凡庸な思考・ネアンデルタール人論47

 たとえば最近、ある若者が近所の小学生を刃物でめった切りにして殺してしまうという事件が和歌山県で起きたが、おそらく彼の心は、この社会=世界に対する不安と恐怖でそうとうに追い詰められていたはずです。それほどに彼の意識はこの世界の隅々までくまなく焦点が結ばれていた。人間の意識はほんらい世界がぼやけて見えているはずなのに、彼のまわりの世界は隅々までくまなくクリアに見えていた。父親が大学教授だというのに自分はただの落ちこぼれの劣等生として生きねばならない。町内の住民はみな、自分のことを後ろ指さしている。彼はもう、そのことをひしひしと感じていた。普通はそんなことがわかるはずもないのに、彼にとってはもうリアルな確信であり現実だった。少なくとも父親が自分を腹の底から軽蔑しているのは確かなことで、それを町内の人々の自分に対する評価に敷衍していった。敷衍できるくらい世界が隅々までクリアに見えていた。
 世界が隅々までくまなく焦点を結んでクリアに見えてしまうことの病理。社会的に成功した者たちはそれによってリア充に浸っているが、挫折したものが同じ視線を持たされると、世界に対する恐怖と不安でいっぱいになってしまう。それはつまり自分はこの社会から抹殺されるという恐怖と不安なのだから、それを払拭するためにはもう自分が人を殺すしかないと思い詰めてゆく。この世界は自分に対する悪意と殺意に満ちていると確信している彼の観念世界においては、彼のまわりに彼に対して殺意を抱いていない人間などひとりもいなかった。彼にとって、人を殺すことは人間性の自然必然だった。
 世界をどのように見ようと人それぞれの勝手だし、人の観念世界においては、どんな見方でもできる。天国や極楽浄土があると本気で信じている人もいれば、自分はキリストの生まれ変わりだと信じて疑わない人もいる。そしてそういう人が教祖になってたくさんの信者を集めている世の中でもある。
 まわりの誰もその人のことを好きになったり尊敬したりしているわけでもないのに、社会的に成功してすっかり自分が優秀で魅力的な人間だと思い込んでいる人もいる。
 世の中に変な人はいくらでもいる。
人の観念世界なんて、いかようにもつくり上げることができるし、人を殺したくてたまらないとか殺さねばならないと思い込んだとしても、狂っているともいえない。
 ただ、世界がクリアに見えているということの病理がある。どんな見え方になるかはもう、人さまざまで、どんな見え方にもなる。
 世界中が自分を祝福していると思えるなら幸せだろうし、そんな世界こそが理想だというのなら、それが得られない人はどんどん追いつめられてゆく。そうして世界中が自分に悪意と殺意を持っている、という心模様に反転していったりする。二本の足で立っている人類はもともと猿よりも弱い猿だったのであり、そのような反転の仕方をしてしまう契機を歴史の無意識として持っている。


 原初の人類にとって世界が細部までクリアに見えているということは、外敵に襲われる不安と恐怖を募らせる事態だった。だから、そのことからの解放として、世界の一点に焦点を結んでまわりの世界はぼやけて見えているという意識のかたちになっていった。
 人間にとって世界はぼやけて見えている。
 なのに現代社会においては、社会的に成功した者たちが寄ってたかって世界がクリアに見えていることこそ人間としての成長であり自然・本質だと主張してくる。
 赤ん坊の成長発達は世界がクリアに見えてくることだ、とみんなで合唱している。
 しかしじっさいはたぶん、そうじゃないのです。生まれたばかりの赤ん坊は、まずはじめに胎内では体験したことのない新しい世界がまわりに存在することをありありと感じ、その恐怖と不安を体験することから生きはじめる。そのときもしも目が見えたら発狂してしまうことでしょう。
 生まれたばかりの赤ん坊は、しばらくのあいだ世界はぼんやりとしか見えていない。そうしてそこから成長発達してゆくということは、そのまま世界全体がクリアに見えてゆくのではなく、世界の一点に焦点を結んでゆく見え方を身につけてゆくのであり、「この世のもっとも弱いもの」である赤ん坊はそういう成長の仕方しかできないはずです。世界がすべてクリアに見えていったら、この新しい世界でのみずからの無力さをいやおうなく思い知らされ泣いてばかりいる毎日なのだから、最初の不安と恐怖がますます大きくなるだけです。
 人間の赤ん坊はほかの動物の赤ん坊よりもずっと無力な存在であり、世界の隅々までくまなく焦点を結んでゆくことなんかできないのです。しかしそのあとの幼児段階において生きることができる身体能力が発達してくるにつれて、まわりの人や社会との関係からそうした病理的で制度的な焦点の結び方を覚えてくる。たとえば過剰な可愛がられ方をしてまどろんでゆくことに慣れてしまうとか、逆に突き放され無視されて飢餓感を募らせるとか、そのへんの按配の不自然というものがあると、「一点に焦点を結ぶ」という自然を失ってゆくのでしょう。そうなるともう、世界に対する執着は強いのに世界にときめいていない、という自閉的な心模様になってゆく。まあそれが、自閉症スペクトラムという発達障害らしい。
 一点に焦点を結ぶときめきがなければ、言葉を覚えられない。自閉症スペクトラムにおいては、ときにとても知能が高いのに、言葉の発達が遅かったりする。そして大人になっても言葉の使い方が妙に変則的だったりして、人との関係がうまくつくれなくなっていったりする。
 あの和歌山県の若者も、おそらく「一点に焦点を結びながら世界がぼやけて見える」という感覚が希薄だったのでしょう。世界の細部がくまなくクリアに見えてしまって、その不安と恐怖の中で生きるしかなかった。
 秋葉原通り魔事件の加藤君とも共通する観念世界でしょうか。それは、生まれ落ちたときにすでに決定されていた世界観ではない。生まれたばかりの赤ん坊の心の世界は、誰でもそう違いはないはずです。誰もが「この世のもっとも弱いもの」として生きてゆくしかない。その後の幼児段階で何か変則的になってゆく体験があったのでしょう。
 世界が細部まで同時にクリアに見えてしまうということは、それだけ世界に対する執着が強いからでしょう。生まれたばかりの赤ん坊は、けっしてそんな心の動きはしない。そんな心の動きでは、生きていられない。まわりの世界と関係する能力がなく、そこまで移動してゆくことどころか、手を伸ばして触ることもできないのだから、その状態でまわりの世界に対する愛着など生まれてくるはずがない。母子関係などといっても、ある程度の身体能力を持ってから意識してくることです。
 加藤君や和歌山県のあの若者は世界に対する愛着が強すぎるのだが、人は、誰も世界に対する愛着を持って生まれてくるのではない。生まれたばかりの赤ん坊は、世界に対して無関心で、おっぱいが出てくる乳首という世界の一点に焦点を結んでいるだけです。誰もが、そこから生きはじめる。
 人を殺したいとか、まわりの人間が自分に悪意を抱いていると思うとか、世界との関係が近すぎるからでしょう。近すぎるから何もかもクリアに見えてしまう。幼児段階が二、三歳の第一反抗期から始まるとすれば、それは、身体能力が発達して世界との関係が近くなりすぎたことに対する不安や拒否反応によるのでしょう。親がべたべた寄っていったり支配しようとしなければ反抗など起きない。この時期に反抗しないでその近すぎる関係にまどろんでしまったりその関係をむやみに欲しがったりすることによって、世界の細部までくまなく焦点を結んでゆく意識のはたらきが育ってくるのでしょう。そうして、人の気持ちがわかっているつもりの意識ばかり発達して、そのときその場での 人の気持ちを察することができない、という妙な意識のかたちになってゆく。人と付き合うための方法論ばかり発達して、人に反応するということはまるでない。反応することができないから、方法論が必要になる。
 方法論なんか知らなくてもいいのです。出たとこ勝負で構わない。そこでちゃんと反応することができれば、関係は成り立つ。「人に反応する」とは、近すぎる関係に立ってわかったつもりになることではなく、離れて向き合いながら「印象=ときめき」という認識を汲み上げてゆくことです。
 人が他者にときめくとき、出たとこ勝負の「印象」として反応しているのであって、あらかじめ頭に刷り込んである知識で他人を分析してゆくのではない。世界の細部がくまなくクリアに見えてそれをことごとく頭に刷り込んでいったら、天才になれるし、犯罪者にもなってしまう。言い換えれば、そうやって社会的に有能になる場合もあれば精神を病むことにもなる、ということです。


 人は、根源において、世界の細部がくまなくクリアに見えていたら生きられない存在なのです。不安と恐怖で頭が混乱してしまう。いや、ほかの動物だってみな、世界がぼやけて見えながら無防備になってゆくということを生の基調にしている。だから、「食物連鎖」ということが起きている。
 秋葉原事件の加藤君や和歌山のあの若者は、世界の細部がくまなくクリアに見えすぎていた。それは、世界に対する不安や恐怖や警戒心が強すぎるということであり、その心模様をなだめるために自分の全能感を持ちたがったり、特定の他者との「共生関係=一体感」に潜り込もうとしたりする。彼らにとっての「ナイフ」は「全能感」のよりどころだったし、「世の中」に対する不安や恐怖や警戒心を払拭するためには「自分は人を殺すことができる」という究極の全能感を目指すしかなかった。彼らにはもう、社会的な成功という間に合わせの全能感を持つ機会が閉ざされていた。
 この世の中は「能力」に対する信仰で動いている。お金とは「能力」を象徴する存在なのでしょうか。百円玉には百円の能力がある。その能力は、われわれのそういう信仰の上に成り立っている。そしてホリエモンは「お金があれば何でも手に入れられる」といった。
 でもホリエモンは、ホリエモン以外の人間にはなれない。どうあがいてもなれない。君は、そのことにわびしさは感じないのか。自分以外の人間になれないということは「無能」だということなのです。なぜなら人間は「自分を忘れる」存在であり、自分を忘れてときめいたり何かに夢中になったりしている存在だからです。空を飛ぶ鳥になりたいとか、雲になりたいとか、風になりたいとか、人類はもうそんなことばかりいって歴史を歩んできた。ギリシャ人は半獣半人の神を創造したし、子供が野球選手になりたいとか、映画スターになりたいとか、看護婦さんになりたいというようなことだって、自分以外のものになりたいという願いでしょう。人間が自分を忘れてときめいたり何かに夢中になったりしてゆく存在であるということは、自分以外のものになりたい存在であるということを意味する。そしてそのことに、われわれはまったく「無能」なのです。誰も自分以外の存在になれない。なれるはずもないのになりたいと願ってしまう。それが、何を意味するのか。
 すなわち、人の心は「無能」という地平に立って華やぎときめいてゆく、ということです。そこに、人間性の基礎がある。


 原始時代に、現代社会のような「能力信仰」などなかった。言葉の起源をはじめとする原始時代の文化のイノベーションは、「知能」という能力を持ったことによって起こってきたのではない。そんな現代社会の病理的な能力信仰を当てはめて起源論を語っても真実に届くはずがない。
 それは、「無能」であること、すなわち「この世のもっとも弱いもの」という地平に立ってその限界を超えてゆく現象だったのです。全能の神を目指したのではない。無能であることに身もだえしながらその限界を超えていったのです。自分に能力があるということは、そこが自分の限界だということです。まあ、本格的な知性や感性を持っている人はそのことを良く知っているし、中途半端な俗物ほど自分の能力を過大評価したがったり、そこにアイデンティティを確認したがったりする。そういう世の中だから、全能感を欲しがって人殺しに走るものがあらわれてくる。なにはともあれ、人を殺すことの全能感というものがある。誰もが生き延びようとあくせくしている世の中であれば、人を殺すことこそ究極の全能感の達成になる。
「命の尊厳」などといって生き延びようとあくせくしている現代社会の構造にこそ、人殺しが生まれてくることの契機がある。人間が生き延びる能力を持とうとする存在であると信じられるのなら、人を殺す能力を持つことこそ全能感の達成になる。
 そういう全能感は病理であるといっても、能力に対する信仰で動いている世の中なのだもの、人を殺すという究極の能力を目指すものだって生まれてくる。つかまって死刑になることがなぜ想像できないといっても、死んでゆく能力だって究極の能力なのだもの、死刑になりたいという気持ちもどこかにある。
 原初の人類が二本の足で立ち上がることは「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になることだった。そういう歴史の無意識を持っている人間という存在においては、生き延びること自体が全能感の達成なのです。だから、そうした欲望が旺盛な人間は、すぐいい気になる。ちょっとお世辞をいわれただけでいい気になる。そういう小市民根性の中にも、全能感を目指す心模様は疼いている。
 誰もが能力信仰でものを考え生きているこの世の中が、全能感は病理だなんていえる柄ではない。能力信仰の世の中に追い詰められて人殺しを発想してゆくものたちがいる。
 誰もが生きる能力を欲しがっている世の中だが、そこに人間性の真実や自然があるわけではない。その能力信仰は人を「リア充という幸せ」に導くが、同時に能力のないものを追い詰めもする。今どきは、能力のないものまで能力信仰で生きていかないといけない世の中になっている。そうして凡庸な小市民だって「リア充=全能感」にまどろんで生きているのだが、その能力信仰が人類史の真実であるなら、人類はとっくに滅びている。能力信仰で人工知能というコンピュータをつくったら、人類はきっと滅びる。それでもそれが人類史の必然的な帰結であるのならそれでかまわないのだが、そこに人間性の真実があるわけではない。


生き延びようとすることすなわち生きる能力に対する信仰、そんな観念性が人類の文化を生み育ててきたのではない。そんな観念性で生きているから思考が凡庸になってしまう。つまらないお世辞をいわれただけですぐ「リア充=全能感」に浸ってしまう。そうして「子供はほめて育てなさい」などと分かったことをいいたがるのも、今どきの能力信仰のあらわれで、ほめて育てようと叱って育てようと同じことです。その凡庸な能力信仰が子供を追い詰めるし、親じしんもみずからのその能力信仰に追い詰められねばならない。
 ほめる必要も叱る必要もない、子供にときめいていればいいだけでしょう。子供を育てることは、子供の能力を育てることか。子供を育てることは子供を生きさせることであり、それ以上でも以下でもない。親の凡庸さをわざわざ子供に押し付ける必要はない。生きていれば、子供は勝手に学んでゆく。子供にときめくということは、子供の存在そのものにときめくことであって、能力にときめくのではない。
 能力信仰の社会では、どうしてもほめたり叱ったりしてしまう。子供はべつに親にほめられたがっているのではない。親の笑顔が見たいだけでしょう。
 ほめられるとかお世辞をいわれるとかすがりつかれるとか、誰にとってもうっとうしいだけのはずだが、現代社会はそういう「共生関係=一体感」を止揚したがる傾向がなんだか強い。能力信仰の世の中だから、人と人の関係もどうしても作為的になってしまう。
 ただもう他愛なくときめいていればいいだけのはずなのに、それが一番難しいことになっている。
 努力すればいい女になれる、夢はかなう、幸せになれる……今どきはそうやって能力信仰を合唱している。そうやってハウツー本や自己啓発本が売れている。
 能力信仰は、人の知性や感性を「リア充=思考停止」に導き凡庸にしてしまう。
 本格的な知性や感性を持っている人間ほど、みずからの「無能」をよく知っている。なぜなら彼らは、みずからの知性や感性の最大値をみずからの「限界=無能」としながらその地平を超えてきたのです。彼らは、生まれながらに知性や感性を持っていたのではない。その人生(生育環境)において知性や感性が育ってきただけです。
 人間だって、ただの生き物として生まれてくるだけでしょう。誰もが、そこから生きはじめる。そしてそこから、どんな観念世界にもなってゆく。高度な知性や感性になってゆくこともあれば、死後の世界や生まれ変わりがあると本気で信じ込むこともあれば、人殺しをせずにいられなくなることもある。
 神は人間を殺すことができる。人間を死ぬようにつくった。人殺しは、全能の神になる行為です。
 どうして全能の神という存在を信じねばならないのか。信じてしまえるのも、観念はたらきです。文明社会にはそういう観念が育つような構造(生育環境)がある。しかしそれは、人間性の自然・本質としての無意識のはたらきではないし、そこから人間的な知性や感性が育ってくるわけでもない。
 市民社会の能力信仰という凡庸が彼らを追い詰めていった。

 生活者の思想、などといっても、生活の細部のあれこれに気持ちが散乱して(=くまなく意識の焦点を結んで)、一点に焦点を結んでゆく「ときめき=集中力」を失っているだけのことでしょう。生活者の思想という生きる能力に対する信仰と執着、その思考のなんと凡庸なことか。原始人にそんな凡庸な思考はなかった。生きることなんか何かの間違いでどうでもいいことだと思っていた。「もう死んでもいい」という感慨こそ彼らの生の通奏低音(無意識)であり、心はそこから華やぎときめいていった。
 もともと人類は、生活=生きることなんかどうでもいい、もう死んでもいい、と思い定めるところから心が華やぎときめいてゆくことによって文化のイノベーションが生まれてくる歴史を歩んできたはずで、それがこのページにおける「ネアンデルタール人について考える」ということです。
 現代人はどうしても生きることに有能であろうと願ってしまうが、人間としての本格的な知性や感性やときめきは、生きることに無能であるところの「もう死んでもいい」という無意識の感慨を水源としている。
 まあメンヘラであるとか人殺しをしてしまうのはその水源が枯渇しかけているのだろうし、現代の市民社会の構造そのものが枯渇しかけている。
 本格的な知性や感性の持ち主は「無能」を生きることができるが、われわれ凡庸な人間はそれでは生きにくい社会の構造になっている。
 しかし誰だってじつは「無能」であるところで心が華やぎときめいている。それはもう、いつの時代もそうだったし。これからもきっとそうなのでしょう。
 無能を生きることはしんどい。苦労なんかしないほうがいい。心がゆがんで能力信仰に転んでしまう。苦労なんか、苦労だと思わないほうがいい。そうでなければ、われわれ凡庸な人間が「無能」であることのときめきを生きることはできない。
 人間社会の文化は、ほんらい「無能」であることを生きる装置として機能してきたはずです。そうやってネアンデルタール人は、生きられない弱いものの介護に熱中していった。この国の伝統である「わび・さび」とか「あはれ」とか「はかなし」の美意識だって、生きられない「無能」を止揚してゆく感性から生まれてきた。生きられないで消えてゆくことの美学、とでもいうのでしょうか。
 人類の文化の起源は、生き延びようとする能力信仰から生まれてきたのではない。現代の市民社会のその凡庸な思考が、多くの社会的な病理を生み出している。
人気ブログランキングへ