことの結果で、無能で無防備な存在だったからこそ、外敵の出現の気配をいち早く察知することができた。しかし、いち早く察知しても逃げる能力がないから、察知したときはもう手遅れだった。だから、外敵の気配のないところに住み着く習性になっていった。そうやって地球ん隅々まで拡散していったわけだが、それは、ますます無防備になりますます気配に敏感になってゆくことでもあった。人は、表情で相手の心の気配を察知することができるくらい敏感であると同時に、猿よりももっと他愛なくときめきあってゆく無防備な存在でもある。
 猿は同じ猿に対してもつねに敵か味方かと吟味する警戒心がはたらくから、「順位制」という秩序を持たなければ集団をいとなむことができない。しかし人間は、たとえばスタジアムの観客のように、見知らぬ者どうしの順位のない無秩序な集団だってつくることができる。そのことが基礎になって、共同体(国家)という無際限に大きな集団が生まれてきた。
 人間ほど無防備な猿もいない。それは、人間にとっての目の前の世界はどんな猿よりもぼやけているとと同時にどんな猿よりも一点に焦点を結んでゆくときめきを持っている、ということです。
原初の人類は、外敵のことなど忘れて世界がぼやけて見えている状態に身を置いていなければ生きられなかった。人の心は、世界の一点に焦点を結びながら、その不安や恐怖を忘れながらときめいてゆく。
 人間は、根源において生きることに「無能」な存在なのです。そしてその「無能」であることを「無防備」になることによって克服しながら生きている。それが「一点に焦点を結ぶ」ということであり、「ときめく」という「印象」です。


 ここでは今、人類の文化の起源の契機を問う手がかりを模索しています。それは、多くの人類学者のいう「象徴化の思考=知能」とか「生き延びるための計画性」とか、そんな問題設定ではなく、ひとまず「世界がぼやけて見える=世界の一点に焦点を結ぶ」という知覚を人間性とするところからアプローチしてみたいわけです。
 原始人は、生きることに無能で無防備だった。しかしじつは、そこから人類史の文化のイノベーションが起きてきた。
それは、世界がくまなくクリアに見えて世界の調和を実現するいとなみとしてではなく、世界の調和からはぐれてゆく「飛躍」として生まれてきた。
 人類学者のいう「象徴化の思考」とは、「象徴化」によって世界の調和を構築してゆく思考であるらしい。世界の調和を構築することこそ人間的な知能だという。
 このことを、言葉の起源に戻って考えてみます。
たとえば、リンゴの意味を象徴する音声として「リンゴ」という言葉が生まれてきたのだと彼らはいう。しかし、語源としての「リンゴ」という言葉には、リンゴの意味など象徴されておらず、リンゴに対する「感慨=印象」が表出されていただけです。リンゴの意味など誰もが知っていたのであり、そこから「飛躍」した「感慨=印象」を共有してゆく機能として言葉が生まれてきた。
 リンゴの意味を象徴化させようとする意図なんかなかった。リンゴに対する「感慨=印象」を表しているだけなのに、誰もがそれはリンゴのことだとわかった。言葉は本質においてそういう「飛躍」してゆく表現だから、地域ごとに違う。リンゴに対する「感慨=印象」のニュアンスは地域によって違うし、その分だけ言葉も違ってくる。
西洋人の月に対する「感慨=印象」と日本人のそれとでは違う。西洋人は、「満月の夜に狼男に変身する」などといったりしてそこに何か不吉なものを感じるらしいが、日本人の印象はポジティブです。月にウサギがいるとかかぐや姫とか。
 したがって、西洋の「ムーン」という言葉が日本列島に移植されることはありえない。
 やまとことばの「む」という音声には、「むり」とか「むずかしい」とか「むなしい」とか「むやみ」とか、否定的なニュアンスがともなっている。この音声に対する感覚はおそらく人類共通で、西洋人は月に対して不吉なものを感じたから「む」という音声で表したのかもしれない。
 それに対してやまとことばの「つき」の「つ」は「つるつるしている」というように、「輝いている」というニュアンスです。あるいは「付く・着く」の「つ」で、親密な感慨の表出でもある。やまとことばの「つき」は、月に対する親密な感慨を表している。「(運が)ついている」といえば、めでたいことでしょう。「つきがある」などともいう。
 いずれにせよ原初的な言葉はそういう「飛躍」した表現だったのであって、事物の意味を「象徴化」していたのではない。運がついているときの「つき」と空の「つき(月)」はとうぜん同じものではないし、しかしそれに対する「感慨=印象」は同じでもある。まあ日本列島においては、昔から月はめでたい対象だった。昔の人は、月を眺めながら、「めでたい」という「感慨=印象」を共有していったのであり、そうやって「つき」というやまとことばが生まれてきた。
 やまとことばの「つき」には、月という天体それ自体の意味などこめられていない。だからこそ、いろんな意味に使うことができる。意味は、月という漢字に宿っているだけです。
「尽(つ)きる」といえば「究極の」というようなニュアンスで、「狐憑(つ)き」は狐になり切っていること。「つき」という言葉は、「親密感」の表出として生まれてきた。「喪中につき……」というときの「つき」は、喪中であることにこだわっています、というようなニュアンスで使われている。「付(つ)き合う」は、親しく交際すること。
 言葉の本質は、「意味」の表出ではなく、「意味からの飛躍」にある。
 そしてそういう「感慨=印象」は、世界がぼやけて見えていることから汲み上げられる。ここが問題です。現代人はもう、世界の細部までくまなく焦点を当てながら「意味の伝達」にこだわって言葉を扱っているが、原始人や古代人は意味から飛躍した「感慨=印象」を共有しながら言葉を扱い、人と人の関係をつくっていた。そこに、現代社会のせちがらさと古代・原始社会のおおらかさとの違いがある。


 ソシュール以来の言語学の常識では、言葉は「差異」の表出である、といわれている。まあ、リンゴとミカンを区別するために「リンゴ」と「ミカン」という言葉が生まれてきた、ということでしょうか。世界の細部にくまなく焦点を当てているから、そうした「差異」に対するこだわりが生まれてくる。しかしそれは、文明社会の病理的制度的な心模様であって、人の心の自然・本質ではない。
 人の心の自然・本質においては、世界はぼやけて見えている。そうして、一点に焦点が結ばれている。一点に焦点を結びながら「感慨=印象=ときめき」を汲み上げる。「差異」すなわちリンゴとミカンの違いなどどうでもいい、リンゴそれ自体に対する「感慨=印象」として「リンゴ」という言葉が生まれてきただけのこと。もともと意味などこめられていなかった。月という天体の意味を表すために「つき」という言葉が生まれてきたのではないのです。
 ソシュールの解釈なんて、いかにも文明社会的で自閉症的です。彼は、言葉の本質に届いていないし、人類学者が「象徴化(の知能)」という概念で文化の起源を語りたがるのも、ソシュールの影響があるのかどうか知らないが、頭の中が文明社会のそうした制度的自閉症的な思考にすっかり染め上げられてしまっているからでしょう。
 われわれの意識は世界の一点に焦点を結んでいるからこそ、世界はぼやけて見えているのです。つねに敵を警戒している猿の意識のほうが、世界を細部までクリアにとらえている。人間は、もっと無防備で無能なのです。無防備で無能になることによって知能を進化発展させてきたのです。
われわれの「人間とは何か」という問いは今、パラダイムシフトする必要がある。でないと歴史の真実や人間性の本質・自然に推参できない。現代の無防備で無能なニートやフリーターをはじめとするダメな若者たちは、そういうパラダイムシフトとして出現し増殖しつつあるのではないでしょうか。そうやって人類史の地下水脈からじわじわと人間性の本質・自然が湧き出してきている。彼らは原始的であり、同時にそこにこそ高度でより人間的な知性や感性が育ってくる契機がある。人類の希望というか可能性は、彼らのもとにこそある。それは、今どきの大人たちというか、今どきの内田樹上野千鶴子をはじめとする薄っぺらで俗物根性丸出しのあまたのアジテーターのもとにあるのではない。自意識過剰というのか、あの連中こそ現代社会の自閉症的な傾向をいたずらに進行させている元凶なのだと思えます。俺のいうことを聞けばいい社会になるとかなんとか、余計なお世話というものです。ようするに彼らは、自分にとって都合のいい社会になるように扇動しようとしているだけのこと。
人の自然は自分にとって都合が悪いことでも受け入れてゆくことにあるわけで、そうやって原始人は地球の隅々まで拡散していったし、だから国家という無際限に大きな集団をつくることもできた。誰にとっても都合のいい社会など成り立つはずもないし、それでかまわない。人間は理想を目指している存在ではない。どうせ世界はぼやけている。自分にとって都合が悪い条件でも受け入れ、そこから心は一点に焦点を結びながら華やぎときめいてゆく。
この社会は、すべての人々の心模様の総和とともになるようになってゆくだけです。この社会は「みんな」でつくっている。おバカな若者も障害者も病人も老人も赤ん坊も、すべての人々の心模様の総和が人類の未来を決める。お前らみたいな薄っぺらな脳みそや人格で勝手に人類の未来を決めようとするな。人類が生き延びようと滅びようとどうでもいいことです。生き延びねばならない理由なんかどこにもない。「みんな」でつくってゆく歴史の運命があるというだけのこと。ぐちゃぐちゃの世の中になってしまったって、それはそれでしょうがないことです。みんなそれぞれ、こうしか生きられないという生のかたちを精いっぱい生きている。その総和がこの社会を動かすエネルギーになっている。アジテーターの都合のいいようにはならない。滅んでゆくことは、生き延びることと同じだけめでたいことなのです。もう、どっちでもいい。
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